【ブログ注】尾上さんのメールを転載します。

【狭山ヨタヨタ白杖記】

1)第59回三者協議(4月中旬)は狭山第三次再審請求審の流れを変えるチャンス

だ。家令和典裁判長に弁護団が一時間のプレゼンテーションを実施する。3月25日

の狭山全国活動者会議での報告にびっくりした。新しい裁判長に弁護団が狭山事件の

経過と課題を説明したらどうかと提案したのは大野勝則前裁判長だと報告された。第

58回三者協議(2月27日)での弁護団のプレゼン実施提起に検察官は持ち帰って意

見を言うと反対したが、裁判所は前任者の提案を前提に実施の方向で話はすすめたい

としたという。報告の内容もびっくりだが、何よりも三者協議での裁判官の息遣いが

聞こえる気がしたことにびっくりで、うれしかった。私は三者協議での裁判官の息遣

い、顔つき、ふるまいなどが知りたいのだから。これだけでも大阪に出てきたかいが

あった。この前例を大切にしてくださいと弁護団にお願いしたい。

 今回の狭山全国活動者会議は狭山再審無実の実現に向けて重要な時期と課題をテー

マにすべき会議だった。なぜなら次回・第59回三者協議で家令裁判長に弁護団が一

時間のプレゼンテーションを実施するのだ。第三次再審請求審の18年間で、10人

の裁判官が担当したが、プレゼンは初めてではないのか。18年間弁護団は191点

の証拠開示を勝ち取り、269点もの新証拠を提出し、事実取調請求を行い、石川一

雄さんの記者会見、52万筆の署名、マスコミでの取り上げなど狭山は動き始めた感

触がある。だが、裁判所の動きはっ全く分からなかった。裁判所は何の動きも見せな

かった。見せたのかもしれないが、私は知らなかった。今回の家令和典裁判長のプレ

ゼン決定は18年目にして、ようやく裁判所の動きが表に出たのだ、この機会を黙っ

て見過ごすことなど絶対にできない。いいプレゼンを準備したい。狭山闘争にかかわ

ってきた人々のすべての知恵と力と思いを結集して、家令和典裁判長のみならず、誰

もが納得するプレゼンを作成できないだろうか。

 プレゼンで家令和典裁判長の心が動くとしたら、それは家令裁判長がこのプレゼン

に社会・世論が注目していることを知るときだ。プレゼンが裁判所で実施されるのみ

ならず、それが公開され、石川一雄さんは無実だと誰もが納得したときだ。国家とマ

スコミと地域が部落差別をあおり、利用し、加担し、無実の石川一雄さんを殺人犯に

でっち上げた部落差別事件なのだと誰もが納得した時だ。世論がプレゼンの無実・部

落差別の真実を訴える迫力を感じた時ではないだろうか。そのためにはプレゼンの内

容をどうするのか、プレゼンをどうやって社会に知らしめるかが問題になる、このこ

とが今回の全国狭山活動者会議で議論される課題ではなかったろうか。

 

2)プレゼンの内容をどうするか。まず、第三次再審請求審はこれまでの二次の再

審請求審と決定的に違う。それは検察が隠し持っていた証拠の開示を勝ち取り、無実

の新証拠が明らかになったのだから。とりわけ万年筆インク資料鑑定は鑑定人の意見

を裁判所が聞くだけですまされるのではなく、科学的に白黒の決着がつくのだ。イン

クの色の違う万年筆を同一のものとした寺尾確定判決に重大な疑義が出てくる。再審

を開始しなければならないのは当然だ。この新証拠による石川さん無実の証明は弁護

団が全力を尽くして明らかにされるであろう。真実は必ず明らかになるのだ。

 さらに狭山事件の大きな特質のひとつに、警察の被差別部落への見込み捜査、新聞

報道での予断と偏見による部落差別の煽り立て、地域住民の加担がある。黒川みどり

著「被差別部落に生まれて 石川一雄が語る狭山事件」から引用する。

 

◇『朝日新聞』埼玉版(一九六三年五月二四日)は、「「底知れず不気味な」石川 

善枝さん殺し」との見出しで一雄逮捕を書き立てており、『東京新聞』も、「犯罪の

温床四丁目部落-善枝さん殺しの背景」「善枝さんの死体が、四丁目に近い麦畑で見

つかったとき、狭山の人たちは異口同音に「犯人はあの区域だ」と断言した」と記す

。被差別部落は犯罪の温床であるとの偏見を根底に持った一連の新聞報道は、一雄を

即座に犯人と結びつけ、さらに人びとの被差別部落に対する差別意識、恐怖意識を煽

り立てていった。以下は、当時の『埼玉新聞』(一九六三年五月二六日)の記事であ

り、こうしたものは枚挙に暇がない。石川の住む「特殊地区/環境のゆがみが生んだ

犯罪-用意された悪の温床」石川の住む”特殊地区”には、毎年学校からも放任され

ている生徒が一〇人ぐらいいる〔中略〕こんどの事件の捜査の過程で、同じような犯

罪を犯す危険性を持つ多数の若者達の存在が浮き彫りにされた(『埼玉新聞』一九六

三年五月二六日、『狭山差別裁判』第三九五号、二〇〇六年二月)。ー黒川みどり著

「被差別部落に生まれて 石川一雄が語る狭山事件」の35頁から36頁からの引用

 

◇さらに同紙の同日(『埼玉新聞』一九六三年五月七日)。のコラム「ヤブにらみ」

は、「八日までに犯人を捕えよ」という見出しでこのように記す。吉展ちゃん事件、

埼玉県の女高生誘かい殺人事件など、たび重なる捜査当局のミスに批判の目が向けら

れているので、篠田国家公安委員長は六日午前緊急国家公安委員会を招集した。委員

会ではさっそく二つの事件についての捜査の手ぬかりが追及されたが、篠田委員長は

「八日の参院本会議で事件の捜査経過を報告する予定になっているから、それまでに

犯人を捕えよ」と警察当局を督励していたが、委員会が終わって間もなく所沢の捜査

本部から「現場近くに住む”犯人らしい男”が自殺した」という情報がはいった。こ

れを聞いた篠田委員長「こんな悪質な犯人はなんとしても生きたままフンづかまえて

やらねば……」と歯ぎしりをしていた。ー同情83頁、84頁から引用

 

 そして5月11日に死体発見場所の近くの麦畑から発見されたスコップが何の証拠

もなしに死体埋設に使われ、石田養豚場から盗まれたものと断定され、被差別部落青

年への見込み捜査が強化され、石川っ一雄さんの別件逮捕につながっていく。

 別件逮捕から一か月近く頑強に否認していた石川一雄さんが、再逮捕後に「自白」

させられた。狭山事件を知った方々の大半が必ず、やってもいないのになぜ「自白」

したのだろうかと質問される。無実の石川さんは警察と検察に部落差別によって教育

をうばわれた結果の「無知」に付け込まれ、刑事のウソで弁護士への不信をかきたて

られ、お兄さんを犯人だと信じ込まされ、10年で出してやるからと狡猾なウソに載

せられてしまった。家の大黒柱をとられては一家は破綻する、自分が身代わりになり

、10年我慢すればと「自白」してしまったのだ。石川一雄さんは「短歌に託して④

」で

「泣くだけ泣いても癒えることでなし 怒りの渦は 日夜 坂巻く」

と詠っている。この短歌の読んだ思いを石川さんは

「だんだんいろんなことがわかってきて、私は警察官にだまされたことを確信した。

私をだました3人の警察官に復讐心がわいてきた。首を覚悟して死刑囚である私に、

文字を教えてくれる若い看守さんに、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)という漢字を教

わった。大きく書いて、部屋の中に貼った。だまされたことが悔しくて悔しくて、い

つも臥薪嘗胆をみて自分の心を奮い立たせた。」(短歌に託してから引用)

 プレゼンにこの短歌と石川さん自身の生の声を取り込んでほしい。

 

3)プレゼンで弁護団にぜひとも重視していただきたいのは寺尾確定判決を楽差別

判決として批判することだ。鎌田慧さんはその著作「狭山事件 41年目の真実」で

寺尾確定判決を「寺尾正二裁判長による完全犯罪」と指摘されている。寺尾判決から

50年目の今日、それが現実になりかねない危機感を抱いている。寺尾正二裁判長の

、いや司法と国家がもくろむ「完全犯罪」を打ち破る道はただ一つだ。それは寺尾確

定判決を部落差別判決として批判し、狭山事件が国家による部落差別事件、権力犯罪

だということを誰もが納得するように明らかにすることではないか。そこで寺尾確定

判決を部落差別判決として批判する要点を書く。

 寺尾判決は

① 自白を離れて存在する7つの証拠と5つの秘密の暴露が石川さんと関係がある。

② 石川さんの自供は、それを聴取した警察官青木が法廷で、自分は供述のまま記述

しており、石川さんはすらすらと自供したと証言したことは信用でき、供述は任意に

なされたものである。

③ 自供と証拠の食い違いがあるが、これは石川さんが命惜しさにウソをついている

と言う。弁護団は、①は新証拠として批判し、②は再審請求の理由の追加として裁判

所に提した。寺尾判決の問題は③の石川さん嘘つき論にある。

 寺尾確定判決は、裁判で人を裁くことができる根拠を経験則からなんの確証もなく

断定した。人が人を裁くことができる根拠をわずか数行の経験則論でだ。現在の民主

主義でも人が人を裁くことができる経験則など「発見」していない。だからこそ、真

実は徹底して証拠に依存し、熟慮に熟慮を重ねて、絶対に誤判をしないが原則なのだ

。誤判の恐れが少しでもあればそれは無罪にということだ。

ところが、寺尾正二は徹底した証拠への依存でも。誤判を絶対に起こさないでもない

裁判官の「全人格的能力による合理的思考」をもってすれば真実を発見できるとする

。この思考方法は弁証法的思考をもってするから正しいという。寺尾正二は真実は徹

底して証拠に、現実に依存することから見いだされるのではなく、裁判官の頭の中で

生み出されるというのだ。この転倒した思考は狭山事件の再審請求から57年間、一

度も証拠調べをすることなく、再審請求を棄却した裁判所の姿勢そのものではないか

 

 寺尾確定判決の核心は石川さん嘘つき論にある。その論をでっちあげるために、人

はどんな状況にあっても必ずウソをつく、ましてや滞在を犯したものであれば、命欲

しさにウソをつくと論じる。寺尾は自供と証拠の矛盾を自供の不自然さの追及ではな

く、部落民だからウソをつくのだというとんでもない偏見と予断をもって正当化して

いる。寺尾確定判決は直接的に部落差別に触れてはいない。だが、寺尾確定判決の中

に部落差別を容認し、その予断と偏見に満ちた証言を採用し、石川さん有罪の証拠の

ひとつにした。それは内田幸吉証言だ・

寺尾確定判決は

「同証人が中田栄作方を訪ねて来た不審な男のことを、事件後直ちに警察へ届け出な

かった理由について、同証人が原審及び当審で供述しているところは、結局届け出る

ことによって事件とかかわりを持つことが恐ろしく、わずらわしいということに帰す

ると解され、そのような考えで届出をためらい、後になって漸く届出をするに至った

心情も理解できないことではない。所論は、隣人が被害にかかっているならば、直ち

に犯人と思われる訪問者の人相、風体、年齢その他を警察に届けるはずだと主張する

が、一般世人の人情を理解しない見解と評せざるを得ない。」

 この内田証言の寺尾判決の部分は悪質な部落差別だ。内田の「事件とかかわりを持

つことが恐ろしく」とは部落は怖いという部落差別感情そのものであり、それを寺尾

裁判長は「一般世人の人情」として理解できるというのだ。しかもそれを殺人事件の

重要目撃証言として採用している。寺尾正二の言う「裁判官の全人格的能力による合

理的思考」とは部落差別を「一般世人の人情」として認め。おのれ自身もその片棒を

担ぎ、部落差別を積極的に容認し、その証言を採用し、石川一雄さんに有罪判決を出

したのだ。

4)最後に。

① 第59回三者協議の終了後に、記者会見を行ってください。その記者会見でプレ

ゼンを公開してください。プレゼンの内容は必ず世論を動かす。狭山再審請求は世論

を動かすことにかかっていると誰もがいう。記者会見こそその重要な手段の一つでは

ないか。

② 523日比谷野音での狭山集会に参加しよう。地方からの上京の困難さは狭山闘

争が生み出した現地調査のための物資販売などの知恵と経験に学び、クリアーしよう

。せっかく地方から上京するのだから、デモ終了後に、東京高裁前にいき、東京高

裁前の歩道を「地べたの法廷」として、家令和典裁判長にアピールしましょう。(2

024年3月28日 尾上光)
……… ……… ………

【追】2月26日、NHK総合テレビ「おはよう日本」の番組の中で、朝7時過ぎに再審制

度問題に関係して、狭山事件が報道されました。

以下にその録画を貼り付けます。

是非ご覧になってください。

 

NHK(20+) 動画 | Facebook


岩本本=『党はどこへ行ったのか』関連で紹介しておきます。関西派の『未来』から。
【ブログ補足】ついでに堅実全面発展論文の見出しだけを別に紹介します。これも『未来』から。
 革命闘争と革命党の事業の堅実で全面的な発展のために
 
 本論文は、一九七三年八月『前進』に発表された。革命的情勢への過渡期の成熟に備え、革命党の三つの義務をうちだし、二重対峙・対カクマル戦の革命的対峙段階戦取の展望をあきらかにした画期的な論文である。
 
 

一 革命闘争と革命党の事業の堅実で全面的な発展のために…
タイトルからして、いかにも清水丈夫氏が大嫌いな表現にも思えます。

 革命闘争と革命党の事業の堅実で全面的な発展のために
 
 本論文は、一九七三年八月『前進』に発表された。革命的情勢への過渡期の成熟に備え、革命党の三つの義務をうちだし、二重対峙・対カクマル戦の革命的対峙段階戦取の展望をあきらかにした画期的な論文である。
 
 
 第一章 あらゆる面にわたる革命闘争と革命党のたたかいの堅実な前進
 ((A)早稲田解放闘争の全人民的な発展 (B)沖縄におけるたたかいの前進と定着化 (C)労働戦線における逆拠点化のたたかい (D)政治闘争と経済闘争での戦略的な前進 (E)あらゆる面での党建設の堅実な発展)

 第二章 戦後世界体制の解体的危機と革命的情勢への過渡期の成熟
 第一節 戦後世界体制の崩壊的危機のふかまりと世界革命の現実性((A)戦後世界体制の特質 (B)戦後世界体制の崩壊的危機のいっそうのふかまり (C)反帝・反スタ世界革命の現実性)/第二節 日帝の統治形態の反動的転換の攻撃と大衆の政治的活性化((A)日帝のアジア侵略と侵略体制の攻撃の全面的激化 (B)小選挙区制とあらゆる面での反動攻勢 (C)七〇年代階級闘争の革命的、内乱的発展)/第三節 革命的情勢への過渡期の成熟とそれに応じた党の三つの義務 ((A)レーニンの革命的情勢の規定の問題 (B)革命的情勢に応じた革命党の三つの義務の問題 (C)七〇年代中期の高揚と爆発の展望とわれわれの任務)

 第三章 革命の本格的な準備、二重対峙・戦略的前進・党建設のたたかいの一体的な推進
 第一節 基本戦略――総路線の物質化のたたかい((A)反帝国 主義・反スターリン主義の基本戦略のために (B)七〇年代革命の総路線の現実的な勝利 (C)基本戦略――戦略的総路線についての指導上の問題)/第二節 二重対峙・戦略的前進・党建設のたたかいの一体的な推進((A)二重対峙・対カクマル戦の革命的対峙段階の戦取 (b)基本戦略――戦略的総路線の物質化めざす戦略的前進 (c)革命的情勢に応じた党の独自の建設 (D)当面する秋のたたかいの圧倒的勝利めざして前進しよう)
 

ついでにその全体像も
本多延嘉著作選全七巻総目次
(2009/10/01)
 
第一巻目次
 
 (『前進』600号、601号、1972年9月11日、18日、大幅加筆『共産主義者』24号、1973年1月)
 
Ⅱ 革共同全国委員会に結集せよ
 
Ⅲ 三全総の旗のもとに
 
Ⅳ 中国文化大革命批判
 
Ⅴ 10・8羽田闘争から七〇年代激動へ
 
 
第二巻目次
 
Ⅰ 戦争と革命の基本問題
 
Ⅱ カクマル反革命打倒 反ファッショ解放戦争勝利へ
 
Ⅲ 中間主義党派批判
 
Ⅳ 天皇制・天皇制イデオロギー粉砕
 
 
 
第三巻目次
 
Ⅰ 戦略的総反攻を宣言する
  1 1・24精神を爆発させ、あらたな報復戦に決起せよ(『革共同通信』7号1974年3月4日)
  2 3・22狭山闘争の大爆発かちとり、春期大攻勢に総決起せよ(『革共同通信』9号1974年3月18日)
  3 赤色テロルの嵐で春期大攻勢の本格的激化かちとれ(『革共同通信』13号1974年4月15日)
  4 反革命虐殺者に血の復讐を(『革共同通信』18号1974年5月20日)
  5 報復戦のあらたな高揚へ(『革共同通信』22号1974年6月17日)
  6 カクマル印刷所ホヲトクついに崩壊(『革共同通信』28号1974年7月29日)
  7 機関紙戦争の完全勝利を突破口に反革命中枢機関を解体せよ(『革共同通信』41号1974年10月28日)
  1 『武装』の発刊にあたって(『武装』創刊号1974年2月5日)
  2 前進社第二ビルの革命的開設に際しての革共同政治局の訴え(『革共同通信』33号1974年9月2日)
  1 吉川文書にみるカクマルの惨状(細川耕一の筆名にて(1)『革共同通信』8号1974年3月2日(2)同10号 3月25日 (3)同12号 4月8日 (4)同15号 4月29日 (5)同18号 5月20日 (6)同21号 6月10日)
  2 「松井文書」にあばかれた反革命カクマルの腐敗(『革共同通信』42号1974年11月4日)
 
Ⅱ 狭山闘争の歴史的な勝利のために
 
Ⅲ 中ソ論争と現代革命の展望
 
Ⅳ 紀元節複活と日本帝国主義の危機
 
Ⅴ 書評
 
 
 
第四巻目次
 
Ⅰ 戦略的総反攻―その勝利の展望
 
Ⅱ 安保闘争論
 
Ⅲ 東欧におけるスターリン主義の没落
 
 
 
第五巻目次
 
I 勝利の武装進撃を
 
Ⅱ 革命的共産主義運動の理論と歴史(第一篇)
 
Ⅲ 革命的共産主義運動の理論と歴史(第二篇)
 
Ⅳ 日本共産党批判
 
Ⅴ 国際論評
 
 
 
第六巻目次
 
Ⅰ 戦争理論の深化のために
 
Ⅱ 反帝・反スターリン主義世界革命戦略
 
Ⅲ 第三回大会への同盟の歩み 
 
Ⅳ 六七・十・八羽田闘争へ――党建設と諸闘争
 
Ⅴ 大学闘争論
 
 
 
第七巻目次
 
Ⅰ 七〇年代・革命の時代
 
Ⅱ レーニン主義党組織論
 
Ⅲ 現代革命と史的唯物論の再建
 
Ⅳ 安保体制にかんする覚え書
 
Ⅴ 十・八羽田から六八年新宿騒乱へ
 
Ⅵ 破防法裁判闘争
 
 

【白土メモ】
①在日韓国・朝鮮人と在日中国人の法的・社会的地位を同一に表現しているが、不正確だ。
 「戦勝国民」と「敗戦国民」と「第3国人」という国際法的な概念は欠かせない。これは故石原慎太郎が悪意に満ちてまき散らした言葉でもあり、「必須の知識」でもある。
 ひとまず 台湾人日本兵 - Wikipedia
      林歳徳 - 検索 (bing.com) ★⇦【ブログ補足】
②イデオロギーや思想の次元での自己批判の論理
 このレベルでは、『党はどこへ行ったのか』と直近の『前進』論文は、ほぼ同様な視点に立っている。関西派の入管論の総括論文も、長大であるがほぼ似たような感じがする。

③「求められていたのは地域的・持久的・陣地戦的な闘いの方針…」こそもう一つの核心だ。当ブログで繰り返しこだわってきた「第2の7・7自己批判」と「地域入管闘」の問題だ。『党はどこへ行ったのか』という活字化された著書の中で表現されたことはことさら大きいと思う。中央派・清水氏はけして語ろうとしない領域だ。私はこれこそが「血債の思想」に関わる分岐点・分水嶺だと思ってきた。

④突破口に、諸戦線が構築(略)いわば中核派の世界観の転換=「コペ転」の起点と言える。

⑤さて、そうであればあるほど『党はどこへ行ったのか』への絶望的批判は深い。
 清水氏が「…階級的倫理性の問題ですらある。…」とまで言いながら、90年代も相も変わらず地域入管闘という実践的・「陣地戦」的課題の解消・凍結を変えることなく過ごしたこと、このことへの片言隻句の批判すらない。これではせっかくのも意味をなさない。

 とは言え、本『党はどこへ行ったのか』の中やその他で、本多延嘉氏の、幻の『党の堅実で全面的発展』論文の再評価・高い評価を論じている場面もあるので、それに任せて「端折った」と言われるのかとも思えない訳ではない。これもまた、「分量」の問題???とは言え…

⑥この辺について、いくつかの声を紹介してきたい。
 元入管闘「元台湾人日本兵の支援を続けて来たけど、大事なことは生活、仕事の斡旋だったんだよな。法政の守衛を繋いでみて初めて分かった」
 韓国人女性と結婚した元同志「白土よ、お前の書いた”地域入管闘”の”世話役”の話はホントだよ」「神奈川の入管担当の六月もよく勉強しているけど、今回はぜんぜん使い物にならなかった」「結局は俺自身で調べて、俺自身で出向いて、やっとのことでたどり着いた」「途中で挫折しかかった」
 元神奈川 「90年代に関東地方委員会(KC)で、激しい”労働運動論争”があった。こちらは「現場を踏まえて、現場からの声を引き出して」にこだわった。対するは地方委員長の木崎ほかだった。「いわばこちらが『労働運動派』、木崎らが『血債主義派』みたいに言われた」。「だいぶ後で中野路線」が力を持つと、木崎も一変して労働運動派=動労千葉特化路線に豹変した。立場がなんか入れ違ってしまった。けども、全体を通して変わらなかったのは、「上からの」「天下り」の路線か「現場重視」かだったんだよね。

韓国スミダに対する支援への制動
 90年代、日本でも電機労働者の女性たちを先頭に、多くの労働者・労組が支援・連帯に立ち上がった。
 この時、入管闘を仕切っていた「高山」の通達が衝撃を生んだ。
 事実上政治局からの指導として「メンバーが運動に関与する時はそのつど詳しい報告書を提出しろ。
 上からの許可なしに韓国人労働者との接触をするな」という「指導」だったという。
 指導的メンバーから話を聞いた時は耳を疑った。理由や口実はいろいろある。当時の韓国の政治情勢、中核派の公安との「死闘」…。いずれにせよ、中核派のメンバーは、韓国労働者とも在日とも連帯・接触するな、と。⇓ 民主労総との連帯運動を詠う昨今、変われば変わったものだ。昔日の感。

 韓国の労働者と日本の連帯者の人生を変えた闘争 : 文 …

ウェブ2022年8月6日 · //ハンギョレ新聞社. 1989年、日本のスミダ電機の子会社は韓国の工場に1枚のファックスを送り、450人の解雇を通知する。 これに怒ったチョン・ヒョンスク、パク・ソンヒ、チョン・スンレ、キム・スンミの4人の労組幹部は、8カ月にわたる日本のスミダ本社前での …

【まとめ】


【まとめ】幾多の「血債論」の存在とその変貌
 ひとまずのまとめとして、今日「血債の思想」を語る人たちにもいくつかの決定的違い・対立を含んだスタンスがあると言うことがわかると思います。


【ブログ補足】……… ……… ………

①関連部分です 当ブログから。技術上の都合で一貫した表現になっていませんが。……… ……… ………

 新年号論文①「血債論」のリサイクル 【改定】  ...

【お詫び】長くなったので【白土メモ】は別記事に移しました。
 岩本本⑤三つの「血債論」【白土メモ】イデオロギーと運動と
http://yuigadokuson999.livedoor.blog/archives/24356208.html
 
 岩本氏の『党はどこへ行ったのか』についての書評の紹介をもう一つ。

新刊紹介 : 岩本愼三郎著『党はどこへ行ったのか 私と革共同』

赤松英一

 ウクライナ、パレスティナ、ミャンマーなどの激しい戦乱と抵抗・解放の闘い、アメリカ、ロシア、中国などの奥深い混迷と危機、自民党政権の底知れぬ腐敗と悪政などを見るにつけ、(欧米における新たな社会運動の広がりと対比しても)日本における社会運動の長い低迷に心が重くなります。

 もちろん、そんな中でも沖縄(辺野古や南西諸島前線化)や原発さらにパレスティナなどの政治課題や身近な社会的課題に少数でも声を上げ、行動を続ける人々が存在していることは確かであり、心から敬意を表します。

 と同時に、60年代後半から70年代初頭までの時期、日本でも青年・学生を中心に、その世代における意識的部分の主流が革命を目指す運動を激しく展開しながら、それが敗北・挫折し、発展させられなかったことの総括が必要であることを強く感じます。【以下略】
以上、レイバーネットからの転載です。

   新刊紹介 : 岩本愼三郎著『党はどこへ行ったのか 私と革共同』

 
'――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『党はどこへ行ったのか』に見る「血債論」
 全部で2頁程度なのですが、ひとまずはおおむね4割分くらいを引用する。
 段落は当ブログでつけました。漢数字と混在してしまいましたがご愛嬌。

【以下引用】……… ……… ………
第Ⅰ部 光と影の幾歳月
 第2章70年安保・沖縄闘争という挑戦
  7・7自己批判と血債の思想 (40ページ)
 安保・沖縄問題を中心に70年闘争を見てきたが、7・7自己批判問題については追加する必要がある。
 七〇年七月七日の盧溝橋事件(日帝の中国侵略戦争への全面突入)から33年目の日に、在日中国人青年らの組織である華青闘(華僑青年闘争委員会)が、革共同をはじめとする70年闘争に参加している新左翼党派に対する糾弾闘争に立ち上がった。
 直接のきっかけは革共同の1メンバーの発言だったが、中身は要するに、お前たちは日帝のアジア侵略の歴史を本当に分かっているのか、在日中国人、在日韓国・朝鮮人の置かれている困難な現状、その法的地位、入管問題の大きさを分かっているのかという深刻なものだった。
 このとき本多は破防法で獄中にいたが、残された革共同指導部は清水を先頭に全力で、誠実に自己批判した。革マル派の「被抑圧民族迎合主義」などという悪罵をはねのけて、革共同は70年闘争を視力をつくして戦い抜いたからこそ、このような在日の糾弾を受けたのであり、これに対して徹底的な自己批判を貫徹しえたのである。

 在日、特に在日韓国・朝鮮人は、戦前は「帝国臣民」だったが、戦後は一切の権利を奪われ、47年5月2日、つまり新憲法施行の前日に出された最後のポツダム勅令・外国人登録令によって「外国人」にされた。戦後憲法・戦後民主主義は、沖縄に続いて在日を排除し、以降在日中国人を含め、これを過酷な入管体制のもとにおくのである。

 革共同はこの批判に応えて「入管決戦」方針なども出すが、求められていたのそうした政治カンパニア方針ではなく、地域的・持久的・陣地戦的な闘いの方針だった。
 そしてこの入管問題の焦点化を突破口に、部落、沖縄、障がい者、女性などの諸戦線が革共同内に構築されていった。

 差別と排外主義との闘いがその後たえす課題となり緊張を生んだ。ここには行き過ぎが生まれ、混乱も、過ちも生じた。組織内外における「糾弾主義的」な言動である。
しかしそれは徹底した討議で正していけばよかった。この自己批判=「血債の思想」の重要性について革共同は、その後も長く再確認し、反芻し続けてきた。例えば清水は、98年10月に書いた論文(清水著作選第2巻序文)の中で次のように書いている。
 「…階級的倫理性の問題ですらある。…」【以下略】【以上引用】

【ブログ注】
 【白土メモ】は紹介記事などを含めるとあまりに長いので、以下は別途記事に移すことにしました。

岩本本②の続き=転載分……… ……… ………
③の続き
 言いたいことは、80年代の中核派は、「革命軍戦略」という「単一路線?」であり、三里塚基軸論=排他的・単一基軸(路線)論で押し通してきたことだ。ここでは「準基軸」ともいえる課題として、杉並区議選・動労千葉・部落解放運動=同志会・解同荒本支部があったのも事実だ。
 しかし動労千葉に関しても、その評価の軸は、反対同盟との「労農同盟」を担う、ジェット燃料輸送阻止を闘う動労千葉、と言う面をほぼ一歩も出ないものだった。「反合闘争」「高石闘争」などへの共感や国鉄労働運動や民間労組への共感など、動労千葉がいくら語っても帰ってこない。そんな「政治主義・路線主義」の延長上にしかなかった。少なくとも「党員大衆」の世界では!労働者党員にとっては、情けない屈辱の日々?もちろん、それに従わない少なからずの人もいたことも忘れられない。
 そんなことを前提にして書いてくれたらね!ま、これも分量が溢れるけど。

④最後に一番言いたいこと
 「いつまで『党が党が』と言ってるんだよ!」
 「正しい党」なんてどの面下げて言うのかね?

 本多さんはとっくにいない。あれからもう50年近くになる。レーニン?百年前の話だ。

 「革命党」とは究極は「武装蜂起の党」であり、「内戦・国際戦争」に勝ち抜き、権力を奪取するために何が何でも生き残る「党」のこと。
 残念ながらそんな党を私はもはや構想できない。
 せいぜい、10数年、大衆に溶け込み、世俗的にも複雑な判断と対策を立てられる運動が出来たらと、想いを巡らすだけだ。

⑤そして結論
 なぜ中核派は真っ向から党内論争・党内闘争ができなかったのか?
 どのように、でもいい。
 なぜ中核派はまっとうな「分裂」がなかったのか?

 下記の部分に、ひとまず10次に渡る中核派の「分裂史」を紹介します。
 加えて06年3/14からの関西派と九州はの分裂と「血債主義者」の排除、最後に東北地方委員会のEL5派を入れると十数次の分裂・粛清を重ねてきたことになりそうです。

 言いたいことは、どちらが正しいかとか、という前に、主張ややり方や体質が折り合えず、共存できなくなったら分裂するしかない、ということ。その気になったら、後でまた合流すれば済むことでもある。
 もう一つ。党派闘争も党内闘争も「カンパニア」「囲い込み」は不可欠だということ。
 それぞれの「私」がどちらを選ぶ、ということが「原則中の原則」のはずだ。
 しかし現実には、「排他的囲い込み」が先に立つ。この「囲い込み」は多くの知恵と努力の結実でもある。そして「暴力的」だ。
 実際の分裂を見ると、一方を選んだ人が、時を経て他方に鞍替えするということは極めて少ない。難儀なのだ。
 政治指導部ですらそうで、ましてや「末端や現場」の人にとっては、「結婚相手の選択」も「離婚の自由」もない、というのが実情か?
 じゃあどうする?「自立した共産主義者の結集体」。絵空事か???
 
 「生きる知恵」…かも?
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 2017年01月13日

  2017年01月21日

 

 

 (この項終わり)

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