孫引きの形になりますが…
津村さんからの無断借用です。
コピペのため、一部文字化けしています。
【以下転載】
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 HP管理者 津村

 

小野田襄二の批判今井公雄

 小説家の今井公雄氏のホームページに「左翼過激派の20

その文学的考察」と題する新左翼運動20年の総括が昨年から連載されております。

 最新(07年3月)号では、その第5章で中核派に対する4つの

批判をとりあげ、その1つとして小野田襄二の批判が検証の対象

になっております。

 今回、今井公雄氏のご了解をいただき、小野田にかかわる部分

について本HPに掲載出来ることになりました。快く転載をご了

解してくださった今井公雄氏のご厚意に感謝します。また、小野

田書店では原文そのままに掲載しているつもりですが、全体をご

らんになりたい方は、

 今井公雄のホームページ、今井公雄のホームページ}

を訪れてください。

 

5章 4つの批判

1. 小野田襄二の批判

1) 「体験的政治論」まで

 中核派の学生担当政治局員だった小野田が組織を離脱したのは10

・8羽田闘争を直前にひかえた67年の10月のことである。離脱した

理由はいろいろとあるが、つまるところ、中核派に統一戦線論がな

いこと。正確にいえば、中核派の統一戦線論が革マル同様の「他党

派解体のためのものでしかなかったこと」に対する絶望が最大の理

由だった。離脱後の小野田は、彼を支持する仲間と語らって小規模

なグループを結成し「それなり」の活動を続ける。中核派にとって

みれば初の分派が結成されたものとみてよい。その結果は初の内ゲ

バによる犠牲者を生み出すことになる。69年9月に芝浦工大大宮校

舎内で中核派の学生が襲われ、転落死するという事故が起る。のち

に陰々滅々となる内ゲバとは異なり、この事件は逃げ損なった結果

の事故死であるとはいえ、内ゲバが死者を出したという意味では初

のケースだったのは確かである。襲撃したのが小野田グループだっ

たことは明らかだったようで、この事故を機に小野田は学生運動の

現場から去り、絶望的な「総括」を試みることになる。その成果は

前述した「体験的政治論」に結実するわけだが、その中身に入る前

にそこに至るまでの小野田の思想遍歴について少し振り返ってみる。

 

 

?期:6769/『遠くまで行くんだ』に依拠して手当たり次第に切

れ端を粗製乱造している。いってみれば革共同=マルクス主義との

見栄も外聞もない格闘期である。マルクス経済学批判を試み、その

手だてとして宇野経済学のおさらいをしてみたり、黒田批判を試み

るなどをしているが、見るべき論攷はない。

 

?期:7580/『劫{カルパ}』と『現代思想』(創刊号で廃刊?)

に依拠して「吉本隆明論」(2〜4号)と「体験的政治論」(5号・

6号)を書くことに専念した時期である。

 同人誌だった『遠くまで行くんだ』と異なり『劫』を純然たる個

人誌にしただけでなく、1号と2号以外は右の2つの論攷だけで構

成されており、ぶれがなくなり焦点が定まっていることに特徴があ

る。?の時期があってのことだが成果は如実に表れており、小野田

が思想的にもっとも充実した時期でもある。その自負があって、

『劫』に連載した2つの論攷に取り組むことをもって小野田は「思

想家」として再出発することを決意している。

 

 小野田の吉本批判にここで紹介すべき中身はない。が、「マチュ

ウ書試論」批判の過程で田川建三に目を通したことは大きな意味を

もつことになる。近代がキリスト教文明によって形成されたことに

ついてつかむことができたからだが、そのことは「体験的政治論」

に直結することになる。

 

 田川の作業で評価されるべきなのは小野田が「一冊だけを読んだ」

とする前掲書ではない。イエスを革命家として描いた『イエスとい

う男』(80年3月)であり、そのようなイエス像を描くことを可能

にした『マルコ福音書 注解』(72年1月)である。せっかく田川に

目を通しながら前掲書1冊で済まし両書に目を通さなかったのは

「思想家」としては致命的な弱点であり限界でもあり、そのことが

のちの小野田を規制することになる。「マチュウ書試論」批判のカ

ギはマルコ伝にあるからだ。が、それでも小野田は次のように言い

切れる立場を獲得することができた。その成果はあとで紹介する

「体験的政治論」に結実することになる。大事なところなので、小

野田が吉本批判からなにを学び取ったのかについて、いま少し引用

しておく。

 

 マルクスは、こういう人間の出来具合いをしかと見届けなかった。

そして、この世には、「支配と被支配の関係がある」というたしか

に冷厳な現実を現実だと言い張った。(略)

 階級社会であるとか、疎外されているとか、搾取されているとか、

現実の秩序を悪と断ずる心情でみている。マルクス主義から、現実

の秩序を悪と断づる心情を取り除いたならば、マルクス主義はその

根拠を失うであろう。

 

 こう言い切った時点ですでにマルクス主義からの訣別は果たされ

ており、それは以下に紹介する「転向声明」につながっている。

 

 ところで、マルクスの思想は、「自分で自分に対処する」ことを

奪い、しかも心理的障碍感覚を強迫し、助長させる。秩序から疎外

された感覚に向かって、「現実の秩序が疎外されていること」へ眼

を向けさせようとする。その結果、何が起こるか。全てが、現実の

秩序の疎外に帰着され、個人の責任が抹殺され、人間を秩序の奴隷

に仕立てることだ。失敗者が成功者を妬むこころは、人間から取り

除くことのできない卑しさであろうが、そういう卑しさから克己す

ることの代りに、妬みを助長させ、ついには憎悪にまでかりたて、

それをもって、人間の実存だと語り出す。怨みとか、嫉妬とか、憎

悪というものに、倫理的動機を与えた点で、マルクス主義は、キリ

スト教の申し子に違いないのだ。

 

?:03/『革命的左翼という擬制』を公刊。

 同書の6割を占める冒頭の2つの章は、かつて小野田が書いた

「革共同との訣れについての省察」という副題をもつ?期に書いた

「体験的政治論」を要約する形で再録したものである。基になった

論攷は原稿用紙に換算すると約700枚。それだけでゆうに1冊の

本になる長大なものを同書では3分の1程度にまとめている。ただし、

そのまとめ方はほめられたものではない。原文にあった若さゆえの

生気がみなぎっている部分がことごとく抜き取られている一方で、

還暦を過ぎたものの優位性が生かされた手直しがされていない。ひ

とことでいえば旧稿にみなぎっていた己との間で必至に格闘する姿

勢がかけらさえもなくなっているからだ。同書は、捨てるべきもの

を残し、残すべきものを捨ててしまった「愚書」の典型である。

 

2) 「体験的政治論」に見る中核派批判

 小野田は、「体験的政治論」のあとがきでこの論攷をものにする

ために精根尽き果てたことを告白し「神よ、私に力を授け給え。私

は神にすがりつくしかありません。」とむすんでいる。また、「私

も、思想家という人種のはしくれとして人生を歩み出すことを覚悟

して五年経った。四十歳に達して、漸く、一つの事をそれなりに物

にしえたような気がする。」とも書いている。にもかかわらず、こ

の論攷を書いてからあとの小野田はおよそ「思想家」らしい仕事を

することなくあたら才能を浪費しつづけ、現在に至っている。その

こともあって「体験的政治論」は誰からも検証されないままに見捨

てられている。憑かれたような文体であるうえに700枚の長文で

ある。そこにもってきて、前述したような愚書として再版したこと

から顧みる人がいないのはやむをえないところがある。

 右のことに、左翼過激派がこの国の歴史に果たした功罪はすべか

らく小野田が戦線から去ってのちに顕在化したものであるという問

題が加わる。評論家家や学者としてならいざしらず、自らが関与し

なかった政治について政治家であることを放棄したものが「体験的

政治論」を語ることはできない。小野田には酷になるが、その現場

にいなかったものには、その経験がないゆえに「体験に基づく政治

論」を語ることはできない。その場にいなかったものには、語りよ

うにも語るべき糧がないのだ。

 このように多くの弱点を抱えてはいるものの中核派批判、総じて

左翼過激派批判としては、私が見たかぎりではもっとも本質に迫っ

た問題提起を小野田はしている。で、いささか長くなるが「体験的

政治論」の紹介を兼ねて小野田の批判を検討する。

 

a.小野田の前提

 先にもふれたように、中核派という組織はボリシェビキ党を規範

として全てを律することを目指した組織であり、ボリシェビキがそ

うであったように党首である本多書記長あっての組織であった。し

たがって、小野田の批判も必然的に本多書記長が抱えていた問題意

識に絞られることになる。なにぶんにも700枚を超える長文であ

る。本多書記長にかぎっても小野田は多くのことについてふれてお

り、その全てについて検討する余裕はないし、その必要もないと思

う。で、ここでは2つの問題に絞って小野田の批判を見ることにす

る。が、そこに入る前に小野田がこの論攷を書いた前提となること

について紹介しておく。それは、政治がもつ困難さについてである。

小野田は政治がもつ困難さについて次のように指摘する。

 

 何といっても政治というものが難しすぎたのである。何故、政治

というものは、これ程難しいのか。この十余年、私は考え続けた。

実は、政治というものは、哲学、芸術、数学、自然科学といった、

自立度の高い、いわば第一義的文明ではないのである。まさしくそ

れらとは逆に、政治というものは自立度を欠いたものであり、その

ことごとくを他の文明に奴隷的に寄り添うほかない文明なのだ。政

治というものには、本来的に固有な領域は無いのであって、われわ

れが、政治に切り刻まれていった事も、仕方なかったのだ。政治と

いうものを、政治に飛び込んだ人間の想い入れを排して、社会的客

観としてとらえれば、機能、もっと露骨に言えば円滑機能にすぎな

いのであって、政治の実質というのは、全て他の文明に依存してい

るのだ。

 

 「政治」というものの本質にかかわる指摘としていえば、右の指

摘が十全なものであるとはいえない。政治が「円滑機能」であるこ

とは確かだが、それが全てとはいえないからだ。にもかかわらず、

小野田はここできわめて重要なことを喝破している。それは、政治

の「難しさ」にからむ問題として政治が学問や芸術などのような自

立度の高いいわば「第一義的文明」ではないことを指摘しているこ

とである。言い方を換えると、政治を批判する場合に忘れてはなら

ないこととして、現実の政治がなんらかの独立した体系をもつもの

でないことを、小野田は指摘しているのだ。議論を先取りしていえ

ば、そうであるゆえに小野田は中核派批判を「体験的政治論」とし

て書いたのである。加えていえば、第2部と3部が予告したままで

未遂に終わった根拠もここにある。

 

b.小野田批判のキモとなるもの――その1

 小野田の中核派批判にはキモとなる箇所が2つある。1つは以下

に紹介するマルクス主義を革命理論として成立させた根源にある恐

慌必然論である。

 

 小野田はこの問題に対して「マルクス主義革命家が、現代資本主

義論を打ちたてるにあたって、帝国主義戦争必然論、恐慌必然論を

打ちたてたのは、実に、そのことによってのみ、革命を具体的に展

望しうるという点にある。」とし、「だが本当に恐慌は必然なのか。

ましてや帝国主義戦争は必然なのか。必然でないと困るといった当

為を取り除いた上で、なおかつ必然であるなどといえるのか。」と

問題をたてる。そのうえで小野田は世界恐慌も帝国主義戦争も、第

2次世界大戦を経たあとは期待できなくなったことを指摘する。世

界恐慌も帝国主義戦争も期待できないとすれば、マルクス主義を信

奉する革命家はどうすればよいのか。

 1つは全てをスターリン主義のせいにすることであり、もう1つ

は革命を彼岸化することであったと小野田はいう。

 

 それでは、われわれは、戦後の資本主義の蘇生という現実にたい

して、どのような理屈をたてたのであろうか。革共同のたてた理屈

とは、スターリン主義による革命の裏切り論にほかならない。つま

り、資本主義が変貌したのではなく、革命の敗北――革命のスター

リン主義的変質が、戦後の資本主義の蘇生を可能ならしめたという

解釈である。

 

 私は、反帝反スタなる標語の語呂合わせなどする気はないので、

事の要点のみ取り上げる。反スターリン主義の理論は、戦後におけ

る資本主義の驚異的発展という、それこそ革命の死活問題に取り組

むべきところ、それから眼をそらしたのである。革共同の職革は、

革マルとの分裂後、多かれ少なかれ、その事の思想的劣性に気づか

ざるをえなくなった。この負い目の意識が、六五年前後、一時的で

はあるが、岩田経済理論などという出来損ないの理論に傾斜すると

いう、世迷い事を生じさせもしたのである。

 

 上に見たように、中核は世界恐慌待望論の危うさについて懐疑を

抱えたまま、とりあえずはスターリン主義にその責任を押しつけて

はみた。しかし、そうはいかない事情があった。その事情について

小野田は次のようにいう。

 

 結局のところ、革命の敗北、階級闘争の敗北によって資本主義を

延命させ、繁栄させたという仮説が正しいとしても、そのことは資

本主義が自らの生命力を失ったということとは別の事を意味しはし

ないか――いかなる事を原因にしようとも、ともかくも、装いを新

たに整備しなおす力を資本主義は保有しているということを否定し

ようがないのだ。

 

 このことは、反スターリン主義理論への懐疑をもたらさずにはお

かない。何しろ、革共同の職革は、先進国において革命は全て失敗

し、後進国においてのみ革命が成功したという冷厳な現実に苦しみ

つづけた。だから、先進国における革命の敗北が、スターリン主義

の裏切りなどによって説明のつかぬことを、だれもが胸の中で感じ

ざるをえなかった。誰もが、反スターリン主義理論などで片がつく

ものではないことを肌で感じ取っていったのだ。こういう懐疑には

出口というものが無い。まさか、第三革命論というような、知性を

欠いたみえみえの理論にとびつく訳にはいかないからだ。結局、萎

縮と臆病にかりたててしまうのである。このような時、どこか無責

任になり切って、懐疑をあっけらかんと跨ぎこしてしまえば、随分

と救われたのだが、気質という奴は悲しいものだ。他人にできる事

でも、そういう訳にはいかない。

 

 ここの小野田がいう「懐疑をあっけらかんと跨ぎこ」すというこ

とは、どういうことか。それは、60年ブントの指導部がやったよう

に、そもそもが革命などというものはじめから幻想だと割り切るこ

とにほかならない。しかし、60年ブントを乗り越えるものとして出

発した革共同には、それはできない相談だった。ここからの道は2

つに分かれることになる。一つは革命を彼岸化する道であり、もう

1つは現実の革命をクーデタと考え、その技術の問題に切り縮める

道である。黒田は前者を選び、本多書記長は後者の道を選ぶことに

なる。黒田には、本当に恐慌は必然なのかという懐疑的問いそのも

のがない。このようを問い自体を、客観主義、プロレタリア的自覚

の欠如、場所的立場の欠如などというシンボルの操作によってと一

蹴されてしまうからだ。一方の本多書記長には、本当に恐慌は必然

なのかという問いがあった。が、そうであるがゆえにその種の懐疑

については封じ込めざるをえなかった。思想家にとってそれはして

はいけない禁じ手だが、革命家はそうしないことには身が持たない

逃げ道になる。

 

c.小野田批判のキモとなるもの――その2

 私が知るかぎりの本多書記長は己を知っている人物だった。そう

信じて疑わないできた。だから、銀座の喫茶店で面談をしたあとに

「この柳の数だけ(敵の指導者を)吊さなければならないんだ。」

といわれたおりにも私は本多書記長が本気でそう考えているとは思

わなかった。東大安田砦攻防戦のあとにおこなわれた地区委員会の

会議で本多書記長の言として「機動隊員と組み討ちして落下死する

ぐらいの覚悟がない。」ということが強調されたおりにも、それは

建前を述べたに過ぎないものとして受け止めた。私が知るかぎり、

そうした発想をする人だとは思えなかったからだ。そうであっただ

けに、なぜ、学生運動にあそこまでこだわったのかについては不可

解だった。爆弾闘争を本気でやろうとしたことに至っては、不可解

を通り越して錯乱としか思えなかった。その疑問に対して小野田は

かなり明解にこの論攷で解を出している。小野田がおこなった本多

批判の2つめのキモは、レーニンを規範にすることにおいて信仰の

域に達していた本多延嘉の実像である。

 

 小野田は私が先に愚書であるとした『革命的左翼という擬制』で

本多書記長を教わることが多かった人物として描くと同時に、「醜

い」「この矮小さ」「狭さ」ということばを使ってその実像を抉り

出している。この「愚書」に意味があるとすれば、「醜く、矮小」

ですらあった本多延嘉の実像を白日の下にさらけ出し、等身大の本

多書記長の姿を示したことにある。以下、小野田が描いた本多書記

長の実像について見てみよう。

 

 本多書記長は、党派抗争において、暴力的威圧、ましてやリンチ

というものを毛嫌いしていた。それは彼の生理であり、もともと革

共同というのは、リンチに限らない、およそ政治にまつわる血なま

ぐささや徒党的発想を生理的に受けつけない体質をもっていた。

 ところが、全く馬鹿馬鹿しい限りであるが、本多書記長は、己れ

のこのような気質というものを、政治指導者としての欠点であると

考えていた。本当にそう考えていた。

 

 では、なぜ本多書記長はそう考えたのか。それは次のような本多

書記長の資質がなせるわざだったと小野田はいう。

 

 本多書記長の最も優れた政治資質というものは、「革共同などに

革命党としての資質などありはしないのだ」と、革共同をも、自己

をも突き放したところから、政治を構想するところにあった。その

意味では、新左翼運動が生んだ稀有のアジテータではない政治家で

あった。正確には、アジテータたることに本領をおかぬ政治家であ

った。と同時に、そのことは、本多書記長をおそろしく苦しめた。

 革共同への絶望と背中合わせにしながら、そして自己の政治資質

への絶望を噛みしめながら、しかし、手持ちの駒でやるしかないの

――これが、自ら書記長と認じた彼の宿命の場所であった。実は、

このような場所に立たされた彼が、政治的野心家でも、政治的ロマ

ン家でもなかったことが、彼をおそろしく苦しめたのだ。

 己に欠けるものを自認した指導者は、それを補佐役によって埋め

ることが問われる。小野田によれば、本多書記長はそれを清水丈夫

に求めたという。

 

 私は、清水政治局員の政治の型というものを、どうにも認めるこ

とができなかったのである。……ところがである。この点において、

本多書記長と私とでは、歴然たる意見の食い違いがあった。本多書

記長は、清水政治局員の政治資質を政治局にとって必要な政治資質、

いやそれ以上なものとして、清水政治局員だけにある貴重な政治資

質と考えていた。しかも、自らの政治資質の欠点を補うものを清水

政治局員のなかにみていた。

 

 小野田がここでいう清水の「政治の型」とは、党派党争において

は相手に弱みを見せるべきではない。弱みを見せないためには相手

を先に攻めるとする発想を指している。この発想から清水は3派全

学連による統一行動の上に党派闘争を位置づけ、解放派の指導部に

対してテロをもって先制したわけだが、本多書記長はその現場に居

合わせることによってそのことを追認したのだ。局外にいて俯瞰す

るかぎりで力を発揮する本多書記長だが、こと現場で陣頭指揮に立

つとなると無能この上ない資質の持ち主であるにもかかわらず、で

ある。小野田によると「本多書記長が仁王のように聳えるようにな

ったのは」67年の杉並都議選あたりからで、このあたりからヒステ

リックになり、常任活動家への恫喝が始まったという。先に挙げた

東大安田砦攻防戦のさいの発語は、小野田の指摘を裏付けるものと

して考えれば得心がいく。

 

(お断り 行・列文字数、改行・段落など構成は HP管理者 津村

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 【以上転載】