天田三紀夫元書記長が逝去

   323日。葬儀も神奈川で。党員・本社からも参列。

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 天田さんが亡くなったそうです

 介護から解放されて、木崎さんが復活するのを、現指導部が許すのか否か…

 それにしても、結局長生きした者が都合良く歴史を偽造していくんでしょうね

 清水さんの悪運の強さ、無責任さ、卑劣さ等を改めて思い知らされました

 

『前進』

 紙面ではだいぶ遅れて掲載されたけど、WEB上ではまだアップされない。

 で、一応、お知らせとして、アップします。

 

白土

天田さんにはいろいろありましたが、個人の話としては…


①私の前橋高校の先輩でもありました。

 1940年生。58年前高卒10回生。翌59年梨大工入学63年卒。石播就職,

 65(同労組?)の専従?

エンペディアに少し加えました。⇒天田三紀夫
 71年に私が神奈川に移籍した頃は、相鉄線の二俣川に妻子と共に住んでいてそこでよく会議をしていました。子どもを幼稚園に連れて行くのも彼の日課でした。中核派の専従になったのは6911月で逮捕·保釈後しばらくあと、という記憶です。(不正確ですが。それとエンペディアは未決拘留と下獄の区別もつかない?)

⓶山梨大は蛸足大学で、工学部には足がなかったのでしょうか?その後の拠点はたしか教育学部でしたね。
③神奈川時代は何かの折りに、「俺はお前のように高校や大学時代の実績もないからな」などと述懐していました。
 当時の私は子育ても含めて、「規律違反」の常習でしたが、怒鳴ってしかりながらも大目に見てくれたという気もします。
神奈川 「天田ってそういうとこあるよね」とは元神奈川の弁。「本社に送った白土、や事務局の女性、被青同の故・友野などにはけっこう気にかけていたね。ともに学生運動出身で。ま、労働者には向けられない怒りのはけ口でもあったらしいけど」

「獄中15年の川*にも敬意を払っていた」
  最古参 「あのヒラメ野郎」と嫌悪感むき出し。

「いつごろから『ヒラメ』?」

「前からだよ。特に常任になってからだな」「対カクマル戦で一気にのして昇りつめたんだね」 
 本社  「あのダメだめ」。いつも会議で言うのは「ダメだ、ダメだ」そして「金を集めろ」ばかりだった。

労対  人としてはまあそれなりに目配りも経験もあったと思う。嫌いなタイプではない。ただ、書記長になる器じゃなかったね。それが問題。当ブログでも書いていたけど、「労働者の党の神奈川」を体現する人でもなく、逆に清水氏やその取り巻きには「神奈川的」な面を疎まれたという不運もあったかな?

続きは後日。

まずは『前進』の追悼文にご注目。

【追記】
 タッチの差で『前進』がアップ。
 ただ、県委員長になったのは70年ではありません。この時期の県委員長は誰もが知る「お医者さん」          71年時点で天田氏は横浜南部地区委員長でしょう。神奈川の歴史に無関心な人の記事?
    

  1. 主張/理論 天田三紀夫同志を追悼する 革命的共産主義者同盟