2010年12月

27 全逓4・28処分。(5章 お互いさま)78年、前年から続いた闘争に対する処分で61人が免職。当局と結んだ全郵政による組織破壊に対する組織攻防は、時には暴力にも及んで逮捕者が続出した。79年の年賀状配達を混乱させた「物だめ」闘争は闘いの頂点になった。2007年に、処分無効の最高裁決定が出た。
 
28 「踏まえ踏みにじる」。(同 路線主義の体現者)革マルの議論の仕方を中核派がやゆした言葉。「○○という痛苦な現実を否定的現実として踏んまえ、△△に向けて革命的に前進するのでなければならない」。踏まえて、党作りにいそしむ、何もしないで居直る。
 
29 傍聴。(6章 党改革 党改革の嵐)実際に「傍聴」したのはわずかだったろう。自分の任務以外のことや上級機関の議論を知ろうとすることは「のぞき・スパイ」とされてきた歴史は余りに重い。
 
30 LC。(同 卑怯者は去れ)各組織・機関の指導部会議とその成員。
 
31 風見鶏。(7章 熊野の夜)アメリカ「ウェザーマン派」 (Weatherman)。、70年代に活動した急進的学生運動の1つ。ボブ・ディランの曲から付けられた。国会議事堂、刑務所、マスコミ、大企業などといった体制側に爆弾を仕掛け数多くの爆破事件を引き起こした。ベトナム戦争の終結時に解散。
 
32 日本問題。(8章 カンボジアPKO論)日本の課題。アメリカが大枠を示し、軍事力を揃える。あとは日本の金と裁量でやれ、ということか。
 
33 正しい。(同上)その後、米越の関係正常化が進む。ベトナムは国際社会に復帰し「改革・開放」「ドイ・モイ」が始まる。アメリカは湾岸戦争・イラク戦争のためにも、ベトナム戦争の傷を癒すことが不可欠だったということか? 今ベトナムはBRICs4国に続くVISTA5国の筆頭。
 
34 文化大革命。(同 ポル・ポト派)各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は、数百万人から一千万人以上ともいわれている。また「マルクス主義」に基づいて、宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。
 
35 生きた参考。(同上)正しくは、レーニンの「対農民戦争」それ自体もある。「農民の団結=反革命」論は根深い。
 
36 メキシコ革命。(同 サパティスタの綱領)たとえばメキシコの公用語はスペイン語諸民族間の庶民の共通語をどうするか。近代日本の「隆盛」の基礎として、共通語の強制と軍事教練による所作の規律が上げられる。「口語体」運動の意味も改めて見直したい。メキシコは、明治以来最初に互いに対等な貿易関係を結んだ国でもある。身近な存在として受け入れることから始めたい。
 
37 永山則夫。(同 人権論争)『氷の上の魂』の著者。68年、東京のホテルでガードマン射殺など連続射殺事件を起こした。97年処刑。
 
38 無実の証人。(同 人権と内藤裁判)警察が「革命軍」と認定した裁判では、無実・無罪を勝ち取るには、数倍・いく層もの無実の証拠を要求される。それに対決して多くの無罪判決が勝ち取られてきた。非公然メンバーの場合は、同じ非公然活動家のアリバイ証言が不可欠となる場合が多い。
 
39 開発独裁。(同 開発独裁)今の中国も、この側面から見ることもできる。『帝国主義論』に依拠すれば、もはや「帝国主義」の概念に近いかもしれない
 
40 清水=中野体制。(9章 2つのテロ)2つのテロの特徴。、①鉄パイプを使わない。白井さんは「宅配便」に自宅に踏み込まれ、両手・両足を骨折。角田さんは、砂入りバッグ?で襲われた。②犯行声明を出さない。質問も許さない。統一戦線の会議では「中核派の犯行ではない」とシラを切る。③「不特定の犯人」への弾劾声明の署名者に、撤回を要求して脅迫的「説得」をする。
 
41 土台 (10章 内戦の構図)破防法の団体適用が回避されたことと並んで、自衛隊の治安出動も回避された。かわりに機動隊の警察軍化が進んだ。55年体制の内側からの解体の実像を改めて点検する必要がありそうだ
 
42 虐殺。(同 解放戦争としての総括軸)71年12・4、関西大への革マルの襲撃事件。中核派にとって対革マルで最初の死者。「バリケードへの襲撃」として革マルの反革命性の証拠とされる。三重でも1人死亡。
 
43 動労革マルもまた同じ(同 ファシスト規定について)。機関士だけの職能組合として分裂・発足した動労の前歴。そのエリート意識は、革マルによる支配と後退局面で、露骨にさらけ出されたと言える。
 
44 戦略。(同 勝利の為の戦略)革マルの、見境のない襲撃は、たしかに「まともな対応」の余地を奪った。破防法弁護団への襲撃、政治局員を狙い撃ちした陰湿さ。家族への脅迫と策謀。争議団そのものへの襲撃。動労を押し立てた反原発運動への襲撃的介入もあった。けれどまた、多くの無党派集団が立ち上がっていた。内戦への協力を惜しまなかった。この統一戦線を「人民の海」に転化するためにどれだけ苦しみ、煩悶しただろうか?
 
45 内ゲバ。(同 戦争法規に学ぶ)民主主義とは、果てしない抗争から生まれた。むき出しの主張と利害の抗争、策略と取引の場だ。であればこそ、少数派の拒否権・離脱権を含む。「離合集散、割れても末に会わんとぞ思う」。そのために幾重ものルールがある。
 
46 88年の事件。(同 松尾の革命的独裁)前記の要求事件。松尾追放運動の端緒。このHPは『ポスト学生運動史』(彩流社)で出版された
 
47 『検証 内ゲバ』(同) (小西誠氏ほか著)は一読に値する
 
48 思想性。(同 時代精神ということ)定型化された「思想」の背後にあるもの。思想を生み出しすもの。科学性・法則性などと同じ意味合いで。
 
49 横須賀の爆弾。(同 75年3・14)企画・推進したのは清水さんのようだ。露呈するや、「分派の独走」と、権力・党内に隠蔽した。現場責任をとらない「逃げの清水」という証言もある。
 
50 左翼スターリン主義。(同 私の精神形成)中核派の政治用語。当時急進的だった中国共産党を定義するために生まれた。戦術的には左翼、世界観はスタ。転じてブンドにも適用された。スタとは「歌と踊りと議会埋没だけ」という俗論的認識は、甘い。
 
51 9・11.(同 アジアの中の日本)直後の『前進』は、一定の距離を置いてこの事件を論じた。けれども以降、9・11を全面賛美する論調に転化した。その趣きは、革マル本体と瓜2つ。けれどもまた、中核派がアルカイダと実践的に「連携・連帯」する立場でないことも事実だ。口先だけの『革命性』『独自性』‥。 9・11の実行主体はいまだ不明だ。米政府も公式には「アルカイダとの証拠は無い」。私は、この大量殺害を「支持・共感」することと「広島・長崎」は両立しない、と思う。
 

脚注のまとめ

(10年前半以前の版には無いもの、短いものがあります。改めて比較しやすくしてみました。)

1 死闘の7か月。(1章 私の10・8羽田)1967年10・8羽田闘争から翌年4月までを指す。2つの羽田闘争と佐世保・三里塚・王子でのゲバ棒での大衆的実力闘争。3派全学連とともに青年労働者は反戦青年委員会に結集して闘った。3派とは、中核派(白ヘル)、共産主義者同盟(ブンド 赤)、革命的労働者協会(解放派、青)。第4インターほかの諸派も参加した
 

断定。(同)共産党は、マルクス・レーニン・スターリンを教祖とし、トロツキーの暗殺を当然としていた。トロツキー系の思想や運動を権力の別働隊として、あらゆる手段で排除・抹殺することを当然とした。「日本共産党は世界の共産党の中でもっともトロツキストに対して厳格」と自負していた。

 

全学連。(同)全日本学生自治会総連合。68年3月当時、自治会総数750のうち、3つの自称全学連があった。民青系205、3派76、革マル22。他にフロント系17、民学同系14など。いずれにも非加盟は299。

 

 反戦。(同 革共同への加盟書)反戦青年委員会。もとは1965年に結成された韓条約反対の青年組織。社会党青年部・社青同・総評青年部や他の青年組織などの共闘組織。次第に新左翼系の主導する運動になり、3派全学連の崩壊後もしばらく続いた。この頃は党派的に細分化され、「中核派系の労働者」やその運動体という意味で使っている。

 

5 芝工大事件。(同)私の埼大中核派の滝沢紀明さんが芝工大で死んだ事件。「内ゲバによる最初の死」。詳細は第2章の「滝沢『虐殺』事件をめぐって」参照

 
 公安。(同 稼いで生きる)一般に、対象者の住民票を定期的に点検し、大家・不動産屋に面接する。→会社回りする。本人に直接当ることもある。逆に言えば、住所を変えずに転職すれば職場は割れない。公安の能力も一般にはその程度だ。
 

7 「党」。(同 またも解雇)この時期も以降も中核派は自身を「党」とは規定していない。「党たらんとする」だ。けれどもまた「革命党にとって‥」という論理は常にキーワードでもあった。ここでは便宜的に「」付きの「党」を使うことにする。

 

8 県評。(同 県評青婦協)県労働組合評議会。当時労働組合運動主流派だった総評(全国労働組合総評議会)の県別協議体。社・共とともに反戦・平和などの政治運動を担った。89年に解散。

 

9 対峙。(同 妻が教われた)毛沢東の持久戦論に学ぶもの。防御・対峙・総反攻の3段階からなる。71年の「12・4反革命」以降、相互絶滅戦争論へと転化する。72年11月以降の早稲田解放闘争で追い詰められた革マルは、集会への結集場所への、鉄パイプでの襲撃を開始。翌年春?には学生の下宿への襲撃を始めた。中核派は「権力・革マルとの『2重対峙』の下で、主として対革マル戦に力を投入する」ことになる。(2重対峙=対革マル戦)

 
10 本多さん。(同 子どもを産もう)中核派の創立以来の書記長で代表。後述。
 

11 アコーディオン。(同上)携帯用の楽器として50年代の運動に登場した。「大衆性」の象徴でもあった。文化・芸術と「党」や政治の関係は、共産党結成以来の重大な議論の的でもあった。

 
12 反戦。(2章 鉄壁防御の要塞)この場合、中核派系の労働者と大衆団体のこと。
 

13 常任・専従。(同上)ともに専従活動家。常任が上位で県委員。それ以前は常任も非専従だった。

 
14 法大拠点化。10章「革命的独裁」参照
 

[1] スト権スト。(同 スト権ストと上尾暴動)スト権の合法化を求めて行ったスト。公社時代の国鉄ではスト権は与えられていなかった。国労・動労の最盛期であるとともに、退潮への契機となった。

 
16 狭支連。(同 石田郁夫さん)狭山を闘う中核派系の大衆組織。関連して7章
 
17 Zヘル。(3章 大会戦の現場)革マルのヘルメットで「全学連」の略。白ヘルに赤テープ、前面に「Z」と書いて中核派と区別した。
 

18 謀略論。(同 人民の海)73年から始まった革マルの世界観の根幹。すべての事象を権力の、革マル排除の為の謀略と見なすこと。教祖・黒田の直感により、謀略の企画・実行者は特定される。

 
19 (同 戦争論について)大衆運動主義への非難と共に、他方では軍事技術に熱中する者を「軍事主義」と制する空気も政治局に有ったという。「軍事主義」が制するには時間と何かが必要だった。
 

20 マスコミ。(4章 記者会見)70年闘争では、中核派は「マスコミ左翼」とヤユされた。白ヘルはテレビ映りが良い。マスコミをうまく使った

 

21 高石闘争。(同 動労千葉)72年の船橋事故で処分された高石運転士の処分撤回闘争。「事故の責任は当局にある!」。高石闘争は反合・運転保安闘争をレベルアップさせ、動労千葉は、「全国1」の労働条件を獲得した。

 

22 POSB。(同 改革と北風)諸機関・諸戦線・各地方委員会によって構成される。調整・執行と政策立案の両面の機能を持つ。

 

23 再共有化(同 3・8分裂の経緯)。反対した。その後98年、中核派は「脱落派の再共有化に応じた人びとを含む全国1200人の一坪共有者に訴える。その権利を絶対に守り抜くことは人民の正義であり、三里塚闘争勝利のために不可欠である」と、「一坪再共有化運動」に対する態度をそれまでの総括なく転換した。

 

24 寄せ場。(同 土木作業員の死)日雇い労働の求人業者と求職者が多数集まる場所のこと。大阪=釜ヶ崎、東京=山谷、横浜=寿などが有名。70年代、暴力手配師追放の運動が発展し、暴力団や警察との間で数千人規模の暴動(山谷騒動)が何度も闘われた。高齢化が進んでいる。関連記事、8章「寿越冬ルポ」

 

25 寸又峡事件。(同「報道」の腕章)68年在日韓国人2世の金嬉老(キム・ヒロ)氏による殺人を発端とする監禁事件。寸又峡温泉の館に宿泊客を人質として篭城し、警察官による在日コリアンへの差別発言に謝罪を要求した。テレビ等で実況され、社会的に衝撃を与えた。最後は、記者団に紛れた警察に逮捕された。大規模な弁護団が結成され、日韓の政治問題にもなった。99年に韓国への出獄を条件に仮出所。事件時、共産党は3億円事件とともに「犯罪者に共感を示すマスコミ」をくり返し非難した。

 

26 「教育実践」。(同 浅草橋戦闘)彼は子どもたちに童話の読み聞かせなど、さまざまな工夫を試みていた。けれどもそんな教材の点検や同僚・保護者との大事な時間すら無くなっていると苦しんでいた。指名手配を受けて突然姿を消してから、残された子どもたちの「先生大好き。帰ってきて」という声が聞こえる。10章53「私の精神形成」ほか参照

 

10年11月に、東京では「2割減車」がひとまず完了しました。
 それに合わせて、「悪質業者・悪質常務員の淘汰」策がいろいろ講じられています。
 その実態や如何。
 結論だけ言えば、「企業側の1人勝ち」「悪質企業のぼろ儲け」でしかなかったと感じます。
 全自交も自交総連も、「成果」を歌っていますが、「資本への奉仕だけの改革だ。いい加減にしろ」と言いたい。
 関西生コン労組の「共闘と対決」に比べれば、「資本に代わって要求しただけ」。しかも関生のような位置づけもなしに‥です。
 
 なぜそう言うか?
 おいおい実態を書いていきたいと思っています。

大事な誤認があり、とりあえず非公開にします。

●『革命的左翼 という擬制』
  小野田譲二著 10・8前後に離脱した元・革共同(中核派)学生組織委員会議長。
            「反戦連合」の指導者
  10・8に至る中核派の全体像を描写している。今井氏のHPと合わせて70年代前半の中核派を内部から描く。

「誰か昭和を想わざる」で「内ゲバ」の経緯をスケッチをしています。
 
「趣味者」から引用しました。
 

関西生コンの闘いは必見ですね。
タクシー業界としても、資本との「闘いと共闘」は大いに学ぶところがあります。
ま、「元請」の大手ゼネコンなどに比べて、東京のタクシーの「お客様」は大手商社・省庁(とその準エリートの個人)から下町のおじい・おばあや病人など幅広いことが相違点ではあります。
 
 
小西誠氏の存在など、「元中核派」の範囲にも入ります。

かつてマル青同という組織がありました。
中核派の「マル青労同」とは無関係です。

 多分77年の三里塚・鉄塔決戦に向かう過程だったろう。
 三里塚の集会に、会場の外からスピーカーで演説をしていた。
 「農民の土地利権をめぐる抗争などに何の階級的・革命的意味があるだろうか?」と繰り返す。「体制内運動への転落を弾劾する」。新左翼諸党派が三里塚を中心の流血の戦いを展開していたときだ。
 彼らは「革命は大砲から生まれる。武力による革命以外に無意味だ」とくり返す。
 会場後方の参加者は、かんじんな主催者のあいさつか聞こえない。

 そして結論は簡単だ。「わがマル青同は武装闘争への以降を進めている。準備ができれば開始する。連絡を取り、地下の指導部の指令を待て」

 日比谷屋音での集会には、会場内に入って、同じ趣旨のビラをまいた。
 私たちアルファ隊(行動隊)に指令が出る。
 ただちに一人一人会場内に散って、マル青同のビラまき要員を一人ひとり殴りつけ、蹴飛ばして、たたき出した。 目的は会場参加者にも明らかだったから、停めに入るヒトはいなかったと思う。

 結局、マル青同の武装闘争は起こらなかった。内々ゲバに明け暮れたようだ。

 

 

イメージ 1

イメージ 1

↑このページのトップヘ