革共同の歴史であまり語られないものの一つが労闘同だ。
ここでは今井公雄さんから引用する。
60年から61年にかけておこなわれたブントの活動家の全国委員会への合流は第4インター系の組織にも影響を及ぼし、関西を中心に活動していた労働者解放闘争同盟(労闘同)が62年になって組織的に合流を果たすことになる。
ブントにあって比較的まとまりを見せていた(かのように見えた)戦旗派ですら全国委員会への合流について組織的な討議ができない中で、労闘同だけが組織の討議を経て合流を決めた唯一の組織だったことは特筆するに値する。
見ておかなければならないのは、これらの合流が常任活動家と労働者部門を中心にしておこなわれ、学生部門においてはおこなわれなかったことである。ブントには60年卒業者も含めて一定の数の教員がおり、彼らは「青年教師集団」と名乗って教員組合の中で活動していた。彼らのうちの指導的な部分が結集したことに加えて、拠点を関西から京浜工業地帯の核である横浜や川崎に移していた労闘同が合流することによって全国委員会の労働者組織は動き出していた。