2011年11月

革共同の歴史であまり語られないものの一つが労闘同だ。
 
ここでは今井公雄さんから引用する。
 
  60年から61年にかけておこなわれたブントの活動家の全国委員会への合流は第4インター系の組織にも影響を及ぼし、関西を中心に活動していた労働者解放闘争同盟(労闘同)が62年になって組織的に合流を果たすことになる。
  ブントにあって比較的まとまりを見せていた(かのように見えた)戦旗派ですら全国委員会への合流について組織的な討議ができない中で、労闘同だけが組織の討議を経て合流を決めた唯一の組織だったことは特筆するに値する。

 見ておかなければならないのは、これらの合流が常任活動家と労働者部門を中心にしておこなわれ、学生部門においてはおこなわれなかったことである。ブントには60年卒業者も含めて一定の数の教員がおり、彼らは「青年教師集団」と名乗って教員組合の中で活動していた。彼らのうちの指導的な部分が結集したことに加えて、拠点を関西から京浜工業地帯の核である横浜や川崎に移していた労闘同が合流することによって全国委員会の労働者組織は動き出していた。
 

かつて私がしびれた本だ。
 
過渡期の群像――竹中労『黒旗水滸伝』解説

60年前からの革共同全国委員会派は、本多延嘉、木下尊悟(野島三郎)、白井朗(山村克)、飯島善太郎(広田広)、小野田猛史(北川登)。
  第1次ブントの田川和夫、陶山健一(岸本健一)、清水丈夫(岡田新)。
 
 
 
  北小路敏(ブント)、小野田襄二(反戦連合)らは、後に政治局員。(敬語は略)
 
  白井・野島・北川・岸本は、それぞれ兄弟が革マル派幹部になった。(革マルの山代・木下・倉沢・森茂=姓が違うが)
 
当時の革マル幹部(政治組織局員レベル)は
 黒田(山本勝彦ー死亡)・松崎明(倉川 篤ー分裂・死亡)・森茂(鈴木啓一)
 山代冬樹(白井健一)・土門肇(根本仁)・西条武夫(木下宏)
 朝倉文夫(池上洋司)・倉沢(小野田啓介-離脱)・杜学(藤原隆義-死亡)など。
 
 下線の3人は中核派が「3頭目」として「処刑」を宣言した3・14の首謀者

あまり長くはないので、全文読ませてもらった。
①当時の左翼の理論的土台となる翻訳や思想的提起がどんなものだったかをずらずらと並べる。
   トロツキーもマルエンも、翻訳書籍は少ない。
   むしろこの頃からようやく花開いてくる。
 
  つまり諸党派の立脚点は、理論的にはかなり危ういものだったことになる。
  まだ産声を上げたまま突っ走ったということか?
  簡略だがなるほどと思う。
 
②高校生運動をまとめ上げた経緯とブントとしての活動。
  その経緯もあの時代を髣髴とさせる。
  分との著名人がたくさん出てくるのも面白い。
 

【要旨】
  歴史を学ぶとき、やはり「市町村の歴史」は欠かせない。
  連想・空想を楽しみながら理解していきたい。
 
幕末・明治維新のころ、「村」の人口は平均して約400人、戸数80くらいだ。
明治の大合併の結果、従来の町村は大字と呼ばれることになった。
大字が、従来の基本単位だということ。
いまでは、市町村の平均は7万人。この変貌をどう考えるか・感ずるか‥
 
社会の教科書を見ると、散村・集村などの様ざまな形と、100万都市の江戸・京・大阪ほかと戸数にして数個の村まで様ざまで、かつ人々の生活はあまりにさまざまだった。
同じことは、今でもいえることだけれど‥。
 
以下は、その様ざまな形の一般形に過ぎない。
 
【律令制】
   大和の支配下・影響下では‥、地方は一般に(66+壱岐・対馬)、その下に、さらにその下にを設ける行政組織に編成された。そのため国郡里制(こくぐんりせい)と呼ばれる。
 
  は20里、20里は千戸を上限とした。
  (大郡は16~20里、‥小郡2~3里)
 
里(り・さと)は50戸で編成された。
  (里は、715年郷(ごう・さと)に改め、郷を2、3の里に分ける)。
 
その基礎となるは、正丁(せいてい)成年男子を3丁ないし4丁含むような編成を編戸(へんこ)といい、1戸1兵士という、軍団の兵士を選ぶ基礎単位になった。
 
  かってに1編戸を3家族15人とすれば、里(郷)は150家族・750人程度。郡の上限は3千家族・1万5千人。
ただこれは、例外というべきか?(当時の日本列島の人口は数百万。畿内の例外?)
 
【中世】
近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位であった。
(郷・里の下位に村ができたらしい)。
 
 
江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承していた。江戸時代にはこのような自然村が、約6万以上存在した。また、中世初期の領主が荘園・公領とその下部単位である名田を領地の単位としていたのに対し、戦国時江戸時代の領主の領地は村や単位としていた。
                         惣村http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E6%9D%91
 
江戸時代百姓身分とは、主たる生業が農業・手工業・商業のいずれかであるかを問わず、村に石高を持ち、領主に年貢を納める形で権利義務を承認された身分階層を指した。都市部の自治的共同体の単位である(ちょう)に相当するが、村かかの認定はしばしば領主層の恣意により、実質的に都市的な共同体でも、「村」とされている箇所も多かった。
 
【大字】
近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、自治会地区会町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面がある。
 
【行政村】
明治に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進された。こうして、かつてのがいくつか集まって新たな「村」ができたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいう。
日本では1889年(明治22年)の市制・町村制施行以降、大局的にみれば市町村数は一貫して減少する傾向にあり、市町村合併の例が分割・分立の例に比べて圧倒的に多くなっている。
 
【合併】
市町村合併については、過去、1888年(明治21年)から1889年(明治22年)までに市町村数が71,314から15,859に減少した「明治の大合併」、1953年(昭和28年)の町村合併法施行から新市町村建設促進法1956年(昭和31年)を経て1961年(昭和36年)までに市町村数が9,868から3,472に減少した「昭和の大合併」という大規模な市町村合併の動きがあった。近年においては、概ね1999年(平成11年)年から2000年代前半期を中心として「平成の大合併」が推進された。
 
*合併史
              http://www.soumu.go.jp/gapei/gapei2.html
 
ウィキペディア

 学生運動の歴史を振り返るとき、やはり数字の持つ意味が気にかかる。
  ということで‥
 
1961年頃はやはり大学進学率は1割台だった。
 女性の進学率は、90年代にようやく男の半分になった。
短大は60年代に急速に増加したが、比率は突然、頭打ちになった。
専門学校の台頭はここには表現していない。
 
  1955年の頃の「旧帝大」のエリートとしての地位は、今日からは想像もつかない高さだ。
 
  マスプロ教育の初期の時代、私たちはまだ、「学生さん」と「さん」付けで呼ばれた。
  「学生は貧しいもの」「書生生活」
 「お金は良いよ。出世払いでね」という世間の温かい目が有った。
 
  戦前の学生は、卒業単位は30~40??
  私たちの時代の標準は、120くらい?
  今は??
 
 「国家・社会」のリーダー足るべき時代は、大学は、ゆとりと自由の場だったことが分かる。
「デカンショ、デカンショで半年暮らす、後の半年は寝て暮らす」は単なる比喩ではなく、事実だったと思っていい。
 
  今の「学生」は、同世代の過半数を超えている。
  とりあえず、「学生」の社会的意味が根本的に変わったことを確認しておこう。
 

大学進学率%  短大進学率%  
 
19558 13 2 2 2 3
196517 22 11 13 21 5
198527 39 14 11 2 21
199025 33 15 12 2 22
199532 41 23 13 2 25
200040 48 32 9 2 17

 
大学LABOから
 
 
 

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