2013年11月

驚いたことに(私の想定外のこととして)、中核派(中央派)は直ちに反応し、山本氏の行動を全面擁護している。
以下はその要旨。

週刊『前進』(2607号8面2)(2013/11/04 )

 山本太郎氏への与野党とマスコミの攻撃粉砕しよう

 「天皇への手紙」問題の核心は何か

 山本氏への非難の大合唱は福島圧殺そのものだ

 
‥‥(山本氏の行動は)これはあまりにまっとうな、差し迫った思いと危機感の表明であり、同時に福島原発事故に対して、自民党・安倍政権と東京電力が自らの責任を放棄し、福島の現実と怒りの圧殺に躍起となっていることへの正当極まる弾劾である。
‥‥いったい何が「常軌を逸した行動」だ。「常識を欠いている」だ。ふざけるな!
 今回の件で天皇制の問題が前面に登場してきている。「資本家的政治支配、階級支配が解体的動揺に陥る中で、天皇制は帝国主義ブルジョアジーの反革命的結集のシンボルとなる。労働者階級はプロレタリア革命の一環として、天皇制の一切の形態を粉砕し、根こそぎに一掃する」(革共同綱領草案)。このような立場だけが、労働者階級が天皇制に対してとるべき原則的で路線的な立場であり回答である。もともと天皇の園遊会など、労働者人民は徹底的に拒否し、粉砕し、怒りで蹂躙(じゅうりん)し尽くすべきものである。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥【以上】引用
 
 引用した前段と後段の関連が繋がらないと思えるのは、原文そのものの特徴だ。
 とくに、園遊会粉砕論と今回の行動への支持の関連をどう考えるのかが「本来の左翼」の議論なのだけれど、そんなことはどうでも良くなってしまったようだ。「もともと粉砕論」だけれど園遊会への参加もありというだけか?
 
 
続いて都革新から

どこでも、誰にでも反原発を訴える山本議員。 「直訴」問題

 10月31日の園遊会での山本太郎議員の「直訴」についての、「政治利用」だの「議員辞職」などの言葉が飛び交っている。そもそも我々であれば、園遊会に招待されても(されることはないが)断固はねのけて拒否欠席となるが、山本議員はこうした場をも利用して「闘いの場」に変えてしまった。「反原発に命をかける」と公言した山本さんにとってみれば、どんな場所でも、どんな相手でも反原発を訴え、共に立ち上がろうと呼びかけていく当たり前のことを貫いたということだ。そういう発想と行動こそ、翼賛国会における山本議員の存在意義があるといえる。
 
 こちらは少し、至極あたりまえの議論をしている。
 職場や地域でそれなりに大衆的な活動をしている者ならば、ま、このへんは共通項になりそうだ。
 
 都革新の投稿日と『前進』の発行日を見れば、ほぼ同時に書かれた原稿のようだ。
 たぶん、現場での議論をそのまま反映した都革新と、それを受けて「この線で行こう」と決めた中央が「前衛党」らしさを演出しようとした『前進』の落差といえそうだ。中央に現場の声を受け止めて「党的」に語れる人間が枯渇していることが如実に出たといえそうだ。
 
 「血債主義切り捨て」を共同の目標にしたはいいけれど、中核派の歴史そのものを逆恨みと怒りのネタにする中央派(の中央)には語る言葉や論理(書き手)すら消滅してしまった、というのが読んだ感想だ。(とはいえ、「とっくの昔からそうだよ」という声も聞こえる)
 
 さすがの中央派にあっても、不満や異論が噴出しそうだ。もしかしたら『前進』声明の書き換え・廃棄すら想像の範囲に入る。もしかしたら、(もしかだけだけれど)筆者や監修者の首が飛ぶことにもなりかねないと思える。激震が走るか?(ま、期待だけ)
 
 『前進』の議論でもう少し注目できるのは、ややこしい議論は共産党非難にすりかえていること。諸悪の根源は共産党!このへんをもう少し『前進』とともに掘り下げてみたいとは思う。
 
 『前進』でのもう一つはやはり、例の「押し掛け女房」ぶり。良く言ってひいきの引き倒し。なにか山本氏のオーナーか(唯一・最大の)パートナーであるかのような議論の仕方だ。「分をわきまえて語れ」。
 
 双方に無いもの。とりあえず「政治利用」の言葉はあっても「陛下に失礼・不敬」への論及がない。
 「政治利用」はあっても、その有効性(あるいは無効性)は語られていない。
 とりあえずゆっくりとでも良いから、「今の象徴天皇制」(とそれとの関わり方)を多面的に考える機会としていきたいものだ。
 
 【補足】
 政府・自民党も色んな動きが有った。ウラでは「失礼・不敬」が叫ばれ、表では「政治利用」が語られる。この2重性をどう考えるか?
 結果として表の政治としては「議長の裁断」という中途半端な結果になった。議員除名などの声は欠き消えた。
 他方で国会周辺では「在特会」がデモや街宣。山本氏とともに議長を弾劾する。古い右翼も動いたようだが。
 政治表面の動きとともに今後の社会的波紋を注目したいものだ。
 やはり「これから」だと思う。
 
 

 13年9月から、「定時制」に移行しました。
 タクシー業界では一般に、月12出番(または11出番の「現役・正社員」)のほかに、「嘱託」(毎年更新)があり、嘱託の中に月8出番以下の「定時制」があります。
 私はこの定時制になりました。
 
 現役にしろ嘱託にしろ、隔勤(隔日勤務、昼夜通し)の他に、少数ながら昼日勤・ナイト(夜日勤)があります。
 私は60を過ぎてから現役・昼日勤を長く勤めてきましたが、ついに嘱託の定時制・昼日勤になったというわけです。
 月8出番(日勤ですから16出番)で働き、月の残りの14日が「公休」です。
 (会社によって月18出番まで可、月数出番も可。労基署の?判断が変わり、18出番の嘱託扱いも可能になったようです。もちろん?国民年金扱い・国民健康保険扱いです)
 
 「時間のゆとりができた」のですが、もともと体力的に苦しい状態が続いた後のこと、空いた時間のどれほどが「自由に」使えるかはまだ未知数です。
 
 この間は、たまりにたまった私生活上の整理に多くを費やしました。
 パソコンや電化品の技術習得にも随分と時間を割き、それなりに駆使できるようにもなりました。
 おいおいこのブログも新しい展開を考えているところです。
 
 とはいえ、時間ができればまた、私生活や職場・地域の問題も見えてきます。しがらみも増え、なかなか「自由」は得られそうにもありません。「豊かな私生活」への渇望にも率直でありたいと思います。「聖者の非生活」では見えるものも見えない(見えなかった)という新しい感慨も湧いてきます。
 
 「激しい喜怒哀楽」も心臓や頭への負担が重く、「クールにクールに」(ヘイ・ボーイズ・クール・クール・クール ネヴァークレイジー?)とつぶやいています。
 
 ブログの設定を少し変え、コメントへの常連さんとの対話も少し増やし、新旧の諸事象にも対応する枠組みを作っていきたいと考えています。
 基本的には「後ろ向き」を核とするのが本ブログの趣旨なので、その方面での枠組みも広げたいとは思っています。    乞うご期待!

「秘密保護法を考える超党派の議員と市民の勉強会」事務局
 
連絡・問い合わせ:
江崎孝事務所(03-6550-0511
山田太郎事務所(03-6550-0708
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福島みずほ事務所(03-6550-1111
 
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あるみさんの議論は面白い。
 
アキヒトを「ただのおっさんにした」という視点がいい。
 
 ただ思うのは、〈あまり深い議論〉はしないことが大事だ。
 彼を支持して投票した人々の中には色んな反応があるのだろうけれど、その色んな反響のうち「党派的議論」や「無党派」左翼以外の層を大事にすること(議論の基礎)が大事だと思う。
 
 今思い出すのは、全共闘時代の経験だ。
 クラスやサークル・生協で共産党や右翼と対峙していた時代、あまりおかしなただイデオロギッシュな議論は成り立たなかった。
 (それなりに大衆的基礎をもった)学生運動を展開するとき、今回のような行動はむしろ面白がられたと回想する。
 
 ベリケードをめぐって学内で民青と中核派が激しく争い、全学的にも注目と興奮が満ちていた5月、1年生が独自の動きを始めた。「なんでこんなにぶつかりあうのか良く分からない」。新入生たちは経緯や諸問題の所在も分からずにあれこれと動き出す。そして自分たちで独自に議論と行動を始める。
 
 「1年生連絡協議会」が結成され、千数百人の1年生のうち数十人が何度も集った。もちろん(公式には)2年以上は排除。
 民青は激しく反発する。「分裂主義!」
 そして中核派内でも反発が大きかった。
 
 だれがいつ、認識をひっくり返したのかは正確には思い出せない。
 多分、教養学部のTだったと思う。
 「1連協を評価しよう。うまく使いきろう」
 
 1連協の主要メンバーが次々に民青・中核派に連絡をとってきた。
 こちらは彼らの疑問や批判に耳を傾けて、対等に議論し、要求される議論やイベントに希望に従って参加する。(主は彼ら、中核派は従だ)
 
 ひと月後には1連協の主導権はまるごと中核派の物になった。
 
 さて、「蒙昧な地方・高齢者」が動き出す時、私たちの発想や行動はどんなものであるべきだろう?
 アキヒトたちが被災地に行き、「ひざまづいて」被災者との対話を進めるとき、私たちはどういう議論(のしかた)をすべきだろう?
 特に(今はすたれた)杉並の「革命的議員団」はどういう言動をすべきだろう?
 「天皇は来るな!」というデモをすべきか?
 多くのお年寄りと対峙して、スクラムを組んで避難所への立ち入りを阻止すべきか?
 
 それとも山本議員の行動を少し離れて見守るべきか?
 
 

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3つ分かったらパーフェクト?
小話「ゾウとめくら」と同じようなテーマ?
「めくら」を「視覚障害者」に置き換えるのが良いとは思うのですが、ストーリーそのものが問題ありそうなので勝手に言い換える意味はなさそう。
 
「木を見て森を見ない」というのが良いのかも。
それとも気が早って「幻惑」される?
「だまし絵」そのものでいいのかも?
 
荒川スパイ事件と「中核派の反中核派化」をどうみるかのヒントになるかも?

「だまし絵」というのがある。
さて、皆さんはこれが何を描いたものか?あてて欲しい。
 
人の「認知」とはどんなものか?
そしてその人の認知能力の柔軟さはどの程度か?
 
たぶん、私たちが日々、幻惑されていることなのだろう。
 
 
 
 
 
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