2015年03月

白井さんの原文を載せてくれている。
反中核派の白井朗テロ批判考
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/tyukakuhaco/shirairomondaico/hantyukakuhanoshiraiterohihanco.html

セ笋慮従
 私自身は戸惑いながら、上川あやさんのブログを読み、テレビでの関連番組をみたりが現状だ。
㋑正直いって「熱くなれない」。この種の問題は私にとってもある種の「タブー」だったし、熱くなることへの恐れもある。そんな中で徐々に温まっていけば良いかと思っている。
 私自身が若くない事、若い人との付き合いが薄れていることも、「当事者性」から離れているという意味でかなり大きい問題だ。「人として」は実に重い。

㋺制度の問題や「政治」の領域でも、もし私が議員なら、どういう対応をすべきか?またはしただろうかと考え込む。
 性的少数派が保革を問わず、政党の候補者リストに名を連ねる時代だ。
 「性的マイノリティに加担する」ことが「政治的・社会的に」致命的だという時代でもなさそうだ。むしろ「遅すぎる!」

㋩運動と組織内部の問題が私にとっては最大な問題だとも思う。
 あの「内戦」の時代、「家族問題の革命的解決」の時代、「家族対策」には二つの形があった。一つは「今も現役の男女」、もう一つは「妻が離脱している夫たち」。そう、後半には?子どもたちや老親の問題もあった。それぞれまともに議論したら組織が空中分解しかねないテーマだった。
 「夫婦」やそれ以前の恋人・恋人未満の関係での「男女の形」の中で、性的少数派の問題はどう「処理」されていたかといえば、「指導部の裁量」だったといえそうだ。このあたりは水谷さんらに聞かないと「全体像」が浮かばない。それぞれの場で、さまざまな形に対する「処理」が「原則」なしに対症療法的になされていたのだと思う。
 
 とはいえ、前進社時代に似たような情景をいくつか見ながら看過したことは、やはり忘れられない問題だ。ある種の雰囲気を持つ同志に対して、「嫌悪」「忌避」の感情をあからさまに示す人もいた。嫌悪された人がもしかしたら「性的少数派」だったのか、それとも女きょうだいの中で育ったゆえの独特の感性に反発したのかはよく分からない。いまでいう「時代認識と路線」に入らない日常化した感情化した諸課題をどう「可視化」するのかが分からなくなっていたというしかない。感情と感性にはあまりに開きがある。感性的には受け入れても、感情はどうか?
 
 社防をしていて議論になったこともある。
 「クリスチャンは党員になれるか?」という課題とともに、大きな課題だということは「確認」した。
 
 カミングアウトという例は聞いたことが無い。
 多分、それ以前に離れてしまったのか、それとも長らく罪悪感に追い込まれていたままだったのか?

 「党派」のメンバーはすべてこの点でも「差別主義者」であってはならないというテーゼを打ち立てることができるのかどうか?今は「疑問・保留」としか言えない。
 肯定するならそれは擬似革マル的組織論、否定するならすなわち「革命権力の行使者」としての前衛党の全否定だ。
 
 今は「公然」を主とする中央派、現実的な対応は当時よりははるかに選択肢を増やしていそうだけれど、まともな声は聞こえない。世代間の差も大きそうで、「一皮むけば差別者」だったり、「野放図」だったり、果たしてどんなものだろうか?

 せめて、共産党程度までは、コラムやインタビューなどの形でも、形だけでも共感の姿勢が欲しいところだとは思う。

 渋谷区に住む住民などへのアピールも欲しいところだ。
 この問題で区長の失脚への動きが生まれた時、どんな態度をとるのかもあらかじめ準備したいところだ。角栄の事件、小沢一郎の事件、佐藤元知事や双葉町長の排斥が再び渋谷で起こる可能性はないのだろうか? 
 

 いろんな動きがある中で、抑えるべきポイントを私なりに整理してみた。
 不十分さを承知で今後の勉強の一歩にしたい。
 (アドレスのコピペが不調です。アドレス部分を指定して検索してください)
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①今回の条例に関連して

 まずは「平成27年度渋谷区当初予算 施策別事業ガイド」から

 「多様性の尊重」と男女平等・多様性社会の推進 -パートナーシップ証明-の項目

 ~男女の別を超え、多様な個人を尊重しあう社会を推進します~

 (仮称)渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例案(概略)
(参考)パートナーシップ、同性婚が認められる国

 https://www.city.shibuya.tokyo.jp/data/zaisei/yosan/pdf/yosan27_gaiyo_n.pdf#search='%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E5%8C%BA+%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97+%E6%9D%A1%E4%BE%8B'

 (注)「性別による役割分担意識を変え、LGBTなど性的少数者に対する理解に取り組むなどの施策を積極的に推進する。」が画期的というべきかは分かれるかもしれないが。

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②関係者の声
 上川あやさん(世田谷区議)
 http://ah-yeah.com/images/visu2011/title.jpg

「同性パートナーシップ証明書」をどう考えるか
 文 保坂展人 2015年2月24日
  http://www.asahi.com/and_w/life/SDI2015022479191.html

 『上川あや』に関するニュース
 http://www.excite.co.jp/News/keywords/%E4%B8%8A%E5%B7%9D%E3%81%82%E3%82%84/


 「性同一性障害についての法的整備を求める当事者団体連絡協議会」 様
「世田谷区議会議員 上川あや」 様に対する公開質問状 
 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/2080/questions.htm

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③その他の関連
 安部首相や自民党の動き(略)
 (注)渋谷区議会では「自民党」は32議席中8。
 https://www.city.shibuya.tokyo.jp/gikai/03giin/index04.html

 升添や多くの条例案への支援もある

 性同一性障害、全国の推計患者数「4万6千人」(日経)
 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2100N_R20C13A4CR8000/
 
 「炊き出しは政治活動」同性婚PRの渋谷区長(野宿者の運動)
 http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1899

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④「左翼」の沈黙?

秋山全学連の中執/マル学同書記局
「趣味者」から転載します。
 
[5196] 中核派・青木忠自伝
Name: nez
Date: 06/22 19:07
p1からp2への移行期に活躍した青木忠さんは、「前進」から「せとうちタイムス」に移って健筆を振るわれています。「因島の青木」つながりで、ブントの姫岡玲治を語るという趣向ですが、かなり自伝的な内容です。全学連での活躍も書いてあるのですが、残念なことに前進社時代の事には一言も触れず、当然P1P2を書記局で指導した内容はありません。

http://0845.boo.jp/times/series/aoki/futari/
 
小豆島 

http://0845.boo.jp/times/archives/setouchitimes.gif

 

                            http://8156.teacup.com/masakioya/bbs/?page=4&
 
 元京大生。
 調べれば「著名人」に入るのかも。
 

先に死んだ者勝ち 2

 投稿者:マーキー  投稿日:2014年 1月25日(土)22時19分10秒 59-190-122-150f1.shg1.eonet.ne.jp
返信・引用
 
> ヤクザは先に死んだ者勝ち (by 立原あゆみ)

と書いたのはいつだったか。

「革命家」もそれに該当するとは夢にも思わなかった。

学生運動をしている時、私は中核派だった(これは朝鮮戦争時の中核自衛隊(日本共産党の軍隊)に由来するらしい)。

中核派は「決意主義」と言われ他党派、とりわけブントからバカにされていた(理論がなく「決意」だけという意味)。

私は京大の学生だったが、文学部の赤ヘルメットにはウンザリしていた。言葉だけの連中と思っていた。

私が逃亡したのは、「(中核派)全学連の副委員長になれ」と言われたから。これは鉄砲玉になれと言われたのと同じ。役職になったら普通の生活は無理。死ぬ覚悟はなかったということだろう。

ランボーは、詩人を止めてからは武器商人としてアラビア半島をさすらった。私は私の過去を息子には一言も語らなかった。私の日本国家に対する怒りは高校一年生の頃、元日共党員だった父親の昔話を聞いたからだ。

今から思えば「中核派に所属する」ということは宗教団体に入ることと同じだった。止めてからは罪悪感に悩み大学には行けなかった。

武藤、正田、池浦、中核派で内ゲバで殺された人は皆顔なじみだった。今生きていればと心から思う。

1975年3月14日、 本多延嘉さんは革マル派の謀略によって虐殺された。しかしある意味、「革命家」として生涯をまっとうできたことは幸せだったと思う(ブランキ、レーニン、本多延嘉、は暴力革命に殉じたから)。

シミタケ(清水丈夫)の末路は悲惨の一語。

【生き恥】中核派議長・清水丈夫【党内搾取】
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1329760773/l50
 

小泉・細川連合 vs 原発推進連合

の項もある。

「つくばのガマさん」という認識は誤りとのこと。
一先ず修正します。

筑波大学OB、小林寛氏のアピールを紹介します。

2006年7月5日
小林寛
1979年度筑波大学全学代表者会議議長

筑波大の学友諸君、母校の名誉にかけて
法大生を支援しよう!

●26年前、筑波でも「3.14」があった
 3月14日、学内で学生が不当逮捕されるという事件がありました。今年2006年の話しではなく、26年前の1980年の3月14日のことです。その時から僕らはこの不当逮捕事件を「3.14反革命」と呼んでいました。当時逮捕された学生は1名でしたが、しかし不当にも起訴され、その後当然ながら裁判闘争もたたかわれました。
 ビラもまけない、立て看も出せない、そして学内で学生が逮捕されるような大学というのは、かつてはこの1980年当時の筑波大学の話しでした。逮捕事件があった数日後に開かれた大学の卒業式では卒業生の多くが大学当局のやり方に抗議して式を退場する(しかも学長式辞の時に)ということも起こりました。そして同じ年の秋には、筑波大では初めて機動隊が導入され大学祭が中止になりました。
 それでも当時の学生だった僕らは「10年遅れの全共闘」とか言われながらもがんばり抜き、学生弾圧の様相も「当時としては並」といわれるほどの大学にしていったものです。数百名が決起した大学本部棟への突入・座り込み闘争は当時の夕刊の1面にまで載ったたたかいでしたが、こうしたたたかいはもとより、クラス決議やストライキ投票、学内での全国学生集会など、実にさまざまな闘いをくり広げました。そうして力関係を変えていったと思っています。
●安東よ、法大生に迷惑をかけるな!
 さて、ここからが本題です。当時の筑波大の学生諸氏に訴えたいのです。今、この2006年になって法政大で学生弾圧をはたらく責任者になっているのが安東祐希という学生部長で、こいつが何と筑波大大学院(数学科)出身だということです。
 当時の学生諸氏なら気付くと思いますが、数学科の学生弾圧担当(ガクタン)といえばM教授です。いつも体操着で(時に竹刀まで持って)学生の前に姿をあらわしては「××君、無許可のビラはやめなさい」とか何とか言っていた、あのM!と同じ数学科ということです。大学院ではあれ筑波大出のヤカラが、今の法政大でこんな弾圧を繰り返していることを絶対に許してはならないと思っています。
 残念ながら少し前から健康を害しているのに加えて僕自身はカネも財産もないので、時々がんばっている法政大の学生さんたちの姿をキャンパスに見に行っていることぐらいしかできていないのですが、1980年を前後して筑波大に在籍していた当時の学生諸氏に心から訴えたい。カンパできる人はぜひカンパをしてあげて欲しい。カンパができない人も、退学処分撤回を訴える署名などにはぜひ応じて欲しい。そうして、この筑波大出身の安東を絶対に打倒してやろうということです。ぜひ!

 体裁を少し変えました。
 カテゴリーの「気になる左…」を削りました。
 中の記事は大半は新設した「容中核派など」か「元中核派」などに移しつつあります。一部は「社会を知る」にも行くかもしれません。

 「元や容」中核派の表現には当事者にとっては嫌だという方もおられるでしょうが、ご容赦を。
 同時に「非公開」として取り置きにしておいた記事の在庫整理を進めています。
 基本的には、新しい投稿として処理するつもりですが、時にはそのまま数年前に投稿済みという形にもなりそうです。(つまりなかなか目に入らない状態)

 時折パソコンの不調がありこの間は「フォント」他のメニューが機能しませんでした。
 「投稿」欄のモードが「かんたんモード」から切り替わっていたのが原因だと分かりましたが、ま、こんな簡単なことに疲れ果てる毎日です。

川崎の諸運動の核の一つになるのかどうか?
以下は無断引用。いつものとおり、片隅には「元」や「休眠中」のひともいる。
「ジョアンとは…フランス語…。人と人をつなぎ、運動と運動をつないでいこう」とある。

みんなで考え、行動しようという小さなサークルです。
環境の改善、平和と人権、また種々の差別問題の解決を目指しています。
 月1回の定例会を開催、会報「ジョアン」を発行し、同じく市民団体である「川崎から日本軍「慰安婦」問題の解決を求める市民の会」らとともに学習会、講演会や各種の行動を行ない、また情宣・広報を行っています。
 また原発の再稼働、輸出に反対、グループ「脱原発かわさき市民」にも参加して、毎月の署名行動や金曜行動にも行っています。


http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/curi.html

 加藤哲郎のネチズン・カレッジ 総合カリキュラム

 (注)大量なのでだいたいの感覚を残して直感的に。
    加藤氏の著作には中核派もだいぶお世話になった。

 1 情報学研究──必修科目

    <教養課程──情報学入門>

•ka「機密解除文書が明かす戦後日本の真の姿:GHQ文書」(『週刊 新発見 日本の歴史』44号、2014年5月18日)

    <専門課程1──情報応用学>

•加藤哲郎編集・解説『CIA日本人ファイル』全12巻(現代史料出版、2014年7月)、「解説」(第1巻所収)
•「社会民主主義の国際連帯と生命力ーー1944年ストックホルムの 記録から」(田中浩編『リベラル・デモクラシーとソーシャル・デモクラシー』未来社、2013年1月、所収)
•「日独同盟に風穴をあけた日本人<崎村茂樹>探索」
•反骨の在米ジャーナリスト岡繁樹の1936年来日と偽装転向(20世紀メディア研究所『インテリジェンス(INTELLIGENCE)』第4号、紀伊国屋書店、2004年5月)

   <専門課程2ーー世界史のなかのゾルゲ事件>  

•「イラク戦争から見たゾルゲ事件 」(ゾルゲ・尾崎秀実没後60周年記念講演、日露歴史研究センター講演録『現代の情報戦とゾルゲ事件』、2005年4月)
•「国際情報戦の中のゾルゲ=尾崎秀実グループ」(『 労働運動研究』復刊第14号、2006年8月)

<専門課程3ーー原爆と原発の情報戦> 
•「SFとしての『原子力平和利用』」(そのyou tube版、2012年5月25日明治大学講演記録)
•「占領下日本の『原子力』イメージーー原爆と原発にあこがれた両義的心性」(歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』、青木書店、2012年6月)
•DB「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」(2011年12月、同時代史学会年次大会報告資料)
•DB「反原爆と反原発の間」(2012年5月明治大学現代史研究会講演資料)
•「日本における『原子力の平和利用』の出発」(加藤哲郎・井川充雄編『原子力と冷戦ーー日本とアジアの原発導入』花伝社,2013)
•『日本の社会主義ーー原爆反対・原発推進の論理』(岩波現代全書,2013年12月)


  特別講義 1999年度全国8大学/2005年度一橋大学・学生政治意識調査集計結果

 2 政治学研究

    <教養課程──政治学入門>

•「グローバルな地球社会のナショナルな国家」(尾崎行雄記念財団『世界と議会』第518号、2007年11月)
•疑問を感じて学ぶ楽しさ(有村かおりとの大学新入生向け対談,1997)
•「学生生活と地方選挙」(一橋新聞、2003.5.13)
•グラムシからポスト・マルクス主義へ(『グラムシと現代世界』1993、所収)
•一つの国家論入門──社会科学を志す人々へ(大学院生向けエッセイ,1985)

    <専門課程1 政治経済学:現代世界論、日本的企業社会・過労死研究>

•「戦後日本の政治意識と価値意識」、渡辺雅男編『中国の格差、日本の格差』(彩流社、2009年11月)
•「グローバル・デモクラシーの可能性ーー世界社会フォーラムと『差異の解放』『対等の連鎖』」(加藤哲郎・国廣敏文編『グローバル化時代の政治学』法律文化社、2008年3月、所収)
    
   <専門課程2 社会主義・共産主義研究>

・日本共産党新綱領草案について(2003/6-7)
•20世紀社会主義とは何であったか(講演記録,1998)
•ほめ殺しと脱労働の社会主義(論文,1995)
•マルクスにとって、共産主義社会ははたして究極の目標だったのか(『アエラ・ムック  マルクスがわかる』朝日新聞社, 1999所収)
•『共産党宣言』の現代的意味(『経済と社会』誌12号,1998)
•ローザ・ルクセンブルクの構想した党組織(ローザ・ルクセンブルグ東京国際シンポジウム報告、1991)
•『日本共産党の70年』と日本人のスターリン粛清(公開しなかった公開状、1994)

3 現代史研究

    <教養課程──日本現代史入門>

•「21世紀から『戦後史』研究を考える」(記念講演記録、『静岡県近代史研究』第29号、2003年10月)
•短い20世紀の脱神話化(思想の言葉,『思想』1999/1)
•高度経済成長は何を変えたか(『別冊歴史読本 日本史研究最前線』、2000年5月)

    <専門課程1 日本現代史:世界史のなかの日本> 

•「情報戦のなかの『亡命』知識人ーー国崎定洞から崎村茂樹まで」(20 世紀メディア研究所『インテリジェンス 』誌第9号、2007年11月)
•「戦争と革命ーーロシア、中国、ベトナムの革命と日本」(『岩波講座 アジア・ 太平洋戦争』第8巻『20世紀の中のアジア・太平洋戦争』i岩波書店、200 6年)
•社会民主党宣言から日本国憲法へーー日本共産党22年テーゼ、コミンテルン32年テーゼ、米国OSS42年テーゼ(『葦牙』第31号、2005年7月)
• 
・戦後天皇制をめぐる毛沢東、野坂参三、蒋介石(インターネット版)(「『野坂参三・毛沢東・蒋介石』往復書簡」『文藝春秋』2004年6月号のネット版)
•「世間」と「社会」の相克(藤岡信勝批判,1995)
• "Japan in the 20th Century"(エル・コレヒオ・デ・メヒコでの日本現代史講義シラバス、1999)
•20世紀日本における「人民」概念の獲得と喪失(Web特別版、立命館大学『政策科学』2001年3月)
•「新たに発見された『沖縄奄美非合法共産党資料』について(上)」(大原社会問題研究所雑誌、2001/4、PDF版)

    <専門課程2──国際社会運動史:旧ソ連日本人粛清史研究>

•須藤マサオと国崎タツコのこと(『国民国家のエルゴロジー』後書きより)
•「ササキこと健物貞一探索・遺児アラン訪問記」
•勝野金政生誕100周年記念シンポジウム

    <専門課程3 20世紀の知識人:国崎定洞とワイマール末期在独日本人の研究>



•「島崎藤村と日本ペンクラブ』(日本ペンクラブ『P.E.N.』第423号、2014年2月)

    <専門課程4 日本社会運動史:旧ソ連秘密文書等からみた再考> 

•「非常時共産党」の真実──1931年のコミンテルン宛報告書(大原社会問題研究所雑誌、2000/5、PDF版)
•査問の背景(川上徹『査問』ちくま文庫版・解説)


4 図書館=書評の倉庫――ためになる本、掘り出しもの 





 

いろいろの報告があったのでまとめなおしました。

┗■2.3・22安倍NO!大行動に参加して・感想
 |  市民の力を今後ふたまわり大きくしたいもの
 └────  柳田 真(たんぽぽ舎)
 
.たんぽぽ舎は、首都圏反原発連合の一員として、3・22大行動に積極的にとりくんだ。従来の3団体共催ではないことに、いちまつの心配をもちつつも原発再稼働推進の安倍NOに共鳴して参加した。実は、3月は、3・1のたんぽぽ舎26周年(総会)、3・8の反原発行動、毎週の金曜官邸前抗議行動と忙しい日程だったが、たんぽぽ舎の会員を中心に多数が参加した。全体は14000
 デモ解散地の「経産省前テントひろば」の集会は、かわさきの皆さん、釜ヶ崎日雇い労組の皆さん、「再稼働阻止全国ネットワーク」、たんぽぽ舎などの合同集会。(参加者は150から200)
 「テントガンバレ・連帯して闘うぞ」の激励、コールと4団体の発言で良い中味の集会で終了できた。寒さもなく、時間も長くなく、ほどよい疲れで帰途についた。
2.準備とビラまき
 20(金曜日):ビラのちょうあい-5種類のビラを同封(10人強で)
 21(土曜日):コールの打ち合わせ(5人)-初めての安倍NO!の行動なので。
 22(日曜日):ノボリ旗や横断まくを用意。朝11人で若干のミーティングのあと、荷物を手分けして日比谷へ出発。
 Nさんらがノボリ旗の上にカザグルマをつけて、また、下に「安倍NO!」をつけて、ONコンビのチョウチョ(いっぱい)も加わりさらににぎやかにした。12時から、日比谷野音の入口の横で、ノボリ旗と横断まく(命と大地を放射能から守ろう-川内原発再稼働反対、ほか)を立て、ビラをまく。1700枚を20数人で1時間でまきおえる。アソシエーションの仲間、三多摩自由労組の人々、江東区の仲間、座間市の仲間、「経産省前テントひろば」の人、茨城の人その他70人強になる。これに釜ヶ崎日雇い労組が加わり、130人程の隊列でカスミ門へ行進。そのまま国会大包囲へいく。(日比谷野音内の集会のもようは、東京新聞記事等参照)
 前段でビラを全部まきおえると、「仕事を1つやりおえた」達成感が出る。入口でたくさんもらったビラ(沖縄の闘い、公明党抗議デモなど、注目するビラがいくつもあり。)
 事後にゆっくり読むのも参考になる。
3.国会包囲行動が約1時間30
 私たちは、金曜反原連のちょっと前の定例場所=国会前に旗を立ててスピーカーの演説を聞く間に、警官6-8人がメガホンでいろいろ言う。これがうるさくて、演説者の話がよく聞こえない場面がしばしばあった。それで実行委員の腕章をした2人に「警官のメガホンがうるさい。みんな自主的にやっているから、交通妨害になっていない。あの警官のうるさいのを止めさせるよう申し入れてほしい」と伝えた。私もじかに警官へ言った。少しは効果があった。 日比谷と国会で、知人・友人に何人もあった。久しぶりの人、カンパを渡してくれた人、「スペースたんぽぽ」の講座に参加しますと伝えてくれた人(上野千鶴子講座が人気など)、いろいろ声をかけられた。
 大きな集会に来て感ずることは、たんぽぽ舎は、「たんぽぽ舎のデモ隊列に加わってくれる人々」のほかに、こういう多くの人々の声に支えられ、励まされて、その中でやってこれてるのだなあ、ということ。
4.全体集会解散後に歩いて数分、経産省前テントひろば激励の集会(4団体1502OO人)をやったが上出来であったと思う。短時間ながらもみんなでテントをしっかり激励した。
 今後、市民の動きがひとまわり、ふたまわり大きくなって政党系列の運動を大きくつつむ力量を身につけて、安保内閣打倒・原発再稼働阻止へ進むことを望む。
・集会全体の人数は、前回の3.8反原発行動より、やや少なめの人数と感じた(理由は日比谷野音の中の入りと、外の人数をみてどちらも前回3.8行動より、やや少なかったから)。直接国会行動へいく霞門前の人数も前回よりやや減少であった。

 
顔アイコン
映像が公開されたので。
https://www.youtube.com/watch?v=bk8Pjtb

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