2016年03月

 ここで『流砂』10号を紹介したことにも色んな意見があります。

 両氏の「対談」は読みましたが、いくつかの政治局にかかわる新事実には注目しました。
 ただ、「理論的・実践的」議論はパス。もっと事実に即して語れ、です。
 内容については前掲の目次から想像してください。

 その上で、「荒川スパイ事件」への異常なこだわりにはうんざりします。
 ここでは「良くぞ言った両氏のデマ」というにとどめます。
 とりあえず、両氏の「クロ説」が「根拠のない暴言・妄言」、「底の知れたためにする言説」だということが明らかになったということ。いわば「妄想の世界」。

  「流言飛語(りゅうげんひご)」というのが適切でしょうか?

 両氏のクロ説の〈自滅〉によって、「推定無罪」論は、相対的にもうひとつ「よりシロに近いものになった」と言えるでしょう。
 とはいえ、「流言」は人を惑わし毒を撒き散らすもの。大事な仲間の中に混乱やいがみ合うことになるのですが。

投稿から関連部分を転載します。
【以下引用】… … … … … … … … 
岸・水谷両氏の「新証拠」を読んで両氏による「クロ」説が「根も葉もない」妄言であることだけは分かった。「ためにする」ものと断定したい。
13年の実刑が権力によるサジ加減〉だなどとよく言えたものだ。言うに事欠いて…。「いくら嫌いな奴だからと言って言ってはいけないこともある」。長期・重刑を耐えて闘ってきた人に対する「同志」としての礼を失ったら、「イスト」としても終わりだ。

「争論」に『流砂』10号での岸・水谷両氏の「対談」の骨子が紹介された。
   クリックしてみてください。

投稿から関連部分を転載します。
【以下引用】
… … … … … … … … 
『流砂』10月号の岸・水谷両氏の対談「自著を語る」を読んだ。

荒川スパイ事件については、彼らのこだわりや論理が読めば読むほど分からなくなる。
 
『流砂』で「補強された」スパイの「証拠」はあまりにひどいし、(未決拘留を合わせて)獄中15年3か月をスパイのための下獄とするなど噴飯極まりない。どうしたらこんな突拍子もないことを考えたり公言できるのだろう?
 見方を変えると、「対スパイ対策委員会」のレベルがこんなに低劣なものだったとはとうんざりする。
これでは本格的なスパイの摘発などできるはずがなかったろう。中央の中枢に近いところにスパイがいる、そんな気がするけれど、彼らにはそのスパイに踊らされるのがいいところだったろう。
 
もっといえば、「内部かく乱分子」として左翼世界でもう一度脚光を浴びたい、という願望を顕わにしたとでもいうしかない。そうでも言わなければ我慢できない。
腐敗の極みだ。
【以上引用】

【私の補足】70年代半ばが、どんな時代の転換期だったか。
オイルショックという恐慌を経て経済がV字回復してしまった時、「恐慌と戦争と革命の時代」の夢が急接近し、遠のいていった。踏ん張っていた地区労や公労協そして総評・高野派などが後退した時、そして技術革新や産業の再編に対する「反合闘争」が集中砲火を浴びて崩れていったとき。
対カクマル戦争がそこにどんな形であったのかは、改めて検証しなおさなければいけない。問題は「二つにして一つ」だけれど、ひとまずは別々のそれぞれが大問題として整理したい。60年安保の広い裾野とその後の労働運動を支えた無党派左翼の分厚い層の存在が、70年を準備し押し広げたことも合わせて…。

投書から 「労働運動だけはやりたくない?!」
【以下引用】
『敗北』と『流砂』を読んでつくづく「こんな奴らが俺たちの指導部だったのか」と情けなく思う。
全編〈自己正当化と居直り〉だけじゃないか。
「労働運動だけはやりたくない」という思いだけが伝わってくる。

俺は高校を卒業して労働運動のために職場を選んで就職した。
昇級試験も拒否して現場一色で貫いてきた。
同窓や同期の仲間で「労働運動のために就職した」のは少なくない。
それぞれそれなりに重要なポストや役割を担ってきたと自負している。
それが中核派なのだと信じてきた。それが本多さんの指導なのだと思ってきた。「俺たちこそ本流だ」とね。
 
70年代半ばは動労のスト権ストや全逓の郵政○生粉砕など、公労協系では山場を迎えていた。官公労や医療などではそれなりの拠点もあり、民間でも69年や71年の決起で活発な青年部・婦人部が動いていた。そう、「これから」という思いがあった。
中小や下請けの現場ではようやく新左翼の運動が浸透しだして来たころだとも言える。共産党系の医療・保育の現場でも激しい徹夜団交や「つるし上げ」もあった。民間でも「民間右派」のゼンセン同盟などが激しいストをしてもいた。民間大手ではずぶずぶの当局丸抱えの「労組」の支配が進んではいたが、その足元で青年部の決起があったように、勝負がついていたわけではない。
そんな中で、職場に根付き、「何年」という時間をかけ、手間隙かけて、同僚や支部・地本などの信頼を作り出してきたと言う自負はある。当時は新左翼の世界でも長崎造船(社研)が高く評価されていた時代でもある。長船は結果的には少数派組合ではあったけれど、「少数派組合主義」や「赤色労組主義」ではない。あくまで多数派になることを実践的に目指す運動だった。それが中核派の目指すものなのだという共通認識があのころはあった。
対カクマル戦の時代は厳しかったけれど、職場から逃げることはしなかった。青婦協レベルでも力を発揮していたんだ。
『敗北』では労働運動自体を「右派」と切り捨てているようにしか読めない。『流砂』にも労働運動の言葉すら出てこない。これが「左派」の正体なんだと思う。
 
中野の動労千葉特化運動は、中核派の労働運動を「動労千葉無条件擁護」に落とし込めるものだったと言っていい。千葉の道具にされたのかもしれない。大事なことは動労千葉のあれこれの限界をいうのでなく、それぞれの現場に応じた運動が必要なだけだ。
もちろん「政治闘争」は労働運動にとっても大事だ。現場での運動にとっても関わることでの「利益」も少なくない。ただ、「中央」に引き回された画一的なスケジュール闘争ではなく、現場の色んな要素を組み込んだ闘争の配置や中身も大事だ。政治闘争だって、「通り一遍の反戦・平和」だけでもない。この社会全体を見据えた広い視野の「政治」を語る必要がある。「労働者指導部」でも、幹部になって上から管理しようとすると、そういう目配りや根回しができないやつも少なくない。それぞれのあり方を知らないやつが多すぎるんだ。
現場や、時には地区や地本の幹部にも信頼され、影響を与える位置に立つことも必要だ。「スパイ事件」の栗山さんなどはその辺を良く分かっていた人でもある。
ま、とにかく、中核派からは(「左」であれ「右」であれ)「3全総」が消失してしまったことが『敗北』本や『流砂』でよく分かった。
 

↑このページのトップヘ