2016年07月

埼玉の友人からのメールを転載します。(2016年7月25日受信)
【以下引用】

辺野古の仲間磯君から送ってきました。高江はこんな状況です。広く拡散してください。

       ひき逃げ機動隊をとっ捕まえろ!
 機動隊指揮車両の暴挙について。 
  現場となった高江の県道は駐車禁止区域ではない。なので高江のN1ゲート付近で今まで駐車違反の取締りが行われたことはない。
  それが今日の18時頃になって機動隊員がなんらの事前通告もなくいきなり、これから一カ月間この付近を駐車禁止にするとオモチャのような駐車禁止のカンバンを持ってきた。
 我々がその法的根拠を示せと要求しても一切答えず、車両の移動を命じた。こんなバカげた規制はかつて聞いたこともない。当然、我々はその法的根拠を含む規制の根拠を問い質すが説明は一切なく、抗議を続ける我々を機動隊は排除しようとした。その抗議の最中、機動隊の指揮車両(トヨタランドクルーザー)が我々の仲間の男性をひくと言う事件が起きた。
 > 男性は指揮車両が抗議の現場に向かうのを止めようと指揮車両の前に立ちはだかり、そして指揮車両に背を向け道路にあぐらをかいて座った。指揮車両の運転手はそれを知っている筈だし、周りには何人もの機動隊員がいたが、前方に安全確認をすることなく車を発進させ男性の背後から覆いかぶさるようにバンパーをぶつけ、男性は地面とバンパーに挟まれる形で強い前屈位を強いられた。
 事態に気付いた反対派女性が指揮車両を停め、挟まれた男性を救出したが、自ら動ける状態ではなかった。その男性に対して機動隊員はなんと『そこをどきなさい』と暴言をはき、3人の機動隊員が乱暴に路肩に運んだ。男性は呼吸が苦しいことと背部の強い痛みを訴え救急車が呼ばれた。この間、機動隊の指揮車両の運転手は降りることもなく現場を去っていった。
 人身事故では最も重要な怪我人の救出を警官本人が怠り、ひき逃げ同様に現場から去ってしまったのである。
> 男性は救急搬送され、現在、沖縄県立北部病院で検査中であるが、痛みの他に『このままひき殺されると思った』と強烈な恐怖を語っている。今後は怪我の治療とともにメンタルなケアも必要であると考えられる。
 > 強い怒りとともに現在の高江、辺野古、沖縄を象徴する事件として糾弾しなければならない。
 >  オモチャのような駐車禁止の標識を守る機動隊
 > この標識がひき逃げ事件の発端
 > 結局、一台の車両も規制できず、現場の混乱と怪我人を出しただけで終わった


関連記事がネットにあったので…。
平和こそ我が命

(戦争)の否定
 高江で警察にひき逃げされた方は非暴力・不服従体現者
    杉浦公昭
 22日に続いて、本日午後1時に、私は【沖縄・高江発】警察が反対派市民をひき逃げ】についてお知らせいたしました。
 その後、本日午後4時過ぎに友人の斉藤さんよりひき逃げされた本人大畑豊さんの事情説明が届きましたので転送させて頂きます。 
 大畑豊さんは、埼玉県の志木市から沖縄へいった方で、【第9条を抱きしめて~元米海兵隊員が語る戦争と平和~201553放送 制作 読売テレビ】に出てくる
 元海兵隊員アレン・ネルソンさんに憲法九条を紹介した人だそうです。 

             
From: kiyomi_s

Sent: Tuesday, July 26, 2016 4:24 PM
Subject: [オール埼玉実行委ML:0931] 高江の男性は大畑豊さん  NNNドキュメント でも
 
 高江で警察車両にはねられた男性は
 古くからの運動仲間の大畑豊さん(志木市→沖縄)です。
 彼はガンジーの非暴力・不服従を身をもって体現し続けています。
 私宛ではないのですが、彼のメールを貼り付けます。無事で何よりでした。
 以下の「9条を抱きしめて~」の中にも登場します。この動画が素晴らしい! (斎藤)
  
 9条を抱きしめて~元米海兵隊員が語る戦争と平和~
 201553放送 制作 読売テレビ
 
 dailymotion(全編45分動画)
 
2016年7月23日

 大畑豊です。

 ご心配をお掛けし、お騒がせしてしまい申し訳ありません。
 昨日22日高江から伊江島に戻ってきました.

 病院の緊急外来で緊急の措置が必要な異常があるかと、骨の検査をして一泊して退院しました。特に異常は見つかりませんでしたが、整形外科の診察も必要なので、それは来週行うことになりました。

 ごく簡単にご報告しますと、21日午後6時半ごろ、ランドクルーザーの警察車両(「指揮車」というらしいですが)の前に私が立ちその進行を止めていました。

 現場指揮官も、指揮車は動くな、という指示を出していたこともあり、私も排除されることはありませんでした。時間も長引いてきたので、その場に座り込んでそのまま止めていましたが、何分か経つと、私の帽子に車体が当たったので、指揮車が後退するために動き出したのかと思ったのもつかの間、ジリジリと前進を始め、車を背にあぐらをかいて座っていた私を二つ折りにするようなかたちで、のし掛かってきました。

 私は瞬間的に「押しつぶされる」「殺される」との恐怖を感じ何らかの声を上げたのは覚えてますが、精神的にパニクっていたと思いますので、その後の記憶は飛び飛びです(意識を失っていたわけではありません)。

 この後のことは周りから聞いた話しですが、このときの警察の対応もひどく、運転手も降りて来ないし、もちろん被害者の救助もしようとしない。現場検証もしないまま、車も移動させてしまう。

 こうした対応に緊急抗議行動が取られていると、救急車で搬送中に、同行してくれた仲間が教えてくれました。
 (余談ですが、病院で待っているときに彼と話しをしていたら、なんと志木市館に以前住んでいて向井さんとも知り合いとのことがわかりました。現場では何度も顔を合わせていたのですが。)

 なお、現場を見ていた女性が大きな声をあげたため、警察車両は止まったとのことで、もしこの女性が声をあげていてくれなかったらと思うとゾッとします。

 幸いにも、大きな異常も現在は見つかってないので、養生をしながら通院と名護署の対応をしていきたいと思っています。
 事故翌朝、退院後に名護署に行きましたが、名護署としてはまだ事故として認定したわけではない旨の発言をしていましたので、まだ先行きが不透明です。

 重ねてではありますが、お心配をお掛けした皆さまにはお詫びとお礼を申し上げます。

 報道でご存知とは思いますが(「本土」でどれほど報道されているかわかりませんが)、圧倒的な数と力にものをいわせた機動隊による激しい排除により、22日もけが人が続出したため、阻止行動は中止され、市民が設置していたゲート前のテントや車などは機動隊により、あるいは自主的に撤去されたのち、防衛局による金網が即座に設置され、これまた即座に工事のための伐採が始められてしまいました。

 市民たちによって守られてきた森が目の前で伐採されていくのを見ることは、親の前で娘が乱暴を受けているのを見せられているようで誠に忍びなかったです。

今回、テントが撤去されてしまい、工事再開を許してしまいましたが、工事を中止させるための抵抗運動はこれからも続きます。
 今後もぜひ高江、辺野古、そして伊江島、沖縄での軍事機能強化の動きへの異議申し立ての声を上げていただきますようお願い致します。



正確には橋本利昭氏の個人の責任で、という表現が公式には正しいのかもしれません。
『展望』18号(7月刊)の『革共同私史』で、
「私は、彼の名誉回復の闘いを断固支持する」とした。

詳細は『争論』を参照のこと。

孫引きですが。
辺野古のカヌー隊として奮闘する知花昌一さん。
三里塚で星野解放で、共同の戦いを重ねてきた知花さん。
元沖縄大学自治会委員長。
私も「自治会防衛」と「日の丸焼き捨て」裁判には何度も那覇や読谷を訪れた。
そして中核派は、「沖縄主義者」として切り捨てた。
【以下引用】

僧侶になった沖縄の元読谷村議(6日の日記) 

カテゴリ:政治問題
 沖縄県読谷村の村会議員を3期務めた後、浄土真宗の僧侶となった知花昌一氏を、4月6日の朝日新聞コラムは次のように紹介している;


 救いを求めて仏教の道に入ったわけではない。弾圧に立ち向かった親鸞にひかれたという。

 沖縄国体のあった25年前、生まれ育った沖縄県読谷(よみたん)村の競技場に掲揚された日の丸を引きずり降ろし、火をつけた。器物損壊などの疑いで逮捕。事件は波紋をよぶ。

 読谷村は沖縄戦で米軍が上陸した地点だ。地元には83人の住民が「集団自決」した洞窟がある。子どもたちも多く犠牲になった。彼らに死を強いた日の丸は「戦争の旗」だった。

 村には街宣車が押しかけた。経営するスーパーは放火された。だがエールを送ってくれた人がいた。近くに住む年上の男性だ。ハンセン病だったことを理由に高校受験で不合格にされた過去がある。「おれは声を上げて告発することができなかった。君は思うままに生きているじゃないか」

 男性を支援している浄土真宗の僧侶たちとの交流が生まれ、開祖の親鸞へとつながった。「流罪にあっても時の権力に迎合しない様(さま)にほれた」。読谷村議を3期務めたのち、昨春から京都市にある真宗大谷派の大谷専修学院で1年間仏教を学び、僧侶になった。

 3月末、復帰40年の沖縄に戻った。1日には「集団自決」の慰霊祭に法衣(ほうえ)で出席。「沖縄を戦争のためにもう使わせない。仏教は平和と平等を願うもの。その精神を基地問題にも貫いてゆきたい」


2012年4月6日 朝日新聞朝刊 14版 2ページ「人-僧侶になった沖縄の元読谷村議 知花昌一さん」から引用

 戦後に生まれた多くの国民は、戦争体験も無く、日の丸と言えば大相撲やオリンピックで見る旗だという無邪気な感慨しかないかも知れませんが、私たちは明治以降の日本が何をしてきたのか、真摯に歴史を見つめ学習する必要があると思います。

ついでに「僧侶になった沖縄の元読谷村議」の検索から

知花盛康さんも併せて検索すると、
アマゾンからは以下

以下、まずは『抜き書き』からの抜書き。
本題からずれているような、ずれていないような、の問題だけれど。

〔この「白井新党問題」についての記述が事実だったとして、これをまとめなおしてみると、白井朗(最古参PB、のちに自己批判を拒否して逃亡)が、どういう意図でか「新党」を構想し、その人事案を書いたものが、不用意に露呈して問題になった、ということ。これだけでは不明瞭としか言いようがない。〕

 「これだけでは不明瞭としか言いようがない」には同感だ。
 「自白録」の「原本」に白井さんの「新党構想」が一部引用されていて、それへの荒川さんのコメントという形なのだけれど、「記述されていたことの意味合いも事実かどうか」「不明瞭」だ。

 同時に、抜書き氏の記述自体も不明瞭なままだ。 
 
 普通に考えれば、このメモの元は02年の白井さんの自宅への襲撃で中核派が奪ったものだ。
 「不用意に露呈」した程度のものではない。
 知らない人は以下を参照して欲しい。


 本社にいて一定の地位にいる(左派の)人間が、本気で「白井へのテロは権力かカクマルがやったもの」と信じているのだろうか?最大の疑問だ。『資料蒐集』の担当氏もそう思っているのだろうか?
 あえて言えば、02年の白井さん・角田さんへのテロは、中核派のしかも「左派」が主導したことは今では「周知・公知」の話でもある。

  しかし、『敗北』本でも白井さん角田さんへのテロは事実の存在自体にも触れなかった。

  両氏に事実を語って欲しい。「中核派がやった」ということだけでいい。
 「時効」も過ぎたし責任と実行主体を語らなくてもひとまず良しとしよう。自己批判など期待しない。けれど、「中核派の真の歴史」を語ろうとするなら、最低限の義務ではないのか?こんなことでは、「10・8前夜のテロ」への自己批判も〈さもさもしい〉
 
 ただ、中央派内でもこんなレベルのメンバーは少なくないのかもしれない。
 中央派に望むことは、「二つのテロ」の実行の事実の確認だ。自己批判以前の話として。
 「鉄パイプを使わなかった」⇒「マスコミや当局がテロ認定をしなかった」⇒その意味や経緯も知りたいところだ。「左派」と中野さんと天田さん、そして清水さん。それぞれどんなスタンスに立ったのか?

 この抜書き氏のコメントを通しても分かること。それは、「自白録」の「原本」には、「反中央」のフラクや集団を槍玉に挙げて追及する趣が余りに多いことだ。しかもその内容が「不明瞭」だらけ。さらにいえば、「反党分子」の情報の掌握があまりにオザナリな、中途半端なものだということ。    

 「これで良く、専制が成り立つね」という人もいる。
 それが荒川さんの応対とどんな関連で編集されたものなのか?まったくの作為・作文と「事実」を歪めた編集との混在としか読めない部分も多い。
 
 天田さんら中央には、少なくとも当時は党員であった」「抜書き氏」の誤解や数々の疑問・コメントに正面から答えて欲しい、と願う。「風通し」を良くするためにも…。

 【追伸】ここまで書いてきて、二つのテロの自認とは「きわめてハードルが高い問題」であることを改めて思う。テロを非難した人らへの脅迫的撤回要求運動に踏み込んでしまった事実は消し去れない。署名した人らへの非難の数々は今も内外双方の当事者の内側に生きていそうだ。
 生れてしまった溝の大きさを改めて思う。問題は「中核派はやっていない」と信じたからこそこうした運動にのめりこんだメンバーに対する責任の取り方だ。テロへの是非と並んで、「やったことをやっていない、という」中核派の矜持に関わる問題。これはこれで大きな課題だ。

【追伸】二つのテロに先立って、01年の「第6回大会」で「白井除名の特別決議」。決議とテロの関係やいかん?
 02年3月には「小西誠=反革命」規定。小西さんは革命21に参加していた。外から見れば〈元核派が他党派に移ったことが反革命〉と読める。その革命21は「11月労働者集会」(路線)の共同呼びかけ団体である関西生コンが中心的柱。この関ナマ(革命21)からの撤回要求を中核派は拒否。集会の成功を『前進』は高々と歌うが、関ナマ側は記事にも載せない。この辺のいきさつも知りたいところではある。
  その結果、94年から始まる「新潮流運動」、99年からの「11月労働者集会」路線は、「新潮流運動」という中野政治の大局からすれば、破滅的結果に終わった。党内的責任の所在は分からない。
 中野さんの「新指導路線」「8・1路線」はこの翌年、03年に「党の解体的再編」をかけて始まる。
 『敗北』本ではこのへんのいきさつが分からないが…。

 
 「反党」「反革命」「スパイ」規定とテロ。この辺を見返り、「何が良くて何がいけないか」を、それ自体として議論する風土が欲しいと思う。
 
 


2010年刊。ポット出版発行
「親父」の加納明弘氏と「息子」の健太氏の対談。
「親父」は1946年岐阜県生まれ。
65年東大文Ⅲ入学(現役)。
入学の5~6月には日韓闘争⇒中核派に加盟。
67~68年の「死闘の7か月」を経て中核派を離脱。
  ノンセクトラディカルの先駆け?となる。
69年東大闘争・安田講堂を経て運動からも離脱…ということらしい。

イメージ 1  私が66年に入学して中核派に結集した頃、中核派の全都アクト会議(活動家会議)などでも活発に発言していた数人か十数人の1人だったと思う。当時は2年生か?3年生か4年生になれば中核派の若手リーダーを嘱望されていた人だ。

 本書は「親父」が息子と対談しながら当時の意味を振り返ろうと言う形式だ。それ自体ちょっと引かれる形でもある。それもあって時々風呂敷が大きくなり、脱線し、収拾できない話にもなる。
 その後のいくつかの友人らの関わりは大事だ。風変わりな人との付き合いから出てくる大人の知恵も対比できてそれも面白いと言えば面白い。
 その後の発見や後ヂエも大きそうだ。

 そんな形式の選択が成功したか否かは、読者の興味や関心しだいと言うことだろうか?

 私に戻れば、68年の王子野戦病院突入・占拠の共同被告でもある。突入時のスローガンは「開設阻止」だったはずだけれど加納氏に拠れば「閉鎖」になる。各所で記憶の揺らぎがありそうだ。

 氏が中核派からの離脱に至った最大の要因は「内ゲバ」にあったという。
 67年10.8羽田前夜の法政大での中核派による解放派へのテロ。氏はその報復に革マル派と並んで解放派が優勢な東大駒場でラチ・テロの対象になった。「なんていうかな、三派全学連が持っていたある種の明るさを、打ち砕かれるような事件だった」と述懐している。
 清水さんはもちろん、中核派の政治局が直接関わったということは限りなく大きい。
 
 中核派は大事な地平を失い、有望な若手を失ったことにもなる。

 私に戻れば、この時拉致された「5,6人」のメンバーにはたぶん前高の同級生も含まれる。
東Cの中核派はしばらく後に、駒場寮からも追われて「亡命生活」に入る。カリスマ的リーダーを失った駒場中核派…。東大闘争で内在勢力として中核派が影響力をもてなかった一因にはこの過程も大きい。(もっとも東大全共闘の「自己否定」論にいたる大学論や学問論には中核派には対応力を失っていたし…、だが)

「解放派は寮の部屋に突入するとガリ版や謄写版をひっくり返しては帰っていく。けれど革マル派はそっくり奪っていく」。
 亡命前の頃に同級生に聞いた話だ。加納氏がこの時に受けた暴行に比べれば、その後の同じ東Cの学生同士の解放派のゲバは少しは穏やかだったのだろうか?小野田譲二氏に拠れば、体を張って和解に乗り込んだのは氏だったと言う。直後に小野田氏は東大・早稲田への関与を本多・清水の両氏の立会いの場で禁止される。

 たしか早稲田でも同じようなことが起きた。ま、キャンパスが離れた理学部では比較的自由に展開できたらしいが。
 そして法政は中核派の天下だ(クロもいたし、土手の向かいは民青の支配下にあったが)。大闘争時には全都・関東動員の熱気に包まれたキャンパスでは、その衝撃だけで瞬時に数百の法大生の白ヘル隊列が生れた。大スターの秋山委員長の声を聴いて学生は飛び出してくる。
 当時の法政には私が尊敬するリーダーもいた。そして前橋・前高の仲間も白ヘルの中心にいた。色んな形で高校生時代に大衆的運動をリードしてきた仲間や後輩は、「画一・お仕着せ」の中核派に飽きて散っていった。

 「解放派との戦争」が宣言される。その後紆余曲折を経て何度も統一行動が実現された時も、個別大学ではそれぞれの主流派が内ゲバ的に他派を排除し独裁を維持する構図は戻らなかったはずだ。「上からの」「内ゲバの時代」が始まっていた。あるいは裾野を広げ、最高潮に達してきた?

 そんなことが常態化した後に、革マル派による「他党派解体のための向自的(目的意識的)党派闘争」が発動される。革マル派のゲバルトはそれ以前に比べても、次元の異なるものではある。けれどまた、「それ以前」自体がすでに「一線」を越えていたのも事実だ。
 
 「内ゲバ」総括の起点をどこに据えるべきか?どこに向かうべきか?
 小野田譲二氏らの「反戦連合」ができたのもこの後だし、埼大の先輩たちがどちらも拒否して意識的に金や銀のヘルをかぶったのもほぼ同時だ。
 無党派・脱党派という実は最大の「勢力」になる選択とどう向かい合うべきか?
 「無党派とは未だ党は選択ができていない左翼的層」という定義が崩壊した時代でもあった。
 いまから思えば。でもあるが。
 
 そして卒業(時に中退)して社会に入っていく共同の準備をどういう形でやれたのだろう?
 自分を当時の現場に置きなおしてみたとき、どんな答えを見出せるのだろうか?

 「オーバーサーティー」。つまりは「30歳を超えたら体制内の秩序派」という若者の鋭く激しくせつな的心情をどう誘導し、どう応援するか?お互いに、今はそんな歳になった。









転載します


選挙真っただ中、いかがお過ごしでしょうか?
BCCで失礼します。
もしかして、もうご存知かもしれませんが、
参院選の争点「改憲」の貴重な参考資料と
思います。日本会議の本音です。
参考までに転送します。

-----Original Message-----

ユーチューブに「憲法改正誓いの儀式」が流れていることがわかりました。驚くべき内容です。
https://www.youtube.com/watch?v=h9x2n5CKhn8
ここでは、衛藤晟一内閣総理大臣補佐官、長瀬甚遠元法務大臣、城内実外務副大臣、稲田朋美政調会長など自民党中枢の人々が
「いよいよ、ほんとうに憲法を変える時がきた」
「国民主権、基本的人権、平和主義の3つをなくさなければならない」
「日本にとって一番大事なのは国体だ」
「尖閣諸島を軍事利用しよう」
などと叫んでいます。


【注】安部自身も出席しひな壇に並んでいる場所でのこと。

前同 転載します。

中野フラクについて

「荒川スパイ事件」は前記「中野フラク」絡みでもあるが、しかしまた「党の革命」以降のいわば「新地平」での事件でもある。貴ブログでの「両氏」との対峙も、両氏の「新地平」への無知・無理解への対応から導かれる「バイアス」にひきづられる側面には注意を喚起したい。
今回は「中野フラク」について少々。

このフラクが、政治局副議長に率いられたものである以上、少なくとも「公認」ないし「半公認」のフラクション(党員の半恒常的集合)であったことは前提だ。時期が異なるが、清水議長が主催する現場労働者の「諮問機関」が事実上「政治局」の上に立つ非公式機関になったことと対応する。

そのフラクの主たるメンバーに栗×氏はいた。各産別の指導部の一部と編集局などから選抜して構成され、政治局や政治組織小委員会(POSB)などの「党機関」を介さずに本社と交流センター・産別の現場に直接影響力を及ぼす陣形があったことは多くの人にとって当時も周知のことだ。
このフラクに荒川氏もいた。そして交流センター事務所から転落して死亡した荒木氏もいた。

『資料蒐集』がアップした「抜き書き」は資料価値としてはあまりにひどいが、抜き書きした本人か両氏が書き加えた[ ]部分には彼らの本音か思いが問わず語りに浮き彫りになる。以下引用する。

〔この種の権力への「情報提供」と「お金」の魔力、そして「階級闘争に絶望した」後の中野路線は本質的に矛盾はなく両立するのだと思う。〕

〔さらに「自己批判を深めよ」というような尋問・追及だったのかどうか、荒川の筆は自分をそういう裏切り・スパイ行為に及ばせた党内事情の歴史的詳述へと向かっていく。この領域においては、党の内情暴露的な様相を呈して、書いている荒川のある種の「高揚感」のようなものまで伝わってくる。〕

 〔荒川は、中野顧問の名代であるかのごとく、中野顧問の政策、行動、アイデア、などを紹介し解説し、その指導力に賛辞を送っている。そしてそれらを最もよく理解している者としての自分を誇らしく売り込んでいる。「どうだ」と言わんばかりである。
「新指導路線」を公調の担当者が庁内で説明したことを得意になって自分に報告した旨を荒川は書いているが、明らかに荒川自身が「それを伝授したのは俺だ」と得意になっている。〕

最後の「公調の担当者」云々はシロ説に立てばまったくの中央の作文だ。しかし「中野顧問の名代」云々は自称=エセ「左派」の共通認識でもありそうだ。とりあえず、「荒川憎し」の背景が浮き彫りになった。

両氏が鬼の首を取ったように荒川事件に飛びつき、あわせてあえて栗×事件を持ち出した理由はこのへんにあろう。
『敗北』本でほんの言い訳程度に語られる「高杉スパイ問題」に比べて分量ほかに極端な差があるのも、両氏がスパイ問題をそれ自体として語るより、「政略」ゆえに関わっている証左といっていい。
荒木氏についても触れておきたいが『争論』や『狂おしく』の記事を参照して欲しい。(労働者派)





ブログ注

『狂おしく』ほかの関連部分
(コントロールボタンを推しながら右クリックして当ブログの関連部分)
.偲ぶ会の記事
  622日、荒木淳d(本名廣海晶)が亡くなった。
  722日には交流Cによる「お別れ会」がもたれた。
  『前進』85日号に、教労委員会の追悼文と、お別れ会の記事。
『労働運動・8月号』で公表された田中氏(労組交流センター共同代表)と教労部会の二本柳氏の追悼の辞は、心に響くものがある。荒木dの人となりを伝え、在りし日の彼の姿を彷彿とさせる。

メールから関連部分を抜粋します。

【以下引用】

中野フラク解体?

岸・水谷両氏(以下「両氏」)が何故「荒川S事件」のクロ説にこだわり続けるのか?
その〈由来〉が少しづつ見えてきた。
やはり「あと一歩まで中野氏を追い詰めた」「それをやりきれなかった無念」「その結果の返り討ち」という思いにありそうだ。

貴ブログでも繰り返し書かれているが、両氏の声明や『敗北』本ほかの一つのトーンは、中途半端であいまいな「中野=スパイ」論にある。
「栗×スパイ事件」(1997年)は両氏によれば「スパイとしての『格上げ』」に驚いた本人が前進社に駆け込んで「発覚」した事件だ。いわば「おかしいと思いながら結果としてスパイに情報を流していた」ところから一転して「スパイとしての報酬と待遇」を提示されたということか?
岸氏らのスパイ対策委員会はそれを逆手にとって、栗×氏の指導下の二人の『前進』編集局員をも槍玉に挙げて「思想闘争」をやったとされる。
両氏「声明」や『敗北』本によれば、中野氏の対応が一部断片的に繰り返し語られている。

しかし実際の進行や標的は、「中野氏本人をも含む?『中野フラク』解体」にあったというのが今日的には明らかだ。
栗×氏に連座させられた二人の「若手」の一人には、後に中野氏から深い謝罪の手紙が寄せられたという。「守れなくてすまなかった」という内容だと聞く。労働組合の指導者としての中野氏の仲間への思いの深さと、当時そこまで追い詰められていた「中野フラク」の窮状が垣間見られる。
97年は自称「左派」の絶頂期のひと時でもあったということか?

それにしても両氏の「暴露」のあいまいさは理解の外だ。この時清水議長はどんな対応をしたのかが分からない。清水氏が割って入って彼に押さえ込まれたのでその経緯を語れないのか?未だに清水氏らの救済者としての出番を期待しているのか?
 今回は、両氏の「中野主敵」論について書いてみた。
… … … … … … … …  

【注】「栗×」としたのは、以下の意味がある。
1.事件そのものが、スパイ神保による「格上げ」(明示な形でのスパイ化)を提示された栗×氏が自ら申告して発覚したという経緯による。〈誘いに乗りかけた〉という話だが、最大限に言って〈乗りかけた罪〉にとどまる。処分としては「一定期間の謹慎・活動停止」が打倒だろうか?
 しかも公式には秘密裏に処理されて、当時に戻って検証する材料は乏しい。
2.同じことだが、すでに20年が過ぎた。「刑が終わって一定期間を過ぎれば、記録は残るが法的には『前科モノ』ではなくなる」。
3.さらに11年、東日本大震災での被災者支援のトラック部隊での活動で、「9条改憲阻止の会」(その後の経産省前テント村など)で「復帰」したこと。「大赦または名誉回復」。
4.ブログ「資料蒐集」(抜き書き云々)などでの「反党分子」の「実名報道」のいやらしさへの嫌悪。(「革命」の名によるスパイ行為ともいえる両氏への軽蔑)
 
                             (労働者派)

 荒川事件を追っているうちに何度も思い出したのが「マル学同臨時書記局員」としての体験だ。
 大学1年の冬、たぶん11月頃のこと。
 埼大のリーダーの呉△さんに、「しばらく中核派の書記局に行け」と言われる。
 「えーっ。」「そんなとこ、俺には無理だよ」と無条件に断る。第一、「他党派と比較すれば中核派とは何か」、ということなどてんで理解していない私だ。が「臨時だから。一月もしたら帰れるから」と諭されてしぶしぶ飲んだ。
 書記局がどこにあったのかは覚えていない。小野田譲二さんの本から類推すれば外堀を挟んだ法政の向かいあたりにあったのだろうか?

 もともと書記局メンバーは皆、顔見知りを超えた親しい人々でもあった。
 月に1度??秋山さんを筆頭に、書記局全員が埼大をのぞきに来る(巡察?)。その目的は知らない。けれど皆さん私のことは知っている。デモへは百%出席し、わずか10余人のデモに慶応の内△と並んでスクラムを組みことも少なくなかった。
 埼大では3年生の藤△さんを除けばたった一人の?逮捕経験者でもある。秋山さん、青忠さん、谷△さん、吉△さん、丸△さん、岡△さん。この頃のマル学同の書記局はこれくらいだったと思う。
 巡察のたびに、秋山さんは必ずというくらい、「黒田、勝負しよう」としこを踏む。体型的にはともに少し小さめだからそん色ない。「弱そうな俺を選んでか。よし俺の力を見せてやる」。ま、勝ったり負けたりのいいところだった気がする。
 そんな仲でもあったから、軽い気持ちで受けたのだと思う。

 書記局会議は実務的な報告と打ち合わせに絞られ、期待した政治討論や理論的やり取りはなく、つまらない。でもま、お手伝いだから良いや。

 そのうち、「高経に行け」と言われて驚いた。
 「高経も今、難しいところにある。組織指導をやれ!」「えっ?そんなのできないよ!」
 映画『圧殺の森』のイメージはあまりに激しい。こんな闘争の只中に乗り込んで「指導」など、おこがましい、に尽きる。栄光の先輩たちに肩を並べて、よそ者の私が「指導」なんてできるはずがない。同学年や先輩たちの信頼を得られるはずがない。
 しばらくの問答の末、「ビラ作りや看板作りなら手伝えるかも」という条件で折り合い、派遣を飲んだ。たぶん1週間?一月?期間を覚えていない。

 高経には、付属中学や前高の同級生が多数進学していた。
 派遣から帰ってしばらくしてから、多くの同級生が闘争に参加し、または周辺にいたことを聞いた。あの時あの場所で、もう少し表に出て、あるいはつなぎを取って多くの人に会っていたら、私の交友関係は飛躍的に広がっていたろうにと思うとそれが残念だ。

 彼らのほうは私のその後をわずかながらでも知っている。
 4年生のときの長期拘留しかり、何よりも群馬での兄の役割を通して、群大・高経に進んだ同級生は私のその後を身近に知っていた。

 高経から戻ってしばらくして臨時書記局の任期も終わり、もとの埼大に戻った。

 あれから20余年、当時の書記局メンバーと会う機会があった。
 「覚えています?俺が臨時で行ったこと?」「ああ、覚えているよ。がっかりしたよ」
 1年生や2年生をを書記局員として取り込み、書記局を拡大する構想がその後実現されていく。
 私はその最初の候補者だったのらしい。
 3年生の春には、疲れきった埼大に、書記局から会議のたびに派遣されてきた岡山大生がいた。全国の高揚した情勢を煽り、行け行けどんどんに引きづられて数か月。ついに埼大はダウンした。そして知ったことは、中核派だけでなく諸党派も高揚し、それぞれが分裂し、ノンセクトの新たな潮流も台頭した新しい時代がやってきていたと言うことだった。




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