詳細は後日か誰かにに託して。
橋本氏の「私史」で69年11月の「爆弾闘争」への移行・開始が始めて「文字化」された(?)。
以下は橋本氏の記述から。
私の個人的体験として、69年11月決戦の過程で、爆取(爆発物取締罰則)で逮捕されている。60年代以降の階級闘争では新しい地平であった。爆発物取締罰則とは明治の自由民権運動を圧殺するために太政官布告でできた法律である。違反した場合の法定刑が「死刑又は無期若しくは7年以上の有期懲役又は禁鋼刑」と、著しく重い。天皇制の延命のためのこの「法律」が戦後憲法の下でも合憲とされ、生き延びた。ところが私は、この事件で起訴されたときは、爆取ではなく火取(火薬類取締法)違反であった。通常の罰則は1年以下の懲役刑である。私は、このなかに、大衆的実力闘争の発展と結合して爆弾が使われることにたいする国家権力の恐怖が表れていたと思う。爆発物取締罰則をめぐって、権力と労働者人民が運動と裁判の両面で全面的に争うことになることへの、権力の側のたじろぎがあると感じた。【以上引用】
私自身は現役を離れて近年になってから初めて事実を知った。
69年の6月に逮捕・拘留され、1年4か月?「獄中」にあり、保釈後は神奈川反戦に移行した私は、いかんながらこの事実を知らなかった。就職したこと(つまり「常任」にならなかったこと)、本社に移籍後は「書記局マフィア」に組しなかったこと、内にこもったこと、それが私の「無知」を加速したのかもしれない。
さて事実は…。
11月を前にして、少数の「決死隊」が選抜・抜擢され、ただちに爆弾が配布された。
この時期急速に拡大した学生組織委員会(SOB])と中核派全学連書記局・中執の一部メンバーが配布・指示したという。
ある人に拠れば、爆弾は路上に投げられたとき不発に終わった。ある人に拠れば、爆弾を突然手渡されて指示を待ちながら、何の音沙汰もなく当日を迎えてしまった。彼らは連絡もつかずに放置されたまま、爆弾を川原に埋めたと言う。そして離脱した。
「69年11月」は、大衆的武装蜂起とともに、爆弾闘争として展開されたのだった。
権力は「爆弾」の事実を隠蔽し、そしてまた政治局も活動家や「大衆」から事実を押し隠した。マスコミもまた。
以降、75年9月の横須賀緑荘での爆発事件(不入斗事件、いりやまず、)と東宮御所前爆弾所持事件で再び頓挫するまで、爆弾の使用は長く封印された。3度目に発動されたのが86年4月・5月の横田・迎賓館ロケット弾戦闘(?)。
岩手爆取事件は「圧力釜」で大量の警察官を殺傷する新たな武器だった。「対物」から「(本来の?!)対人テロ」に移行しようとして事前に摘発されたともいえる。
秋山さんや清水さんの「対人本命」論はかなり根深かったようで、70年から「革命軍戦略」に至るまでの総括の中心に置かなければならないように思えてくる。69年の事件は明らかに逮捕前の本多さんが中心にいたとも思える。…そして何も知らされなかった私たち…。(秋山さんや清水さんの指導の「ブレ」は『敗北』本にも一部出ては来るが…)
仮に69年11月に爆弾が炸裂し、大量の警察官が爆死し、同時にそこにいた活動家たちが死んだり重傷を負ったりしたら、歴史はどう変わっていたろう?当時を振り返って、私はどんな選択をしたろう??今は「疑問」「問題提起」にとどめよう。