2016年09月

 詳細は後日か誰かにに託して。
 橋本氏の「私史」で69年11月の「爆弾闘争」への移行・開始が始めて「文字化」された(?)。

 以下は橋本氏の記述から。
私の個人的体験として、69年11月決戦の過程で、爆取(爆発物取締罰則)で逮捕されている。60年代以降の階級闘争では新しい地平であった。爆発物取締罰則とは明治の自由民権運動を圧殺するために太政官布告でできた法律である。違反した場合の法定刑が「死刑又は無期若しくは7年以上の有期懲役又は禁鋼刑」と、著しく重い。天皇制の延命のためのこの「法律」が戦後憲法の下でも合憲とされ、生き延びた。ところが私は、この事件で起訴されたときは、爆取ではなく火取(火薬類取締法)違反であった。通常の罰則は1年以下の懲役刑である。私は、このなかに、大衆的実力闘争の発展と結合して爆弾が使われることにたいする国家権力の恐怖が表れていたと思う。爆発物取締罰則をめぐって、権力と労働者人民が運動と裁判の両面で全面的に争うことになることへの、権力の側のたじろぎがあると感じた。【以上引用】


 私自身は現役を離れて近年になってから初めて事実を知った。
 69年の6月に逮捕・拘留され、1年4か月?「獄中」にあり、保釈後は神奈川反戦に移行した私は、いかんながらこの事実を知らなかった。就職したこと(つまり「常任」にならなかったこと)、本社に移籍後は「書記局マフィア」に組しなかったこと、内にこもったこと、それが私の「無知」を加速したのかもしれない。

 さて事実は…。
 11月を前にして、少数の「決死隊」が選抜・抜擢され、ただちに爆弾が配布された。
 この時期急速に拡大した学生組織委員会(SOB])と中核派全学連書記局・中執の一部メンバーが配布・指示したという。
 ある人に拠れば、爆弾は路上に投げられたとき不発に終わった。ある人に拠れば、爆弾を突然手渡されて指示を待ちながら、何の音沙汰もなく当日を迎えてしまった。彼らは連絡もつかずに放置されたまま、爆弾を川原に埋めたと言う。そして離脱した。

 「69年11月」は、大衆的武装蜂起とともに、爆弾闘争として展開されたのだった。
 権力は「爆弾」の事実を隠蔽し、そしてまた政治局も活動家や「大衆」から事実を押し隠した。マスコミもまた。
 
 以降、75年9月の横須賀緑荘での爆発事件(不入斗事件、いりやまず、)と東宮御所前爆弾所持事件で再び頓挫するまで、爆弾の使用は長く封印された。3度目に発動されたのが86年4月・5月の横田・迎賓館ロケット弾戦闘(?)。
 岩手爆取事件は「圧力釜」で大量の警察官を殺傷する新たな武器だった。「対物」から「(本来の?!)対人テロ」に移行しようとして事前に摘発されたともいえる。

 秋山さんや清水さんの「対人本命」論はかなり根深かったようで、70年から「革命軍戦略」に至るまでの総括の中心に置かなければならないように思えてくる。69年の事件は明らかに逮捕前の本多さんが中心にいたとも思える。…そして何も知らされなかった私たち…。(秋山さんや清水さんの指導の「ブレ」は『敗北』本にも一部出ては来るが…)
 仮に69年11月に爆弾が炸裂し、大量の警察官が爆死し、同時にそこにいた活動家たちが死んだり重傷を負ったりしたら、歴史はどう変わっていたろう?当時を振り返って、私はどんな選択をしたろう??今は「疑問」「問題提起」にとどめよう。

以下転載。

 
「革共同五〇年」私史 -中核派の内戦戦略=武装闘争路線をめぐって 単行本(ソフトカバー) – 2016/9/13                              
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内容紹介
歴史と死者への冒涜は許されない

六〇年代後半から七〇年代を彩り、その後もゲリラ戦という形で続いた武装闘争について歴史的評価をすることは、現代人の避けられない仕事である。革共同(中核派)はその渦の中心にいたのであるから、その領域についての評価に積極的に立ち向かうべきだと考える。 この過程では、革共同内外の多く人々がかかわり、人生を左右されて来た。獄中の人となり、指名手配の厳しい探索と対峙してきた人も多い。あるいは権力との武装闘争、革マル派との闘争において命を落とした有為の若者たちがどれだけ存在することか。 現在の革共同が路線転換したとしても、この事実を消し去ることは許されない。それは、歴史と死者への冒涜というものである。本書を執筆する最大の動機は、以上の点にある。 (「序章 何故この小史を書くのか」より)

著者について
一九五〇年、茨城県土浦市に生まれる。 一九六六年、神奈川県立横浜緑ヶ丘高校に入学。 一九六八年、「反戦高協・神奈川県委員会」結成に参加。 一九六九年、法政大学法学部政治学科に入学。全学バリケード封鎖。「七〇年闘争」へ邁進する。 一九七一年、中核派系全学連・副委員長に選出される。のちに非公然活動に入る。 一九八五年、三里塚闘争に関連した容疑で逮捕される。裁判で懲役七年の判決、確定。新潟刑務所に下獄、服役。 一九九二年、満期出所。革共同の活動に復帰。神奈川県委員会に所属。 一九九九年、革共同を離脱。 二〇一三~一五年、沖縄に移住、大きな影響を受ける。 https://www.amazon.co.jp/dp/4784524002/

以下は模索舎のホームページから。

模索舎 @mosakusha 9月2日
【模索舎新入荷】『「革共同五〇年」私史 中核派の内戦戦略=武装闘争路線をめぐって』(著=尾形史人 発=社会評論社) 反戦高協から全学連副委員長へ、そして地下生活、逮捕・獄中闘争・・と生きてきた活動家による「五〇年」私史。(続く)(E)
模索舎 @mosakusha 9月2日
(続き)【模索舎新入荷】『「革共同五〇年」私史 中核派の内戦戦略=武装闘争路線をめぐって』(著=尾形史人 発=社会評論社) なお著者の尾形史人氏は本が完成する直前である8/26にガンで亡くなりました。(E)

【注】今日・あすにも通販大手や書店でも買えそうだとのこと。模索舎でも通信販売ができるはずですが。

以下は模索舎のホームページから

目次:
 序章 なぜこの小史を書くのか

1部 「70年代世代」としての私の歩み
 1章 ブラジル移民と世界一周
 第2章 横浜時代とベトナム戦争、羽田闘争の衝撃
 第3章 中核派と出会う
 4章 法政大学とバリケード、70年闘争
 第5章 地下生活
 第6章 逮捕・獄中闘争
 第7章 満期釈放と「新しい党」への試練
 第8章 「19全総」と党内路線闘争
 第9章 ソ連の崩壊をどういう姿勢で受け止めるのか
 10章 離党へ
 11章 「革共同という呪縛」から離れて

2部 内乱・蜂起をめざした革共同の敗北
 1章 70年闘争の胎動
 第2章 革マル派との党派間戦争
 第3章 先制的内戦戦略の第二段階
 第4章 三里塚闘争が階級闘争全体に与えた影響の大きさ
 5章 「70年闘争」と革共同-何が問われたのか
 6章 60年代後半の闘争が歴史に問うたもの
 7章 差別との闘いにおける傾向
 第8章 組織の閉塞状況

 3部 いくつかの理論問題と課題
 1章 レーニン主義の闇の部分
 第2章 「沖縄奪還」論再考

あとがき

20169月/四六判/382頁/¥2,200+176] 
 著=尾形史人 発行=社会評論社 http://www.bookservice.jp/bs/ItemDetail?cmId=6643305
   【注】新宿の模索舎で発売中とのこと。松尾全学連の副委員長。詳細は別途。
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あまり扱いたくない人々だが…。
60年代の中核派や新左翼は、色んな思い、色んな人間が闘う場所を提供した。
裏切りとか転向とか言う前に、そういう「不条理に対する闘いの場」が若者や青年たちにあったということを、改めて振り返る。
 学生運動や学生活動の先は社会に出て行く。一部には組織の機関員への道もあるが、多くは労働運動や社会運動をめざす。そしてより多くは、党派やグループから離れて、緩やかなつながりを続けながらそれぞれの道を行く。10年後・20年後を見据えながら。

 この点は、かつての社共、総評も同じだ。
 ここに載せた人々がどうかは別として…。

猪瀬直樹
以下はウキペディアから。
信州大学教育学部附属長野小学校信州大学教育学部附属長野中学校長野県長野高等学校を経て、信州大学人文学部経済学科卒業。大学在学中は新左翼学生運動の指導者であり、通称「白ヘル」(中核派)に属した[2]1967年羽田事件を皮切りに新左翼学生運動が高揚しており、1969年に信州大学全共闘議長を務めている。大学構内のバリケード封鎖を行ったり、学生運動の主力部隊を率いて上京し、反米・反イスラエル10.21国際反戦デー闘争佐藤首相訪米阻止闘争に参加したりした[3]。猪瀬は、自身も参加したこの1969年の佐藤訪米阻止闘争でもって、60年代後半の学生運動は終わったと述べている。その後の運動は、いわゆる全共闘運動ではないと主張している。

塩崎 恭久(しおざき やすひさ)
高校時代は学生運動・学園紛争の全盛期にあたり、塩崎も革命的共産主義者同盟全国委員会[7][8]社会科学研究会に所属して新宿高校では生徒会長も務めたが、学生運動への参加を嫌う学校側に対し、自由な運動の容認を要求し、校長室を数人で占拠して10日間のストライキを行う等した[9][10]
  • 高校時代にAmerican Field Service(AFS)で1年間のアメリカ留学を経験。その際、ベトナム戦争に反対する集会にも参加していた。帰国後は一つ下の学年に在籍し、同級に坂本龍一がいた。
  • 新宿高校での学生運動の中心は塩崎、坂本、馬場憲治で、3人でバリケード封鎖等を行った。坂本から「どうせ、おまえはそのうち自民党の代議士になるんだろうから、そのときは応援に行ってやるよ」と言われていた。その後、坂本とは学生時代に女性問題をめぐって袂を分かっていたが、坂本がアカデミー賞を受賞した際に塩崎が祝いを送り、交流が再開。坂本は塩崎の応援演説へ駆けつけた[11]
  • https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E5%B4%8E%E6%81%AD%E4%B9%85

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