2017年10月

やはり、「仮釈」を隠蔽。
文章上は「仮釈」の用語が3回出てくるが、そのすべてが否定的だ。
事実上、四国地方更生保護委員会には仮釈放申請しているにもかかわらず、運動上は否認するというフタマタまたは二元化だ。

更生保護委員会闘争に突入 無実なのに43年 星野さん解放を! 革共同救援対策部

発行日: 2017年10月 9日 第2883号 弾圧との闘い
週刊『前進』04頁(2883号04面01)(2017/10/09)

更生保護委員会闘争に突入
 無実なのに43年 星野さん解放を!
 革共同救援対策部
【以下は抜き書き】

 「30年問題」めぐり決戦に
 「しかし、実際にこの手続きで仮釈放になった人は一人もいません。」
 「『私は無実だ。私はやっていない。中村巡査への殴打をしていない。火炎びん投てき命令をしていない。これは一点の曇りのない真実だ』…
 「更生保護委員会は、この星野さんの叫びを真っ向から受け止めよ。」
無期刑の終身刑化許すな
 「無期受刑者の仮釈放は、90年代後半から減り続け、この10年間は連続一けたになっています。…無期刑の終身刑化を打ち砕いて絶対に取り戻そう。」
大坂さんの裁判と一体で
 「7月に徳島でかちとった星野・青年集会で、「ゼネストで星野さん・大坂さん解放」が力強く宣言されました。…衆議院選挙闘争に総力で決起し、11・5全国労働者集会と11・26星野全国集会の大成功をかちとろう。」

 ▲
▲前の記事の平良 修さんの◎資料 09年の総会から から一部抜粋する。

 
 「この新しい方向性が示された結果、政治色が強く浮かび上がる構図になった。
 と同時に、星野暁子さんの「全ての人を解放するという政治思想に立つ運動の中で文昭を解放するという原則に立ちながら、自分の最も得意な方法で参与して欲しい」という趣旨のビデオメッセージに、市民運動の立場から大きな共感が示された。
  これまで、控え目であった政治色が前面に出る新しい方向性について、市民参加による運動の広さを要求する声が出たことに対して、「両者は対立するものではない。労働者や労働組合の闘いが中心に座ることで、もっと広い市民参加も可能になる」との反論がなされた。政治色を強く出す鋭角的運動にするのか、市民参加を容易にする鈍角的な手法でいくのか、両者をどう調和させるか、運動形成についてのこの基本的課題に適切に対処しなければならない。」

【補足】 「ゼネスト…衆院選…11月集会」云々はここでいう「政治色」であり、そのすべてでもありそうだ。こういう議論を一般には「政治的引き回し」というべきものではないか?かつての共産党・民青と区別がつかない。
 今の中核派にはそんな初歩的な「歴史的・常識的」な議論の基礎すらも失われてしまったようにすら感じる。
 肝心なところは、仮釈なのかそれに反対なのかすら明らかにならないことだ。
 家族や友人の声に押されてこっそり、と中途半端に仮釈放申請に舵を切り、失敗すれば申請自体なかったことにしたい、そんな思惑を感じる。 

 いまや中核派自体が往年の中核派でもなく、かつての情勢や社会でもなく、「71年渋谷暴動」とその時代・空気を彷彿とさせる呼びかけでもなく…。

『争論』にアップされた7月2日付の群馬I氏の「反論」は、「荒川s疑獄」だけでなく、実は奥深山さんの葬儀の事情にも及んでいる。群馬I氏が反論を送付
 その後も続く疑問と批判に対して、群馬I氏の反論と釈明が続く。
 ここでは奥深山問題について、経緯だけを整理しておこう。

奥深山さんの逝去と葬儀

 はじめに葬儀の経緯を整理しておこう。
 2月7日 奥深山さんの逝去
 2月14日 告別式(13日に通夜)
 事実上、革共同葬(同盟葬)となった。天田書記長ほか奥深山農園には姿を見せなかった「そうそうたる」人たちが全体を取り仕切り、 そのため、多くの同窓生や病友は出席できずだった(葬儀実行委員長は群馬I氏)。奥深山さんの近い友人の多くには知らせもなかった,という。知らせを受けた人の多くも「同盟葬」という形の前に列席を見合わせた人が多かった。

ご家族との関係
 葬儀の場では「(実家のご家族は)ご苦労の中で今では全員が鬼籍に入っています」と説明されたという。だから「同盟葬」なのだと。

 うん。そんなこともあるのかも?とは思ったけど。
 主治医も葬儀に参加していない。あの人が…。葬儀の連絡もなかったのか?
 事実は兄さん姉さんたちが存命していた。きょうだいへの日常的な連絡も報告もなしに「支援」していたのかと驚いた。

荒川さんの欠席と隔離
 「星野・奥深山」に一番心を注いできた荒川さんの不参加はとても大きい。奥深山さんにとっても大切な身近な人だ。本来ならば「友人代表」であるべき人だ。
 高経大OBの会合も奥深山さんにとっても大事な場所だった。学生時代の仲間の空間はだれにとっても、自分を取り戻すかけがえのないものだ。まして奥深山さんにとって…。けれども「荒川スパイ事件」以降、奥深山さんの参加は閉ざされてしまった。「スパイ説」の説明不足への不信感が「スパイ規定」そのものへの疑惑に進む中、奥深山さんの隔離・欠席に進む。

 なんという…。むごい。

 奥深山さんの「病気」も、70年-71年当時の奥深山さんの実像や時代と高経大の空気をともに吸った人でないと共有・共感できない面がある。

遺骨の返還
 5月に入って高経大の関係者が長兄夫妻を訪ねて、「幸男の死亡など初耳だ」と驚かれたそうだ。きょうだいが親族会議をもって対応を決めたという。

 6月、ご家族から遺骨返還の要請。奥深山さんの遺骨は分骨され、2か所に葬られた。一方は青柳さんの安養院(前橋市笂井町、駒形)に、「親族の許しを得て」(分骨として)安置、という形になった。

 中核派に長くいたけど、そんな対応ってあったかな?まずは家族・親族優先が普通だったと思う。ただ、荒川さんへの対応(水谷文書の同封)を含めて、とても群馬I氏の独断や独走とはおもえない。

竹 「事件」から46年、周囲も様変わり、世代替わりもある。そんな中での本人の苦闘や葛藤も計り知れない。献身的に支えてくれた人々には心から感謝する。ただ諸結末は理解の限度を超えてもいる。

 うーん?対Y戦時代も、獄中からの書簡はまず救対あてに送り、点検の上で家族に再送されるということもあったね。その逆も。ただその後、あまりにもひどいと、廃止になったはずだけど…。うーん?

 一連の経緯には中央の直接指揮が有りそうだ。天田体制ってそういうものなんだと思う。残念だけど「違和感」はない…。

 スパイ事件も、その真偽をおいて、「ていねいに説明する」義務、「理解してもらうための努力義務」が中核派にはあったはずだ。それが「奥深山さんの支援」ではなかったのか…。片手間ではなく、群馬I氏の範囲を超えて、だ。
 そう。それは星野・奥深山全体的にかかわる。いわば「戦略的課題」でもある?根深い不信の連鎖…。

 いずれ別の機会に。ひとまず遺骨が親族のもとに帰ったということで…。

 私の結論はひとまず以下の通りだ。
①仮釈方針自体には大いに賛成だ。むしろ遅すぎる。
②しかし今の中核派(中央派または中央)には、真剣にそれを実現しようする姿が感じられない。先ずは、「仮釈」への踏み込みの事実をもっとあけすけに語ってほしい。大胆な踏込と転換が無い限り、「解放」(再審・仮釈)への門は針の孔のように狭いのだから。(その中身は後日)
③星野・奥深山・大坂の各氏を、「栄光の中核派」の偶像に祀り上げながら、実際には放置し食い物にするだけ、という評価もある。「渋谷暴動闘争」とはどんなものだったのかをリアルに再現することは不可欠だ。
④荒川さんのスパイ規定は亡き奥深山さんにとっても星野さんにとっても、「生き死に」に結びつく大事件だ。また奥深山さんの逝去も、あまりにも大きい。それぞれを「主語」として問い直しつつ、今後の論述を進めたい。
⑤荒川さんと高経大・群馬の存在と位置は本来、ご家族・親族や沖縄=「70年」と並ぶ核心の一つ。「党」や「中央」から自立した自己決定権を持つ、開かれた新たな星野運動への飛躍を期待したい。いろんな議論は、「今の中核派」の実情と実勢と社会の変化を避けては、進まない。「原理・原則」もトンチンカンな前提批判なしには成り立たない。私はそう思う。

【追】議論の伏線のためにも関連する事象をまとめたい。そう思ううちに時が過ぎてしまった。とりあえず駆け足で諸問題をタイトルだけでもアップしたことを前提に先に進みたい。ま、「行きつ戻りつ」だ。ただ、時間も限られている。
 

衆院選にも立候補するのだという。
以下は『前進』から

斎藤いくまさんの衆院選立候補の決意 労働者の、労働者による、労働者のための社会をめざして 新しい労働者政党のための一歩をともに歩むことを訴えます

この国に革命を 戦争・改憲の安倍と小池を倒そう 衆院選への決意 全学連委員長 斎藤いくま

選挙/議会アーカイブ
▲過去の北島選挙、鈴木選挙の記事もある

【追】ま、ご勝手に…

免訴を実現する会の「お礼と新たな決意」
「同志」への表記の切り替えとともに、奥深山氏の苦闘・葛藤が一部語られている。

お礼と新たな決意 奥深山同志の遺志ひきついで星野奪還を 奥深山さんの免訴を実現する会 橋爪利夫

発行日: 2017年5月22日 第2845号 弾圧との闘い
週刊『前進』04頁(2845号04面03)(2017/05/22)

お礼と新たな決意
 奥深山同志の遺志ひきついで星野奪還を
 奥深山さんの免訴を実現する会 橋爪利夫
(写真 奥深山同志の絶筆となった日記。『前進』などを読む決意が記されている)

 星野文昭同志とともに1971年11・14渋谷暴動闘争に決起し、「殺人罪」などで起訴され、公判手続停止中だった奥深山幸男(おくみやま・ゆきお)同志が、2月7日に急逝されました(本紙2823号で既報)。奥深山同志は東京拘置所での長期勾留中に発症した病状のため、94年から東京高裁に対して免訴または公訴棄却による裁判打ち切りを求めていました。奥深山同志の闘病の実態を明らかにし、それを支えてくださった多くの方々に感謝を述べたいと思います。
 最初に確認したいことは、病気そのものは奥深山同志の不屈・非妥協の証であるということです。国家権力との緊張が病気の原因になっていたにもかかわらず、奥深山同志は権力に屈服しなかった。だからこそ彼を守る闘いは絶対的正義であり、多くの人びとの支援を集めてきたのです。
 奥深山同志の闘病と私たちの介護活動には多くの前提がありました。何よりも主治医の先生の存在です。ここまで約40年、奥深山同志とともに現役医師を貫いてこられたことに強い覚悟を感じます。そして奥深山同志の免訴弁護団です。裁判再開策動を粉砕したのはこの弁護団の力です。
 奥深山同志の強いこだわりは「革命家奥深山」でした。『星野同志、奥深山氏』と書かれることに対して、「なぜ俺は同志ではないのだ」と一度ならず厳しく追及されました。このこだわりは、主な症状である幻聴と見透かされとの闘いに加えて、革命家奥深山として屹立(きつりつ)する闘いでした。統合失調症と診断された彼には自身をそれとして認識できません。この心の空洞を、彼は機関紙・誌を読み込むことで埋めようとしてきたのです。そのことによって革命家として屹立するのが彼の闘病だったのです。文字どおり『前進』は病気との闘いの武器だったのです。亡くなる前日まで『前進』『序局』を読み続けていたことが彼の日記にあります。
 革命家奥深山の存在は、農園の収穫祭に集まってくれたみなさんの前であいさつをする、あるいは年賀状や暑中見舞いの返事を書くことで示されました。そのことが自身の存在を確認する有効な手段となったのです。これが彼の実感になったとき、主な症状である幻聴や見透かされを封じ込める力になったのです。遺影となった最後の収穫祭の笑顔の写真は、そのことを示しています。ここに関わった多くの方々の団結の力が生みだしたものです。
 奥深山同志の急逝はその病気にありがちな自死でもなく、医療上の手遅れでもありません。病との激しい闘いで命が尽きたということです。そしてそれは奥深山同志の不屈・非妥協の闘いを最後まで支えきった団結の力の証明です。この団結力こそ星野奪還に向けられなければなりません。

【注】
「奥深山同志の強いこだわり」に言及した。これが核心なのだが、彼の葛藤と闘病を共有してきた人の文としてははいまいちだ。奥深山さんを主語として書ききって欲しいと思う。
主治医と弁護団にも及んでいるが、葬儀には主治医は参加できていない。それはなぜか?親族には「逝去」の事実すら知らせず、医師には葬儀の日取も知らされなかったとも聞く。
下記の「革共同」の追悼文から2か月を経て、掲載された。

奥深山幸男同志を追悼する 71年沖縄闘争の地平で闘病貫き革命に生きる 革命的共産主義者同盟

発行日: 2017年3月13日 第2827号

7月14日、星野全国総会(午後)に先立って、四国地方更生保護委員会への仮釈申し入れが行われた。家族、弁護団、平良修さん、狩野満男さんが文書を提出した。総会はいわば事後承認の場。
 うち、共同代表の平良修さんの仮釈請願書だけがアップされている。
 一連の記事ではほぼ「仮釈放」の文字がなく、「解放」などと言い換えられている。
ただし、組織内では「仮釈」のことだと広く確認されている。「星救」関係者のあいだでも同様らしい。いわば「転換」と引き回し。こんなことでは「星野解放」などどんどん遠のくばかりだ。
 判決確定から30年、法務局に義務付けられた仮釈の検討という「30年問題」は来年の7月までの1年間とされる。「最後のチャンス」と言えなくもない。
 再審のあまりにも狭き門。仮釈30年問題もじっさいには針の孔よりも細いとされる。そんな中で少しでも可能性をこじ開け、何としても星野解放を実現したいという思いは少なくとも公表された資料には見当たらない。
 
 直近の経緯を検証してみた。


7月14-15日、
 全国総会記事と基調報告全国再審連絡会議
7月14日午後、とくぎんトモニプラザに全国の仲間が集まってきます。その顔には、「この1年の闘いで星野文昭さんを取り戻す」という決意があふれています。会場には各地の活動報告が並べられ、今年2月に急逝した奥深山幸男さんの遺影も飾られました。…【中略】… 午前中には、高松市にある四国地方更生保護委員会への申し入れが行われました。家族、弁護団、平良修さん、狩野満男さんが文書を提出し、1時間にわたって訴えを行いました。
 7月から、星野さんの解放をめぐる審理が始まります。委員会は1年以内に審理を開始することになっており、2人の委員が実際に星野さんと面接します。

▲大会記事や基調報告には「解放」の文字はあっても「仮釈」の文字はない。「再審」や「解放」の文字を「仮釈」と読み替えてほしい。

無実で獄中42年 星野文昭さん即時解放を 沖縄はじめ100万労働者人民と結び労働運動と国際連帯で奪い返そう 革共同書記長 天田 三紀夫

発行日: 2017年2月27日 第2823号
▲こっそりと?「仮釈」が出てくる。ただしその主語は法務省や星野さんだ。


星野さん解放へ新段階 四国更生保護委員会に申し入れ 7月14、15日
徳島刑務所無期懲役囚・星野文昭さんの仮釈放についての請願書 2017年7月14日「星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議」共同代表・平良修
▲上述の「文書」などは「仮釈放についての請願書」であることが岡山のブログでやっとわかる。

星野文昭さんのメッセージ
   無実だから直ちに解放を 7月14日 星野文昭
▲同じく「仮釈」の文字はない。

全国水平同盟第6回大会 特別決議
7月16日
「これらの闘いの前進で石川一雄さんの再審無罪と全証拠開示百万人署名で星野文昭さんの再審無罪釈放、大坂正明さんを早期に奪還するために全力で闘いましょう。」
▲短い文ではあるが、他の文言も併せて「仮釈反対」とすら読める。

◎資料 09年の総会から
平良修さんの議論のまとめが参考になる 6月26日(金)~27日(土)

現全国総会を踏まえて 「一日も早い再審・無罪、釈放を」
                                                           共同代表 平良 修 

 2009年全国総会は、6月26日(金)~27日(土)に開かれ、113名が参加した。事務局提案の「総括と運動方針(案)」を軸に真剣な論議がなされ、支持され、7点にわたるまとめが決議された。以下、決議に至るまでの経過を超略述する。
▲短いまとめなので繰り返し読み込んでもいい。特に「運動の方向性」がポイント。

【注】詳細は随時、補充または新規記事で補いたい

『前進』紙上の二つの記事を転載。

先ずは2月14日の「告別式」の記事。
親族が一人も参加しない事実上の「革共同の党葬」だった。
”親きょうだいはすべて鬼籍”と説明されたらしい。しかし、事実はその後明らかになる。今回は記事の照会だけ。

奥深山幸男同志が急逝 遺影に「星野奪還」を誓う
2017223日 『前進』
 

星野文昭同志とともに1971年の11・14渋谷闘争を闘い、「殺人罪」で起訴され公判手続き止中だった奥深山幸男(おくみやま・ゆきお)同志が、2月7日の夕刻、誤嚥(ごえん)による急性呼吸不全で緊急搬送され、気道切開のかいもなく、無念にも同日午後10時8分に逝去した。
 2月14日、前橋市内で行われた告別式には前日の通夜式とあわせ約100人の人びとが参列し、奥深山同志の早すぎる逝去を悼んだ。奥深山免訴弁護団の山本志都弁護士には、仙台から通夜式に駆けつけていただいた。

 日典ラサ前橋のロビーには、奥深山同志との結婚を約束しながら早世した女性との写真など遺品が並べられた。
 びっしり書き込まれたノートと毎年の手帳からは、仲間と談笑し、作句と学習、闘病に立ち向かう同志の姿が浮かび上がって来た。
 午前10時45分に始まった葬儀告別式の始めに、革命的共産主義者同盟の天田三紀夫書記長、「奥深山幸男さんの免訴を実現する会」の大塚正之さん、星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議の狩野満男共同代表が指名焼香をした(全学連の斎藤郁真委員長も通夜式に指名焼香)。高崎経済大学以来の仲間である伊藤成雄葬儀委員長があいさつに立った。
 青柳晃玄氏と青柳晃敬氏の読経の後、弔辞を革共同、奥深山さんの免訴を実現する会、星野再審連絡会議と友人の橋爪利夫同志が述べた。4人の弔辞を聞きながら、参列者は奥深山同志と生前に喜怒哀楽をともにした姿をまざまざと思い出し、涙を抑えることができなかった。
 読経の中、国鉄千葉動力車労働組合や全国の星野救援会、獄中の星野文昭同志からの心のこもった弔電が紹介された。
 最後のお礼のあいさつの後、出棺を見送った参列者は、奥深山同志の遺志をついで、星野同志奪還に全力で決起することを誓った。


奥深山君逝去を聞いて 星野文昭
 奥深山君は渋谷の闘いに参加し、やり切った。彼を支えていたのは、11・14をやり切ったことだった。
 星野の闘いの中に、奥深山の闘いは存在していたし、これからも存在していく。闘いの半ばで亡くなった人たち一人ひとりが、心の中で一緒に生き闘っている。
 星野闘争も含めて、最後の勝利まで、すべての人の解放のために一緒に闘っていこう。

 

   奥深山幸男さんの足跡
1948
614日 長野県佐久市で誕生
1967
4月   高崎経済大学入学
1971
1114  星野さんと共に闘う
1971
11月   学生自治会書記長に就任
1972
2 2日 事後弾圧で逮捕
1972
313日 殺人罪等で起訴
1974
年     この頃幻覚が始まる
1975
626日 保釈決定
1979
1023日 東京地裁懲役15年の判決
1981
715日 公判手続停止の決定
1994
1213日 公訴棄却・免訴を申立
2002
315日 検察官審理再開を申立
2002
917日 山上東医歯大教授が鑑定人
2006
215日 免訴を実現する会請願書
2009
5 7日 山上鑑定不採用
2009
623日 村松慶応大教授に鑑定依頼
2015
415日 免訴を求める会意見書
2016
517日 春日医師の意見書
2016
1015日 転倒して健康悪化
2017
2 7日 太田記念病院で永眠

毎日新聞と『前進』の記事を並べてみた。

毎日新聞 2017915
中核派活動家が無罪主張 大阪地裁初公判
[大坂正明被告(67)をかくまったとして、犯人蔵匿罪に問われた同派活動家、鈴木哲也被告(53)の初公判が15日、大阪地裁(伊藤寿裁判長)であり、被告側は「不当弾圧だ」などと無罪を主張した。…【中略】…弁護側は、鈴木被告が部屋にいた男を大坂被告とは認識せず、故意はなかったと主張した。 」

鈴木哲也同志、圧巻の陳述 大阪地裁 犯人蔵匿デッチあげ初公判

発行日: 2017年9月25日 第2879号 弾圧との闘い
週刊『前進』04頁(2879号04面04)(2017/09/25)

鈴木哲也同志、圧巻の陳述
 大阪地裁 犯人蔵匿デッチあげ初公判

 9月15日、「犯人蔵匿」デッチあげ弾圧裁判の初公判が大阪地裁第2刑事部(伊藤寿裁判長)で行われた。鈴木哲也さんは5月18日、広島で逮捕され、その容疑で不起訴になったにもかかわらず、1971年渋谷暴動闘争で「殺人罪」をデッチあげられ指名手配されていた大坂正明さんをかくまったとして不当にも再逮捕・起訴されたのだ。
 裁判は傍聴席が100席近い201号大法廷で行われた。入室に際し身体・持物検査を行い、多数の廷吏を配置するなど、大阪地裁では異例の警備だった。近畿救援会をはじめとする傍聴者が法廷を埋め、「すべては戦争・改憲にむけた弾圧だ。完全黙秘・非転向で闘う鈴木さんと団結し闘おう!」と裁判に臨んだ。
 圧巻は鈴木さんの冒頭意見陳述だった。鈴木さんは、始めに今回の一連の警察・裁判所・検察の行動について怒りを込めて弾劾した。次に渋谷闘争に決起した星野文昭さん、大坂正明さんたちの闘いは、現在の沖縄を見るとき、その正しさが明らかであるとし、国家権力による両人への弾圧との闘いと一つになって闘う決意を述べた。
 そして最後に、「国家権力の不当弾圧に対し人間的共同性をかけて対決することは、誇り高い解放的な事業である」「支配階級の暴虐は、法の名のもとに行われてきた。労働者には法を超えて自らの正義と利害を貫くことが必要な時がある。私にかけられた不当弾圧に対し、心底から怒りを燃やし、本裁判を徹底的な階級対階級の非和解の戦場として設定し、最後まで闘い抜くことを断固として宣言する」と結んだ。法廷は感動の拍手に包まれた。
 その後、裁判は証拠調べに入ったが、検察の提出した証拠には物証がなく捜査報告書のみで裁判官も驚く内容だった。
 傍聴者が「異常な警備をやめろ!」と怒りを込めて弾劾した。
 近畿救援会は、裁判に先立ち、大阪地裁・高裁前で「朝鮮侵略戦争・改憲・労働法制改悪絶対反対」「戦争・改憲・共謀罪に反撃を」と呼びかけるビラを配布し、公判闘争への結集を呼びかけた。(写真
 次回公判の11月17日(午後1時30分開廷)に結集しよう。
(近畿救援会・A)


【注】
[犯人蔵匿と隠避]Wikipedia
判例・通説によれば、蔵匿とは、官憲の発見・逮捕を免れるような隠れ場を提供することをいい、隠避とは、蔵匿以外の方法により官憲による発見・逮捕を免れさせるべき一切の行為を含む(大判昭和5年9月18日刑集9巻668頁)。

[同  ブリタニカ]
罰金以上のにあたる犯罪を犯した犯人または拘禁中に逃走した被拘禁蔵匿したり,隠避させる罪 (刑法 103) 。蔵匿とは,隠れる場所を提供することによって,隠避とは,逃走資金や変装用具などを提供することによって,それぞれ,官憲が犯人または逃走者を発見,逮捕するのを妨げる行為をいう。この罪は, 証憑湮滅 (しょうひょういんめつ) 罪 (104条) とともに,国の刑事司法の適正な実現を保護するために設けられている。しかし,親族が犯人または逃走者の利益のためにこの罪を犯したときは,その刑を免除することができる旨の特例も規定されている (105条) 。

[朝日]
罰金以上の刑にあたる罪を犯した者や、捜査当局などが拘束中に逃走した者の発見・逮捕を妨げる罪。法定刑は2年以下の懲役か20万円以下の罰金。逃走資金を与えたり、身代わり犯を立てたりする行為も含まれる。(隠避。蔵匿も量刑は同じ)

**公妨。ちなみに公務執行は、3年以下の懲役もしくは禁錮または50万円以下。

組織犯罪処罰法の特則[編集]

組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律には本罪の特則規定が置かれており、禁錮以上の刑が定められている罪に当たる行為が、団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われた場合、その罪に係る犯人隠避、証拠隠滅、証人等威迫に該当する行為については、3年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処せられる(組織犯罪処罰法7条1号、2号、3号)。

▲大坂氏の逮捕・起訴を「でっち上げ」と言っている時に、こんな訴訟方針で良いのか、という疑問が寄せられている。どうだろうか?
マスコミの記事と『前進』のどちらが事実を書いているのかという、基本的な疑問もある。
【注】Uチューブから鎌田インタビュー
「2017/05/25 に公開」とある。
大坂氏の逮捕前。「犯人隠避罪」などを理由に、大坂氏防衛に言葉を濁した。(たかが隠匿罪で専従活動家しかもその指導部が…)
https://www.youtube.com/watch?v=_pchQ36LPpU
Uチューブで「中核派」や「前進社」などで検索するとテレビ東京やTBSなどでの特集も見られる。ただ、短く編集されているものも。

以下は朝日新聞デジタルと『前進チャンネル』前進チャンネルから。日付けは記事の掲載日。


   5月24日 (朝日)
「男と大坂容疑者の母親(死亡)が親子関係にある可能性が高いことがわかった。」
2:38         


6月7日 警官殺害容疑で再逮捕(朝日)
「同庁公安部は7日午前、渋谷暴動事件に絡む殺人など五つの容疑で大坂容疑者を再逮捕し、発表した。」
「 捜査関係者によると、渋谷暴動事件を巡って逮捕された女性の活動家が事件直後、「大坂容疑者が中村恒雄巡査(当時21、殉職後に警部補に昇進)の襟元に油を注ぎ込むのを見た」と供述したという。また、すでに逮捕された大坂容疑者以外の6人のうち一部の共犯者が、大坂容疑者が中村警部補を仲間数人で取り囲み、「殺せ殺せ」と叫んで鉄パイプなどで頭や腹を何度も殴っていたと供述。公安部は今後、共犯者の再聴取も検討している。」


6月28日、起訴。
6月30日(朝日)
 1971年の渋谷暴動事件で警察官を殺害したなどとして、東京地検に殺人など五つの罪で起訴された中核派の活動家大坂正明被告(67)について、大阪地検は29日、大阪府警の捜査員に対する公務執行妨害容疑では不起訴処分とした。処分の内容や理由については明らかにしていない。

【注】都合により,未完のままアップします。記事を補充したらその都度、「コメント欄」にひと言書き込みます。当ブログの左端の下のほうの「最新のコメント」欄にご注目ください。
【追】『前進チャンネル』をここで紹介する。中核派(中央派)の機関紙を動画で紹介している。若者受けを狙ったものらしいが、同時に「若者」らしい編集もあり、時には逸脱もありそうだ。それ自体は、一般には「大目に見る」のがいいのかも?
【投稿から】
色んな集会で「三派の残党」を見る。中核派の「学生」は目が輝いていると思う。革マルや解放の二派の「学生」の目が死んでいるのとは大違いだ。
入っては辞める、出入りが多いのも特徴だ。
数か月か数年続く若者は少ない。
それでもやっているうちは「目が輝いている。」

↑このページのトップヘ