

『狂おしく』【注】
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【注3】74年6・26の第2次法大会戦を生々しく描いている。対革マル戦争への評価も生き生きしている。
【注4】長いので2回に分けた
53年生まれ?1972年立教大学社会学部入学
1979年立教大学を中退(挫折と離脱)
挫折(成田空港の開港と方針転換への疑問)
でもって、成田開港の後、どうしようもない挫折感におそわれ、無気力状態に陥ってしまう。党の大きな方針転換にも疑問があった。この方針転換とは「組織防衛」を第一義とし、これから来るであろう後退局面を退却戦として戦おう、というものであった。もちろん対外的にはそういうことは言わなかったけれど、その後の20年をみればそういうことであったと思う。おれとしても「そういうことか」、と感じていた。”おれの出番はなくなったな”というか、”もうついていけないな”という漠然とした気持ちを抱きはじめていた。きっぱりとやめようと決断したわけではない。ずるずるとやる気をなくしたのである。
【注】成田空港開港は78年5月20日
H氏はみんなから親しまれ尊敬されていたのだ。H氏はその当時の他派やガクセイ運動の指導者と比べてもけたちがいの人物であったと思う。彼の人物感を表する多くのエピソードがある。例えば、サンリズカ闘争の初期の頃、彼は農民の指導者の家を訪ねた時、神棚に手を合わせたという。彼にとっては唯物論者としての立場などよりも、農村の慣習をふまえ人間と人間の信頼関係を得ることこそが大事であったのであろうか。こんなことをさらっとできる人はその当時ほとんどいなかったと思う。
戦争以外のなにものでもない多くの戦闘行動に俺も数多く臨戦している。歴史的事実を風化させないために俺はあえていまだ生々しい記憶を掘り起こしている。ひとつことわっておくが□◯派はもはや決してサ翼ではない。敵対党派や文化人らににわとりの生首や猫の死体を宅急便で送ったりするのはサ翼ではない。敵対的な労組の幹部らを尾行し電話を盗聴しプライベートな醜聞をさがしまくりそれをネタに恫喝するのはサ翼ではない。他派をつぶすためにのみ軍事組織をつくり、他派の戦闘はすべて「権力の謀略」であるなどとうそでぬりかためるのもまたけっしてサ翼のやることではない。他派をウジ虫とか青虫とか公然と機関紙で言ってるのもまた□◯派の本質を表している。したがってこの戦争をひとくるめに「内ゲバ」と称するのは決して正しくない。サ翼の仮面を被った、史上もっとも暴力的な新興宗教団体と言った方がいいかもしれない。事実、党首の「くろカン」としょうする人物は彼等の集会では録音テープで登場する!彼等は総立ちになって拍手するらしい。