2018年03月

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『狂おしく』【注】
思い出した。私のブログから。

カルメンマキの「時には母のない子のように」もあった。
 1969年2月21日発売、とある。ただしこの歌は、結末が少し違う。

「人間解放」とは何だったろうか?
 「実存」…。

一部補足と削除…。

今回は「転載不可」です。あしからず。









知り合いからもらった案内状です。
浦和駅東口から徒歩1分 浦和PARCO10階

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ちょっと一息入れてお茶を飲んでから読んで欲しい…
  

  




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写真は右から末井昭、尾野真千子、柄本佑、前田敦子など

【以下映画紹介の引用(上映中)】
http://dynamitemovie.jp/img/sp/h1_logo-main.png
母親が隣家の若い男とダイナマイト心中! という、まるで噓のような実体験をもつ稀代の雑誌編集者・末井昭が綴り、1982年に刊行されて以来、時代を超え、さまざまな出版社から文庫化され、版を重ねている自伝的エッセイ「素敵なダイナマイトスキャンダル」が、ついに映画化された。

バスも通らない岡山の田舎町に生まれ育った末井少年が、7歳にして母親の衝撃的な死に触れる。肺結核を患い、周囲から爪弾きにされ、医者にまで見放された母親が、山中で隣家のひとり息子と抱き合いダイナマイトに着火&大爆発!!心中したのだ──。父親と弟と自分を残して……。

その後、都会に憧れ、大阪の町工場に集団就職したが軍隊のような労働環境に絶望し、上京。キャバレーの看板描き、イラストレーターを経て、小さなエロ雑誌の出版社へ。


編集長として新感覚のエロ雑誌、立て!男のエキサイトマガジン「NEW self」を創刊。
読者の好奇心と性欲をかきたてるべく奮闘する日々のなかで荒木経惟に出会い、さらに末井のもとには南伸坊、赤瀬川原平、嵐山光三郎、田中小実昌、秋山祐徳太子、平岡正明ら、錚々たる表現者たちが参集する。

「NEW self」が発禁処分により廃刊となると末井は懲りずに映画雑誌の皮をかぶったエロ雑誌「ウイークエンド・スーパー」を創刊。以降も警察とのいたちごっこを繰り返し、同誌が廃刊となると今度は「写真時代」を創刊。既存の写真雑誌が排除するような“スゴイ写真”ばかり載せることをモットーに生まれたこの雑誌は、やがて35万部まで発行部数を伸ばす。異端が大ヒットし、時代をつくったのだ。
                       
そんなエキサイティングな人生を激しく、しかし飄々と歩む末井青年に扮するのは、抜群の演技力で日本映画界から信頼され愛される俳優、柄本佑18歳から40歳までの主人公の浮き沈みを、60年代からバブル期までの時代の空気を色濃く感じさせながら演じきり、原作者の末井本人からも「他人の気がしない」とお墨付きを得た。そして、末井を翻弄するファムファタールたちを演じる女優陣も実力派揃いだ。

妻・牧子に前田敦子。時代の流れに合わせた衣裳を身にまとい、心の変化を鮮やかに演じわける。不倫相手の笛子に三浦透子。迫真の演技で恋愛の奈落を表現、スクリーンに瑞々しい肢体をさらす。
そして、母・富子に尾野真千子。母性と妖艶さ、女のふたつの貌を見事に演じきる。その他、NHK連続テレビ小説「ひよっこ」への出演で、俳優としてもますます注目されるミュージシャンの峯田和伸(銀杏BOYZ)、名バイプレイヤーとして数々の名作を支えてきた嶋田久作、松重豊、村上淳、さらに期待の若手俳優の中島歩、落合モトキらがキャストに名を連ね、末井をとりまく人間模様に彩りを添える。                            


末井昭氏の紹介
ウィキペディア

「さいばらりえこのまあじゃんほうろうき」にも登場とか


【『狂おしく』注】
映画は「R15」指定。本もある。
「R15は中学生以下はだめ、ということ。エロよりも、母親のダイナマイト自殺=臨家の息子との心中のほうがひっかかった??」

朝日デジタルでは写真だけ

週刊アエラから「俳優・尾野真千子*編集者、作家・末井昭対談」
これは有料。

当ブログの「行動隊」の日大芸闘委の数行も「時代の共有」として少しは参照に??

スエイドンはマル共連(共産趣味者)の「おおごしょ」でもある。(らしい。二人のスエイドンが同一なのか、確定できないが…)

当ブログがネットで検索システム上位に上がる過程でもマル共連と「スエイドン」にずいぶんとお世話になった。

知人からの紹介です。
最適なHPが見つからない。
【以下引用】

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2017年夏公開の映画が面白すぎる!


 韓国ドラマって、はまりこんで抜け出せないような面白さがありますよね。そんな長編の韓国ドラマもいいですが、韓国映画もかなり面白いんです。特に2017年、この夏公開の韓国映画がアツイと話題になっています。韓国でも話題沸騰中の映画で、韓国好きの方にはぜひぜひチェックして頂きたいおすすめの映画、ソン・ガンホ主演の「タクシー運転手」とパク・ソジュンとカン・ハヌルダブル主演「青年警察」についてご紹介していきます。

【 택시운전사 (タクシー運転手) 】

出典:entertain.naver.com(ハングル表記)

映画「タクシー運転手」は、2017年8月に公開した俳優ソン・ガンホ主演の大ヒット映画です。公開19日目となる8月20日に、なんと観客動員数1000万人を突破しました!今年韓国で1000万人を動員した映画は「タクシー運転手」が初めて。韓国の人口が約5000万人です。つまり、韓国国民の5人に1人がこの映画を見たという計算に。これまでで、韓国映画で1000万人を動員したのは同作で15作目となります。

韓国映画の「RECOREA」から
http://re-korea.com/wp-content/uploads/2017/08/201708190109564121_1_20170820080439585-300x200.jpg
出典:entertain.naver.com


しかも、1000万人の大台を突破したわずか15作のうち、3作がこのソン・ガンホの主演作なんです。出演映画を大ヒット作に導く素晴らしい俳優だと韓国で称えられています。

ツイッター(凍結中)

ビデオ〇△

関連情報

知人からの紹介ですが…。
4月28日から岩波ホールほかで順次上映、とのことです。

マルクス・エンゲルスのイメージ画像1
予告編
映画館

名古屋でも
名古屋でも同日公開とか。https://movie.jorudan.co.jp/theater/1001881/


承前

――中核派に話を戻します。中核派のイメージは変わってきたと思いますか。
 世代によって違うかなとは思う。80年代、90年代……。僕らが内ゲバを否定していたら違うのかもしれませんが、僕らはあれはやるべき闘いだったというふうに今でも思っている。そういう意味では否定はしていない。
 内ゲバというのは権力が作った言葉です。それを他のすべての人が受け入れただけ。僕らはあくまで革マル派との「戦争」。当時、革マルが大衆的な運動では中核派に勝てないから「中核派は全員殺しちゃえ」となった。破防法で中核派が動きにくくなっている時期に、という論文も出したりして。職場で一人、二人の中核派のうちに襲うとか。それに対してどうするの、というときに、いったん勝負をしなければいけないという党の判断があった。
 じゃあ、当時、他にどんな判断があったんですか。おとなしく殺されればよかったんですかと。外から見たあなたたちの考えはそうかもしれないが、中にいる私たちの判断はそうですよと。
 
――対革マル派と最近は内ゲバないですよね。
 あちらがやらなくなったら、こちらもやる必要はないと。革マル派の殲滅に向かって最後はいきますけど、解放社(編集部注:革マル派の拠点)に乗り込んでウオーとか、それはないですから(笑)
 内ゲバを否定はしていないが、それだけで革命が起きるとは思っていない。労働運動とか学生運動とか、現場にいる人間の主体性を引き上げていくと言いますか、爆発させていく。その中で日常が変わり、革命が起きるというのが基本的な考え方。
 今は、そっちの「基本的な路線」の方が目立つので、20代、30代はそういうイメージを持つ人が少しずつ増えていると思います。逆に40代、50代は内ゲバのイメージ。現場を見たりとか経験として知っている人がいる。そういうイメージを拭い去るというのは実際問題厳しいのかなと思います。
 
――中核派だけでなく、過激派の大学拠点はどんどん失われています。学生と接点を失ったとも言える。前進チャンネル(ユーチューブの中核派PR番組)を始めた狙いは、接点がない人に接触しようということですか?
 それを含めて、今までやってこなかったことをやってみようということです。
 
――中核派と言えば、斎藤さんが在籍した法政大学、そして京都大学。退学者を出したり、大学当局が圧力を増しているように見受けられます。
 何かを起点に圧力を強めていると言うよりは、大学の側にまず、大学改革というのがあって、産業の競争力のために、大学、産業が連携しないといけないという方向に向かっています。30年スパンで改革をやるんだということをずっとやられている。その流れで踏み込んできて、ぶつかっているというのが基本的な形。
 京大の場合は反戦バリスト(編集部注:15年に中核派の学生がキャンパス内でバリケードストライキをした)から激しくなっているように思われていますが、その前の段階から、既存の、僕らと関係ない自治寮とかに関しても「団体交渉をしない」とか始まっていた。その流れであんな形に。
 
――過激派の活動の拠点になっているのが経営上ふさわしくないと大学は考えていると?
 完全にそういう認識だと思いますね。
 
――受験する高校生が減るから?
 それだけではないと思います。私立大学レベルでは「イメージ良くないよね」と言われているのかもしれませんが。国立大学レべルでは「国家のために産業と連携していけ」という話はすなわち、防衛省の軍事研究。大学にいま呼びかけているわけですが、それに対して反対の声というのが大学の中から起こるというのは本当に簡単ではない。日本の支配層は60年代、70年代に「ベトナム戦争反対」とか嫌というほど味わっていますから。大学の中で反対されて、それどころではないという状況になった。なので、それ(産学連携)を貫徹するためにはあらゆる反対勢力を排除しようと。僕らに限らず不穏分子といいますか、自治会とか教授会とか。そのなかで乾坤一擲、大々的に反撃しよう、勝負掛けようと僕らが動き、中核派だけが目立っている。
 
――産学連携とは軍事研究? どこの大学でもやっているのでしょうか?
 というよりも、大学を一つのGDP上昇の協力機関に変えようという流れの中で、直接軍事研究と関係なくても、「自分の市場価値を上げろ」という教育を文系理系問わずやる。グローバル人材を育てようとか。金融企業と結び付くとか。
 それに対して組織的な反対運動をするのが中核派。他の政党、人たちはあきらめて反対もしないので、活動がすたれ、人もいなくなり、さらにすたれていっている。ビラまきとか小さい形であっても、大学に目をつけられるのを覚悟でやろうということですから。他の人たちにはできないので、中核派だけ生き残った。力はまだまだ弱いですけど。
 
――大学の圧力は具体的にどんな形で感じていますか。
 大学のルールを変えて集会を禁止にしちゃうとか、ビラまきを大学の許可制にしたり。または退学処分。
 
――15年に中核派の学生らが京大キャンパス内で行ったバリケードストライキ(バリスト)。ユーチューブで見ましたが、一般学生がバリケードを内側から破壊したんですよね?
 最後の対応をミスった。12時でバリストは終わりにしますと言っていて、その後バリケードの防衛を解いていた。後で撤去する予定だったが、秩序を大事にしたい人はいますし、まじめに授業受けたい人も少数います。そういう人たちがああいった行動に出ること自体は……。むしろバリケードを守っている最中にそういう激突にならなかったことで、「まだ(中核派の言い分を)聞いてくれているな」という風に思っていますけどね。
 
――ノンポリ、反学生運動層は認めざるを得ない一定層いると?
 もちろん。
 
――ユーチューブだけを見ると、スト中に壊されたのかなと思ってしまいました。
 そういう風に言いたい人たちはいます。産経新聞なんかそうですし。バリケードを破壊した人たちもそういう風に思っているんだろうなあと思います。「主体性を発揮して壊した」んだと。
 僕らは無風な状態で軍事研究だったり、学生を商品にするような教育だったりをしていることに反対ですよと。そういうことを思ってバリストをやった以上、軋轢を生むだろうなと覚悟してやっている。教員とか当局よりも、学生の方が数多いですし、具体的な行動をしてくることはあるだろうなと思っていました。
 
――ユーチューブに半永久的に「中核派を一般学生が打破した」と思われてしまう画像が残ります。悔しいですか?
 うーん、悔しくはありますが、そういうコンテンツがある以上仕方ありません。1年でも2年でもかけてあのバリストが、なんのためにやっていたのか、正しかったのかどうか。これから評価が決まっていく。それは僕らの活動に問われていると思います。
 
――一般学生が破壊活動をするのは長い学生運動の歴史の中で珍しいのかなと思う。ある意味中核派を恐れないと言いますか。
 うーん、私が大学に入った時には、当然そういう学生はいました。昔もいたと思う。でも昔は力関係がもっと(運動側が強かった)。労働者もばんばんストライキしていた。ストライキが世の中にあり得るんだという前提があったから、「(ストライキにぶち当たっても)今日は仕方ない」となったかもしれない。でも僕らの世代はストライキなんて見たことがない。「ただの占拠行為だろう」という見方をする人がそれなりに出てくるのは当然かなと思います。
 でも本当はカリキュラムが決まっているから、「こう動かないといけない」というようなんじゃなくて、自分たちが決断すれば「止められる」「変えられる」のです。ストライキという行為がこの社会にあることをよみがえらせたい。
 
――大学キャンパスでのバリストは何年振りだったのか分かりますか?
 京大では約30年ぶり。全国でも東北大で2000年に国立大学法人化反対のバリストをやって以来です。
 
(以下中核派メンバーの回答)
 東北大以降、物理的な大学内ストライキには刑事罰を適用すると大学が言った。こっちとしても「うっ」となる。で、しばらくやっていなかったが、一昨年は安保法案が通ったので、「ここはちょっと腹固めてやろう」となった。実際正門前まで警察が来てましたので、突入されても仕方なかった状況でした。
 
――ついでに伺います。京大では14年、キャンパス内に無断で入っていた私服警官(公安)を中核派学生らが取り押さえる事案がありましたよね。大学の自治が焦点となった、あの有名な東大ポポロ事件になぞらえて、「京大ポポロ事件」と呼ばれているそうで。概要を教えてください。
 労働者の大きな集会をやり、そこに参加した京大生が2人逮捕されました。その仲間を取り戻そうと、京大内で呼び掛けていたところ、「変な人がいるぞ」となった。声を掛けたら逃げ出した。つかまえたら公安だったという流れです。
 
――公安の身柄を大学敷地内で学生側が確保する行為自体、珍しいですよね?
 普通そんなことやったらこっちが逮捕されますから(笑)。血気盛んな人が取り押さえた。最終的には大学当局に突き出しました。
 
(以下中核派メンバー)
 恒常的に大学空間に入って面割りするやつがあまりにも露骨にやっていたという話。どこの大学にもいるんでしょうけどあんまり普通分からない。
 

左翼は89年「総評」崩壊で心が折れた、中核派・全学連委員長が激白(3

――60年代、70年代は大学紛争全盛期。最近はほとんど聞かない。なぜ衰退したのでしょうか?
 一番大きいのは国鉄分割民営化で、労働組合が基本的に崩壊しました。
 当時の学生の未熟さ故ではあると思うんですが、運動に参加した人たちが普通に就職した。なんというのかな、戦って社会を変えるというのはあんまり意味がないんだと、当時運動をやっていた人たちすらそう言っちゃうぐらいまで、運動する側が闘えなくなってしまった。
 それが次の世代にも影響。負のスパイラルが続いた結果、「政治とは選挙なんだ。選挙のとき以外は、政治のことなんて考えなくていいんだ」となってしまった。そうじゃないとむしろマナー違反みたいな雰囲気がある。運動して「なんかやる」という感覚自体がなくなった。
 政府の側が運動をつぶすためにキャンパスを移しちゃうとかいろいろありました。例えば、筑波大学、広島大学。法政大学も経済とか社会学部が一番学生運動強かったんですが、二つの学部を多摩の山奥に移した。大学側は移転理由を公然とは言わないが、理由はそうに違いないです。
 
――早稲田は1997年~2001年、学園祭がありませんでした。革マル派の資金源を断つためと言われています。そういった動きは他の大学でもあったのでしょうか?
 ありますよ。4年かけると学生はだいたい入れ替わりますから。記憶がなくなったところで改革というのは大学側の常とう手段。法政も学費を上げる過程で、ボワソナード・タワーを建てるために暫定的に上げるという話をして、4年後に今度は建てるのにお金がかかったので更に学費を上げます、と。学生の側が自分たちの闘いの歴史を継承する組織がないと「やりたい放題」。大学の常識を変えていくスピードは社会よりも早いです。
 
――労組の崩壊。国鉄の民営化は学生運動にとっても大きな転機だったのでしょうか。
 はい。
 
――国鉄だけの話ではなくて波及していったと?
 そうです。運動は人間がやっていますから。当時最強だったのは国鉄。そこが解体されたら「もう戦えないよね」と。一気に連合の結成に向かって物事が進んでいく。
 
 (以下中核派メンバー)
 89年の総評(日本労働組合総評議会)崩壊。91年のソ連崩壊。それが与えた影響がとてつもなく大きい。基本的に日本の左翼と呼ばれる人たちは、それで心が折れた。あきらめた。雪崩を打ったというのは事実であります。
 
――ソ連崩壊というのはイメージが湧きますが、同じぐらい総評崩壊も大きいと?
以下中核派メンバー)
 ですね。でかい。まがりなりにも社会党があって、絶対反対で戦って、ストライキやって。春になると春闘デモ。それが一夜で、自民党となれ合うような連合に代わった。連合の方が総評より規模は大きいが、総評は力が強い。要するに戦闘力がある。要求が通らなければストライキをやる。僕ら総評を支持はしないし、社会党は嫌いですけど(笑)。
 総評というところに体現されていた日本の労働者の力と言うのは、やはりでかい。90年前後までストライキというものがありましたからね。
 
――個別に強い労組は今でもありますよね。
 はい。でも社会全体を止める力と言うのは……。その時代は総評の反対を押し切ってやれないから、正月とかに総評の会長と首相が話すとかイベントがあった。もう一人の首相、権力として労働組合があった。「賃金上げろ」とかは当時、総評の下で整然とメーデー、春闘、全体で団結して賃上げ闘争。いまは個別の労組。分断がものすごくある。
 
(以下中核派メンバー)
「むかし陸軍、いま総評」という言葉があったじゃないですか、80年代。いい意味で言われていたわけではないが、それぐらい力があった。
 
――総評崩壊、ソ連崩壊のほかに、左翼勢力の衰退の端緒になったイベントとして、他に何かありますか?
 基本的にはそこで力関係がだいたい決まってしまいました。10年間くらい押しつ押されつ。そして郵政民営化があって、民主党政権のときに国鉄民営分割化の解雇闘争が正式に終わるというのが最後大きいと思う。国労とか、今まで左翼と呼ばれた勢力が「もう戦わない」と物事を決めていっちゃった。
 
(以下中核派メンバー)
 90年代は混濁していた。あえて言うなら9395年は、左が押していた。自民党政権崩壊、従軍慰安婦問題、河野談話、村山談話……。世の中よくなるんじゃないかという流れがあった。明白に96年以降はカウンター。つくる会教科書、歴史修正、不景気で労働者の賃金下がっていって……。とどめは小泉登場。そして民主党政権下で国鉄闘争が終わる。
 
――97年以降の金融危機で景気が悪くなる中で、というのも大きかったと思いますが?
 それに乗じて、「会社の経営が悪いから仕方がない」と。そうなると労働者側が闘争できない。組合員を守るために、非組合員を非正規雇用に落とすとか、大手の労組では「原発現場は非組合員を送る」とか、平気でやっていた。それで「組合を信用しろ」とか「左翼を信じて」とか(はおかしい)。ある種、新聞に意見すら出てこない人、サイレントマジョリティはものすごく圧力を食らった。この20年間ぐらい左翼が注目してこなかった領域なのかな。
 
――昔のような強い左派ではなく、穏健なリベラルの人たちの受け皿はどこになっていくのでしょうか。
 そういう人たちはすごく減っていて、その人たちが立憲民主党を支えている。とうの昔に絶滅していくという状況に基本的にはなっています。
 
以下中核派メンバー)
 単純に歴史が重なるわけではないが、資本主義の危機が進めば、社会の崩壊が進めば進むほど、二極分解化が進む。ナチスとドイツ共産党の戦いのように。自民党で今までやってきた連中がどんどん淘汰されて、安倍みたいな極右がのしちゃって。中間部分がどんどんなくなっていった。社会が右と左に分かれていくのは避けられないと思う。ちゃんと働いて食えて年金もらえてという社会なら、そんなにみんな(右へ左へと)走らないと思うんです。

          つづく

斎藤郁真(中核派全学連委員長)の週刊ダイアモンドでの発言)
内容
 
週刊ダイヤモンド1118日号の特集は「右派×左派 ねじれで読み解く企業・経済・政治・大学」。保守とリベラルの対決が鮮明となった衆院選が終わってもなお、「右派・左派」「保守・リベラル」などイデオロギーにかかわる議論が続いている。この状態を過激派はどう見ているのか。極左暴力集団の一つ、「中核派」の斎藤郁真・全学連委員長へのインタビューを全5回でお届けする。(「週刊ダイヤモンド」編集部 土本匡孝)
……… ……… ………      ……… ……… ………
『狂おしく悩ましく』の【注】
ネットでは171112日~16日に連載としてアップしている。11答形式。ネット上では2回目以降、それぞれ別のタイトルがついているので「中核派…」の繰り返し部分のみ削ってそのままにした。ただ、各回の最後にダイアモンドの質問項目があり、次回の冒頭から答えが載っている。読みずらいのでその質問項目をタイトルの後ろに移した。長いので23回に分けたい。斎藤氏の写真は1枚だけにした。
太字は設問。答えは細字とした。冒頭の「内容」は当ブログによる。

 平易な語り口には好感ももてるが、その分?「ディープな議論」や「深い綱領的内容」は感じられない。
まぁその分いまの中核派をありのままに率直に語っているといえるかもしれない。
正直に言って「」既成の新左翼」を乗り越える「若者らしさ」や「新鮮な問題意識」も感じられない。いくつか「えっ?!」と反応するような告白もある。

評や感想を期待したい。

  【以下コピペ】

――まずは先月の衆院選東京8区(杉並区)で出馬した感想を教えてください。斎藤さんは初めての選挙だったんですよね?
 
斎藤郁真(さいとう・いくま)
 中核派全学連委員長。1988年生まれ、29歳。2007年、法政大学法学部入学。10年、退学処分。11年、全日本学生自治会総連合(中核派全学連)委員長就任。17年、衆院選に東京8区(杉並区)から出馬し、2931票獲得。
 
 はい。今の政治というものに対して、うんざりしている人がすごく多い。根本的に違う価値観を、どう皆さんの実感と結びつけて提示していくのか。まだまだ難しいなあと感じました。一方で、すごく訴えが刺さった人が結構いました。手応えを感じています。
 
――2931票、得票率で1.2%(候補6人中最下位)についてはどう感じましたか。
 7月の都議選の時は、杉並区で北島(邦彦、中核派関係者)さんが出ました。その時は2400票ぐらい。それより増えた。北島さんが基本、杉並区でずっとやっていた。今回私に替わって、知名度ゼロからやって増やしたという意味では、小さくはあれ、前進したと思っています。
 
――特にどの辺りの訴えが有権者に刺さったと感じましたか。
 やはり社会を動かしているのは労働者。なのに働いている場所がめちゃくちゃになっているというところに、共感してくれた人が多かったのかな。だから労働者がストライキを力に変えていけるんだというところまでいくと変わる。でも日本ではもうそんなにストライキを見ないですし。そこまで信じられないというか、そういうハードルはやはり超えられなかったんだろうなと思います。
 
――労働者層が特に足を止めたと思いますか?
 4050代というよりは、青年と、「昔ばんばんストライキやった」という層から熱狂的に支持してくれる人が現れたという感じです。
 
――中核派自体の話に入っていきますが、昔と比べたら減っていると思います。
 最近は明白に増えています。
 
――どの辺りの時期を底に増えてきたのでしょうか?
 構成員数は発表しないです。「公安筋では約○○○○人」という数字を聞いてうちらもびっくりしているぐらい(笑)。機関紙『前進』の購読者は増えています。ただ、それが昔のようにバリバリという感じではありません。この10年で見ると、機関紙を含めて増えてきているなというのはあります。発行部数は非公表ですが(斎藤氏に代わって別の中核派メンバーが回答)。
 
――若者には中核派のどういう運動が刺さっているのでしょう。
 労働運動と言いますか、現場でちゃんと闘おうというところ。ある種まじめな人はそこを見る。力が足りていないのが現状なんですけど、「なんか巻き起こそうとしているな」というところを感じている人が増えています。
 
――労働者の問題を訴える政党が他にもあるわけですが、どのような違いがあるのでしょう。
 他の政党は労働運動といっても選挙のときの組織力。動員というところに主眼がいっています。労働運動の現場において、「じゃあ資本と具体的に戦おう」「ストライキやってでも、激突していこう」「力関係を変えよう」ということをやらない。僕らは基本的にそこが一番大事なんだと結党当初から訴えている。そこらへんですかね。
 
――国政を見ると左派勢力が衰えています。どういうところに原因があると思いますか。
 要は現場で闘わなくなった。左派の言うような約束事が現場で貫徹されない。ですし、民進党とか民主党とかが、安倍政権に対する最大の対抗軸だと新聞を読めば言われているわけですが、民進党を支える連合を含め、何をやっているか現場の人は知っている。それを信用しようとは普通ならない。
 新聞は数の論理で「こことここが対立軸」とか言っているが、誰もそこが対立軸だとは思っていない。じゃあ、誰の力で生活を良くしてもらおうかというときに、「自民党が一番安パイだよね」っていうのが一番普通の感覚ですよね。
 例えば、(左派政党が企業の)偽装請負を追及する。それ自体は正義なんですけど、(企業が)「じゃあやりません」となって派遣切りが横行する。それに対して左派はどうしたか。対応できない。中途半端な正義みたいなものが、全部裏目に出る。現場での力関係を作ろうとしない、そういう政治の世界での正義と言うのはもう……ということ。
 
――現場での力関係とは?
 例えば、大企業のコストダウンというのは、法律うんぬんの話ではない。だけど、(取引先の)中小企業は反撃できない。結果、大企業に課税したら(取引先の)中小にしわ寄せがいくよねという当たり前の話です。
 
――一方で左派、リベラルの立憲民主党は今回の衆院選で想定以上に躍進しました。
 森友、加計学園と続いて、安倍政権でいいとは思っていない人はたくさんいます。「イッパツお灸を据えたい」層はそれなりにいた。でも実際、立憲民主党が勝ったところで、変わるとは思えません。
 
――なぜ変わらないのでしょうか。
 民主から何から含めて変わらなかったですし、政治に関心をもって見ていた人なら、枝野(幸男・立憲民主党代表)が原発事故の直後に「ただちに影響なし」と言った人と知っています。さらにその後撤回したわけでもありません。その人を信用しろと言われても、そんなテンションにならない。エリートの遊びですよね。どっちがましかという話。どちらにも正義はないでしょ。
 
――リベラル勢力の衰退が叫ばれる中で、反安倍の世論。復活には何が必要か。提言はありますか。
 リベラル勢力が復活することは無理だと思います。要はリベラルとは、左派でも右派でもないということですし、労組とかそういう基盤なくやるんだというのが一つの筋になってますから。要は選挙とか、そういう場所以外においてストライキとかで強制しようという論理の筋道がない以上、彼らはじり貧になっている。復活の道はその先にはないと思います。
 
――そうなると今後、日本の二大政党制は成り立たないものなのでしょうか。右派とリベラルの対抗軸、自民と民主が戦ったような状況にはなり得ないと?
 あれは一時的にそういう状況になりましたが、じり貧になる過程の話だろう。他の国でもリベラルの衰退は起きていて、労働者の雇用とかということを掲げる自国第一主義を掲げる政党が大きな潮流を形成し始めています。構造は日本と同じ。労働組合が腐ってしまい、自分たちの支持基盤が……。LGBTとかももちろん大切だとは思いますが、自分たちと切り離された市民運動の領域、ある種エリートの領域に支持基盤を求めていく限り、具体的に生活が崩壊していくとか、そういう人たちが誰に頼って生きていくのでしょうか。そういうことを考えたら、やはり国家主義とか、そういうものが代替していく。今までの自民党は国家主義をあまり出しすぎないようにしていました。2000年の前までは。そのあたりを自民党が押していくようになってきたのがこの15年間くらいの歴史です。
 
――保守と革新。そもそも今の自民党は思想的には右派、保守。政策的には本来革新政党がやるべきものをやって支持を集めているように思います。
 まさしくその通り。日本は労働運動がめちゃくちゃ強かったという歴史が60年代にあるので、都市では社会党に勝てなかった。農家とか農協とか地主が自民党員だったりして。「具体的な信頼」を作っていったというのが自民党の強さだったと思います。
 
――土着的な部分?
 そうですね。だからこそ自民党が都市から農村への再分配策とか、社会党に負けない社会保障政策とか。自民党は結構、積極的に打ち出していきましたよね。
 
――6070年代はそうだと思いますが、80年代は保守への回帰が起きました。その後左に戻って、小泉政権で更に新自由主義という形で保守に戻って、その後また戻ってきたという印象。自民党も揺れ動いてきた印象があります。
 それは踏み込んで、雇用を破壊して、柔軟な雇用を作り出して、労働者からの搾取を強める。当然労働者からの人気は落ちるので、ある程度揺れ戻しながらバランスをとって政権を担ってきた。
 
――本来は揺り戻しと言うのは政権交代で起きるもの。米国は共和党と民主党の間で起きます。
 立憲民主党の枝野さんなんかは「30年前だったら、自民党宏池会に自分がいるはずだ」と自分で言っています。そういう意味では、野党も自民党のような世界観で物事を打ち出して勝負している。となると政権交代をする必要がない。選挙でそれ(政権交代)が起こることはあり得ない。なぜなら選挙はテストみたいなもので、日常の力関係がそのまま表れるから。資金力がまず要因。何回選挙しようが、安倍政権がどんだけひどいことをやろうが。
 
――一方で小選挙区制度だと逆転が起こり得るのかなと思うのですが再度政権交代はないのでしょうか? やはり民主の失敗が大きすぎたという考えですか?
 そのことを左翼の方も総括していない。だから信頼されていない。そういうことがかなり大きな問題。自民党が大こけしても代わりに出てくるのが希望の党みたいな(笑)。「別に思想的には大して変わらないよね」という野党が出てくる。
                                        (つづく)
 

離脱、脱け殻の日々
 そして、何年か経って戦争も闘争も一つの峠を超えたかにみえたある日、おれはふと党本部に帰るのをやめたのである(当時俺は党本部に寝泊まりし、飯を食い、24時間それだけに没頭していた「職革」であった)。はっきりと説明できる理由があったわけではない。エネルギーがなくなったロボットのように動くのをやめたとしか言いようがない。
その後、10何年かは、まるでせみのぬけがらのようでもあった......、この混乱は何なのか、思想的拠り所を見つけない限り、帰れないと思った。確信も持たずに戦争はできない。
ずいぶん、つらいことやきびしいことを書いてきたようだけど(?)、(おれも含めて)当事者たちは、決してつらいことばかりだったわけではない。むしろ、楽しかった。みんな生き生きしてた。毎日わくわくしていた。血わき肉踊る日々であったと思う。その間かれこれ5年以上にわたる間、ほぼ毎日3時間ぐらいしか眠っていなかったと思うが、そんなに苦ではなかった(もちろん、無茶苦茶眠くて、食事中に寝てしまったり、歩きながら寝てしまったり、なんてこともあったけど)。
ハイテンションがずーっと続いていたから、むしろあんまり眠れないんだよねえ。つらい時代であった、などと言うつもりはひとつもない。
何年か経ってから同時代を同じように生きたかつての仲間やノンセクトの友人らと何人かと酒席についたことがあるが、最初はみな疑心暗鬼である。こわいものを見るような眼で見ている。言葉も選びながら、静かに話をしている。
はじめはなにやら総括やらなにやら言ってるけれど、でもたったひとこと「でも、おもしろかったなあ!」と言うとみんな一気に打ち解けてしまうのだ。「そう、そう!」と合鎚を打ち、「あの時は..、」という話で盛り上がってしまう。みんな体を張って生き抜いてきた戦友だし、インターやワルシャワロードーカは軍歌なのだ。
かつてのエンゲルスの著作を思い出してしまう。「かつて敗れはしたが歴史的ホーキをやりとげたヨーロッパの片町の酒場は、その後何十年にもわたって労働者の誇り高き唄声がきこえる...」と。
呪縛からの解放(過去を隠して)
あれからもう25年以上も経つのにいまだに呪縛からのがれられずにいる人も多いにちがいない。数年前、大学の同期生に会った時、税理関係の仕事をしていた彼は、最初かたくなに何もしゃべろうとしなかった。過去のことは一切しゃべってくれるな、という態度であった。彼は20年以上にわたって女房・子どもにも、もちろん会社の同僚にも**派カツドーカであったことを隠し通してきたのだろう。
しかし飲むにつれて、おれは何のこだわりも持っていないこと、やましいこと等なんにもないこと、それどころか我々がやらなければ今の世の中がどうなっていたのかということ、そんなことはおまえも知っているはずだということ、Yの暗黒を阻止したのはあの戦争なんだ、誰が何と言おうとわれわれがやってきたのはホーキなんだということ、おまえもおれも歴史的ニンムを果たしたんだということをおれは自分に言い聞かせるかのようにしゃべった。しばらく黙したあと彼は、「眼からウロコが落ちた」と言った。「肩の荷が全部おちたようだ」とも言った。
おれのようなノーテンキとちがって彼のようなまじめで実直なタイプはカツドーカにはけっこう多かったし、そういう多くの元カツドーカが彼のようにじっと身を潜めるように生きているのかと思うと少しやりきれない。おれがこんなヤバソな話を書きはじめた理由のひとつもその辺にある。だけどもう25ねんも経ってんだぞ。おい、おい。我々がおやじ達の太平洋戦争の話を聞いていたのも「戦後20年」とかであった。う~ん!?..
我々の戦争はまだ終わってないのか?カツドーカをやめた。
 
怪物のような人びと(松尾・北小路・マオさん・藤田・稲辺)
それにしても党生活・活動を通して人間の深さみたいなものを垣間見た。世の中は広い。他では出会えないような怪物のような人がここには何人もいた。自分の小ささを何度も思い知ったものだ。
松尾氏
ホンダさんは言うまでもない。頭の回転の速さ、判断の速さでいったら、マツオ氏はすごかった。普通うーんと悩むような問題をいつでも一瞬にして解決策を提示できた。ビラや新聞原稿を執筆する速さもべらぼうであった。全国紙の巻頭論文をあっと言うまに書き上げていた。
ただ、それに比してその判断が性急過ぎるのではないかと感じることはいくつかあったけれど、やはり後になって、失脚することになったようだ。詳しいことは知らない。おれが戦線を離れた後のことだから。ただおれをR大の担当からはずすという不可解な人事をおこなったのも彼であったのはまちがいない。
彼は今、公然と某大学の講師を勤めているけれどその変わり身の速さも理解しがたいが。
北小路氏
 キタコウジさんの演説のうまさは格別であった。
いつ聞いても感動的に盛り上げていくのである。さすがに60年アンポゼンガクレンのイインチョウともなるとまるでものが違うといつもうなっていた。
(この人は、60年安保トーソー時、6.15国会前のゼンガクレンのデモシキをして国会内突入を果たしたその人である。この時、かの樺美智子さんが死亡している。)
キタさんの眼力というのもすごい。おれが書記局に入った頃、まだほとんど話もしていないのに(単ゲバと度胸だけで売っていた?おれを)「君はまるでスルメのような人だねえ」と褒めた?のだからすごい(笑^^;)。
マオさん
キタさんと同世代のオノさん(マオさん)は人間そのものの大きさに敬服するしかなかった。嘘偽りのまるでない人。人民とカイキュウトウソウに対するまるで微動だにしない深い愛情。オールドボルシェビキの典型のような人。他派からも愛された偉大な人だ。
彼は最近戦時下のイラク・バグダットに入り、「人間の楯」として世界中から入国した人々を組織してバグダット市内デモを敢行したそうだ。うーん!なんともすごい。当年60歳を越えているはずだ。生還したのだろうか?
【注】イラク戦争。20033
 
藤田マル学同委員長
政治的センス、バランス感覚でいったらM同盟イインチョウのフジタ氏。その才能もある意味で究極であった。オノさんとは逆に他派からはもっとも嫌われた人物でもある。それだけ政治的力量が際だっていたことの証左である。
 
稲辺氏(日大)と作り上げた最大拠点=立教大学支部
ガクレンショキチョーをしていたN大のイナベ氏も人間的魅力にあふれた人であった。マツオ氏ほど頭が切れるわけではない、フジタ氏ほど政治的力量があるわけではないが、人を見る眼と人を育てる力という才能があった。
イナベ氏はおれの直接の指導部でもあった。彼はいっしょに活動を始めてからしばらくしておれのことを「おまえはほんとにどんぶり勘定だなあ」と言っていた。何と言う眼力!そう、おれは「どんぶり勘定」でそれでいて「スルメのような」人間なのである(笑い)。まったくそのとおりだ。まちがいない。おれ自身は言われてはじめて、しかも何年かして気が付いたのだが、彼等はわずか半年やそこらで言い当てたのだ。
**派の70年代のR大学生運動は彼とおれとでたった二人ではじめ、育てたと言っても過言ではない。最初同盟員はおれだけ。それが数年して**派最大拠点H大をしのぐ首都圏最大の動員力を誇る拠点校へと育てたのである。
今にして言うけれど、H大など新入学生もノンセクトもほとんど誰ひとり獲得できなかった。党の動員力をかけてでかい立て看を作り旗を振っていただけである。おれらのR大はちがう。クラスに入り、サークルに入り、ノンセクトと論争し説得した。74年以降、学生大会で2千人以上集め、何百人規模の純粋の学内集会を開くような盛り上がりをみせた大学運動が他にあっただろうか?たぶんない。この時期**派の学生運動を全国的に牽引していたのはまぎれもなくR大であった。
1年間の地下工作の実績
ぼくとイナベ氏のたったふたりではじめたR大の組織化。何から手を付けるか?ノンセクト時代の人脈を生かして個人オルグをトコトンやろうということになった。ノンセクト運動の指導部と接触しコンタクトをとり話をする。集会に誘う。イナベ氏にも同席してもらう。
なにせイナベ氏は日大全共闘の有名人である。効果はかなりあった。メシを食う。酒も飲んだ。親近感をもたせることがまず大事。当時、××派はノンセクト内部でもカリスマ的影響力をかなり持っていたけれど、その反面、近寄りがたい「怖さ」みたいなものもあった。いっしょにメシを食うというだけでもその垣根を取り払う効果はまちがいなくあった。
表面には出ない地下工作を地道に1年近くも続けただろうか。そしてたまに(決してぎょうぎょうしくではなくさりげなく!)ビラ入れも行なった。ビラ入れ自体が衝撃的だ。なにせR大はノンセクトが最大党派でそのうち機関誌の学習会もできるようになった。自派集会・デモへの参加者も徐々にふえていった。地下組織化はちゃくちゃくと進んだのである。やがて大々的にいっきに登場する舞台裏は整いつつあった。...(この項、後述...の予定)「H大は何をやってるのか」というのが当時のおれの口癖で会議でもH大指導部を攻撃したものだ。
野木さん
ほかには、オルグの天才とかもいた。信じがたいスカウト術!新人をぞろぞろと連れてくる天才。大物や文化人らをじっくりと落としてしまう天才。おれはその点まるでだめであったなあ。突っ込ませる時の扇動だけはできたかな(笑)。
ノギさんという人がいてこの人はマツオ氏、オオモリさんの前にSOBのトップだった人。非常におだやかで物腰が柔らかく頭のいい人であった。マツオ氏やフジタ氏のような独断専横のにおいはまるで感じられない。殺伐とした戦況が頻繁にとびこんでくる書記局のなかでもいつもひょうきんな笑顔を絶やさないような人。
印象はマオさんに近いが、マオさんほど「実直なボルシェビキ」ではない。もっと醒めて冷静に戦局をみつめているようなスタンスの人だ。こういう人のほうが人物としては大物だと思うけれど、「戦争」という状況下ではどうしてもマツオ氏のような、決断の早さ、リーダーシップの強さという部分の資質が重用されるのだろうか。
おれはM加盟論文を彼に「講評」を受けた。自分が見た中では最高の論文です。ということはこの書記局内の誰よりも優秀だということですよ。M主義の理解、党の方針の理解という点でここまで理解して加入を決意した人はいません。というような極上の評価を受けた。そのせいかなあ?おれはノギさんに悪い印象は一つもない(笑)。
 
傑物たちの欠点。権力の集中問題
党本部というのは全国の傑物ばかり集まってきた怪物屋敷ようなところだったんだなあ。それでもみんな欠点がある。これだけの人物がそろっていたのに完璧な人間などいない。マツオ氏もいくつかまちがいを犯した。これこそ傑出した人間であっても権力を集中させてはいけないということの証なのだ。
たしかに当時、マツオ氏には権力が集中しすぎていたようだ。キタさんやタカギさんですら彼の下のように見えた。ということは彼は地下のPBと同格であったのか?この体制を不可解と思っていたのはおれだけではあるまい。彼がその後、降格したことは**派の自浄作用が働いたと信じたい。
(追記。最近、オノダとかアラとかその当時のことを振り返る本が続々出版されている。ヒドイ。読む価値もないが、逃敗走した兵隊が、悪態を着いて醜行を繰り返しているようなザマだ。アラとかオノダとかいったイイカゲンでデタラメな奴らが、歴史を偽造してまで自己弁護を繰り返し、自分の自慢話をべらべらとしゃべりまくる。
一方で、真摯に取り組んできた優秀な部分は、真面目さゆえに、{主に}マルクス批判をできないまま思考停止におちいり沈黙を決め込んでしまったという80年以降の現実。今現在の思想状況のていたらくの原因はこの辺にもあるのではないかとおれには思えるのだが。)
 
しょうもない俗物の堀内氏
傑物ばかりをあげてみたけれど、もちろんしょうもない俗物もいっぱいいた。あまりけなしたくないので気が引けるけれど、例えばマツオ氏の後のイインチョーHなどは、声がデカイだけ、アジだけは(中身がないけど)まとも、下部にはどなりちらすだけという程度の人物。よく戦争映画にでてくるいばりくさった鬼参謀みたいなもの。その程度で起用しておけばいいのに、とおれはいつも思っていたし、ずっとそりが合わなかった。
こういう輩はふだんいばりくさっているのにいざ戦さになるとほんと絵に描いたようにてんで役立たずなのだ。まあ、時効だからこのへんにしておくが、戦時下では(帝国軍であれ革命軍であれ)こういう輩が出てくることを記憶しておいても悪くはない。
離脱
 多くの仲間と別れるのはつらかったけれど、おれはやめようと決めた。多くの、いまだに整理できない、理由がある。それはまた後で述べる機会があれば整理してみよう。とにかく、少しごたごたした後で、おれは戦線を離れた。そして、血のついた手足を洗い、食うために仕事を探したのだ。
だけどなかなか職がない。どこ行っても1週間もすると公安のデカが張り付いてくる。すぐ会社の社長に知れるわけで、どこ行っても2.3週間で首になった。こりゃあいかん、とかなりおいつめられたと思った(なにせ金が一銭もなかったから)。
まともな職場には行けないだろうと観念した。とにかくハエのごとくうるさい公安に、俺はもう足を洗ったんだ、組織とは切れたんだ、と分からせるほかないとおもったんだ。それに追いかけてたのは権力だけじゃなかったからね。みっともなくテロられたり、新聞ネタにでもなったりしたらアウトだから。1年ぐらいフラフラしながら食いつないでしのいだってわけだ。
たいへんだったのはアパート。ことごとくデカにおそわれた。しかも公安、本庁、所轄、ばらばらだけどみんな来るんだよね(これはたて割りで意志の疎通ができてないみたい。)。日本の警察はこの辺は徹底している。というか60年代後半からアパートローラーのシステムができあがっていたからね。
 カメラマンとして
で、えーと、2年ぐらい逃げたりしのいだりしているうちにカメラマンの口を見つけたんだ。都合のいいことにそこのチーフが元京都大の赤軍のシンパらしかった。それでもって面接したらあっさり採用されたってわけ。カメラなんてリコーオートハーフしかさわったことなかったのにねえ。だから、後年よく聞かれて答えるのだけれど、カメラマンはそれをめざしてなったわけではない。他に才能も、つても、コネもなにもないおれが食って行くために選択した残り少ない就職口のひとつでしかなかったのだ。
しばらくして、やっとこさ、なんとか生きていけるかなあと思った。で、そこでアシスタントを2年やらしてもらった。いいとこやったな。1から10まで手取り足取り教えてくれた。いまでも感謝しとる。ありがとさんでした。札付きをやとっていただいて(笑)...
で、無謀にもたった2年で独立してしまった。申し訳ない。このあたりなど写真の世界など何も知らないで飛び込んだ者の浅はかさであったのだろう。独立して2年後、六本木に事務所設立。1982年だったかな。物撮りや建築写真など、広告写真全般を撮っていた。けっこううまいこといっぱい仕事をさせていただきました。年収もかなりあったけど、ほとんど飲んだくれて....
84年。JPS 展に今の「幻色の都」の写真の原形である写真を出品したら入選をもらった。そのころもちろんパソコンなどなく、フィルターとマスキングと多重露光をつかって制作したものだ。
93年。アートボックス大賞展に出品。これも入選をいただいた。これはもうほとんど今の作品に近い。それでもまだアナログ作品である。デジタルをやりはじめたのは97年ごろである。
99年。スタジオを恵比寿に移転。
【注】写真家としての経歴で本人が特定されそうだ。ただ、悪いがそのままにした。
追記 
ブント系
ブント同窓会なるものが某ホテルで盛大?に開催されたらしいけど、ほんとにオメデタイなあ、こいつら。ふぉんとに!無責任というか、なーんにも考えてないと言うか...。デタラメで無責任な、学生気分丸出しで(労働者に何の根っこも張らず)ブントなるカクメイ党を作ってしまったという、そういう根源的なものこそ赤軍、果ては連赤なるお化けを作ってしまったのだとは誰も思わないらしい。
荒(日向)の「ハテンコー伝」なる駄文をみればブント(2次ブントではあるがたいして違わない。それでもアラなんて1次ブントの島とかキタさんとかにくらべたらどうしようもなく矮小であると思うが)のトップなるものがかなりいい加減であったというのがわかろうというもの。
赤軍なんて子供のマンガである。軍だけの党なんてあほらしい。大衆を組織しないカクメイウンドーなんてばからしい。こういう子供を産み落としたのはブントだ。そっから総括したらどうなんだ?!何も考えずまたぞろただ気分的にブントを再結成しようったって、また同じ轍を踏むだけだべさ。
革共同
カクキョウドーも同じ。**派の指導部の中に未だにクロカンを払拭しきれていない者がいることを知ったのはおれもそういう立場の連中と少しは直接話できるようになってからのことであり、唖然としたものだ。今だから言えるけれど、**派のセンソーのやり方はどんどん□○に似てきたのである。現場の兵隊はとっくに気付いていたのだ。シドウブの感覚の方が麻痺していたのだ。
「他党派を一掃し指導権を握る」、...□○の他党派解体論とあまり変わらない一歩まちがえばおっかない路線だ。なぜならこの思想は外部だけではない。内部にも適用されうるのだから。ただ**派は、その後、戦闘的な闘争を展開した。だからこそおれも違和感を持ちながらも、多少はしょうがない、と思ってやってきた。シドウブが「ぎりぎりのおっかない路線だぞ」という意識をしっかりもってやればそんなにまちがわないとも思っていた。
でも違うのだ。カクキョウドーのシドウブのなかに、そうではなくて肯定してやっているものがいたのだ。クロカン組織論の盲目的実践者が。
(カクキョウドーのシドウブ内にもクロカンを批判しきれていない人間がいたというのはおれには驚きであった。ヒドイね。クロカンなどとるに足らない、というかあまりに稚拙な観念論だよ。
「プロレタリア的人間」とか「共産主義的人間」とはいったいなんなのだ。「革マル主義者」という「前衛党」の拡大運動こそがカクメイウンドウだとする組織運動論をなぜ否定できないか。「他党派解体-小ブル諸雑派一掃」というあきれた論理になぜすりよるのか。
 
 「内ゲバ反対??」「知識人提言」
連赤を生んだブントも同列である。「内ゲバ反対論」の四トロなどもっとお話にならない。共同で粉砕すべきであったはずなのに何を言っていたのだ。埴谷雄高や久野収らの「文化人提言」の連中も的はずれである。
クロカン批判とレーニンと
今にして思えばもっとしっかりと全面的にクロカン理論を批判しつくすべきであったと思う。クロカン理論とはカクマル以外のあらゆる運動を許さない運動なのだ。その上、「大衆」は「カクマル前衛党」に指導さるべき「無自覚な存在」なのだから恐ろしく始末に悪い。
こんな大衆蔑視の思想などマルクス主義とは相容れない。...だから、問題なのである。このクロカンもまたマルクスを読み間違えてこんなになってしまったのだ。ML思想の見直しは絶対必要だ。)
れーにんの末期を思い浮かべてしまう。敵に勝つためには党組織はこうでなければならない、でもこの党の形態は危ないものだぞ、と、れーにんは意識していた。特にすたーりんが力をもちはじめてからはよけいに意識していた。だから後期には「中央委員会の100人化」とか必死になって暴走しないように歯止めをかけようとしたのだ。でも遅かった。れーにんは自分の路線によってすたーりんをもって追放され指導権をにぎられたのだ。
賢明なれーにんが元気ならば問題なかった、たしかに。でもそういう問題ではない。「れーにん」はそんなにいないのだ。匹敵するようなひとがいても倒されたら終わりなのだ。だからちがう。ちがう思想、ちがう組織論が必要なのだ。
アオカイなら、だから「ローザ」なんだというかもしれない。でもちがう。そうでもない。ローザは矛盾している。アオカイも同じあやまちを犯しているではないか。アオカイ同士でみにくい××をやっている。問題はやっぱり本家のMなんだよ。だってほら、□○はれーにんを読まないよ、まるで。で、だから...、ちがう思想が必要なんだ。

【以上転載終わり】

【注1】元のブログは見つからない。「マル共連」が最初に見出したものか?
今回は「れんだいこ」さんのブログから無断転写(孫引き)。
   【注2】小見出しは当ブログによる。節ごとに当ブログによる【注】を加えた。
果たして正確な【注】か否かは不安もある。元ブログが無いので筆者は岩〇氏としておく。元立教大学⇒学生書記局。70年代半ばの首都圏大学の3大拠点を作り上げた。

【注3】74年6・26の第2次法大会戦を生々しく描いている。対革マル戦争への評価も生き生きしている。

【注4】長いので2回に分けた

【以下引用】
【れんだいこ注】告白者不明であるが、「党派間ゲバルトの感性」がネット空間に次のような内容のものがサイトアップされている。これを転載しておく。仮に「告白者A」とする。仮題「告白者Aの党派間ゲバルト風景録」によれば、「告白者A」は、中学・高校と陸上部に属し、秋の県大会100mで優勝の実績を持っている。中学あたりから社会意識に目覚め、高3の時はじめて10.21国際反戦デーデモに参加している。某大学社会学部社会学科入学。陸上部に入ったが、2週間で退部した。大学は6年通って、(表向き)授業料未納で除籍。ノンセクト活動家を1年ほどやった。その後、**派に入った。
【注】「某大学」は立教大学のこと。**派は中核派。

53年生まれ?1972年立教大学社会学部入学
1979
年立教大学を中退(挫折と離脱)  

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挫折(成田空港の開港と方針転換への疑問)

でもって、成田開港の後、どうしようもない挫折感におそわれ、無気力状態に陥ってしまう。党の大きな方針転換にも疑問があった。この方針転換とは「組織防衛」を第一義とし、これから来るであろう後退局面を退却戦として戦おう、というものであった。もちろん対外的にはそういうことは言わなかったけれど、その後の20年をみればそういうことであったと思う。おれとしても「そういうことか」、と感じていた。おれの出番はなくなったなというか、もうついていけないなという漠然とした気持ちを抱きはじめていた。きっぱりとやめようと決断したわけではない。ずるずるとやる気をなくしたのである。
【注】成田空港開港は78520


本多書記長と3・14について
75年3・14
***しかし、やはり党の指導者であったH書記長の死は大きかったと思う。□◯派のテロで暗殺されたのであるが、そのニュースを聞いたのは党本部の書記局の部屋であった。それはもうかつて味わったことのないようなショックを受けた。党本部は3階建てのビルであったけれど、建物全体が静まり返って重苦しい雰囲気に包まれたようだった。歯をくいしばって眼に涙をうかべる者もいた。
本多さんの人物像

 H氏はみんなから親しまれ尊敬されていたのだ。H氏はその当時の他派やガクセイ運動の指導者と比べてもけたちがいの人物であったと思う。彼の人物感を表する多くのエピソードがある。例えば、サンリズカ闘争の初期の頃、彼は農民の指導者の家を訪ねた時、神棚に手を合わせたという。彼にとっては唯物論者としての立場などよりも、農村の慣習をふまえ人間と人間の信頼関係を得ることこそが大事であったのであろうか。こんなことをさらっとできる人はその当時ほとんどいなかったと思う。

 また、彼は、機関紙やビラなどでは難解な言葉使いをことさら批判し平易な文章を心掛けろと口をすっぱくして言っていた。ほかのサヨクと言えば難解な言葉を書き連ねてそれが知的であるかのような時代にである。
70年闘争で組織破防法が発動されいよいよ危ないかという時でも党の主要な政治局メンバーがさっさと地下に移動したのにほんとは一番危ない彼が最後まで残った。また党が彼に最強の防衛隊をつけようとした時拒否されたとも聞いた。遠く離れて防衛上も安全なところから指導すべきだという意見にもがんとして拒否されたとも聞いた。そのあたりも敵の情報網にひっかかる原因があったのかもしれない。なにか当時義理と人情の**と一部で言われていたけれど、これはH氏の人柄に大いに関係していたにちがいない。つくづく惜しい人をなくしたと思った。もちろん残ったS氏などもりっぱな指導者ではあるけれど、やはりH氏あってのことではないだろうか。やはりH氏ならばついていこうという面はあったと思う。いわば例えは悪いがH氏は「仁侠」にも通ずるものがあった。
              【注】S氏、清水丈夫政治局員。後の「議長」
「神棚に手を合わせた云々」は60年代当時としてはさほど意外では無い気もするが、実態はどうだったろう? 筆者との世代・年代の差、70年以降の時代の空気の差、みたいなものも感じるが?
「決戦主義」と本多さんの持論
 **派は当時「決戦主義」などと揶揄されたものだが、しかしそんな他派の低レベルの批判などおかど違いであり、それこそはH氏の思想そのものであった。「革命党は負けがわかっていても(たとえ局面における戦術的勝利がほど遠い場合であっても)戦わなければならない時がある」というのがH氏の持論である。奴隷根性に堕ち、敗北主義にそまるよりも階級と人民に希望を与えるために党と活動家は犠牲になって戦え、ということであった。だからこそすべての党員がどんな時であろうと「H氏なら必ずやる」という確信をもっていた。敗北主義におちいることなど一度もなかった。どんな苦しい時でも楽観主義であった。「やる時はやるんだ」という気概をすべての党員が持っていたのだ。彼についていけばまちがいないという心情すらおれにもあった。

「等価報復」「完全せん滅」
 だからこそ彼が亡くなった時の悲しみは例えようもなかった。党内も激高していた。党内でも最左派でならしていたB戦闘同志会などは「□◯派本部とD労会館に突入しよう!」とか叫んでいた。H氏がテロに遇ってから1週間後6人の□◯派戦闘員がアジトで完全××されている。党のすべての人間がそれを長いこと(たった1週間であったのに)待ち望んでいた。みんながようやく半分くらい溜飲をさげたような気がしたと思う。それは史上に残るもっとも激烈な戦闘であったようだ。新聞各紙のトップをかざり、社会面は半分以上をさいて報道していたと思う。その後の「自民党本部火炎放射焼き討ち事件」に匹敵する扱いであった。周囲の電話何万回線も切断し、敵のアジトの鉄のドアをガソリンカッターで切断し、中のバリケードを打ち壊して突入し、一方の隊は隣の部屋からスレートを巨大なハンマーでたたき壊して突入したらしい。××された6人はH氏が受けたのと同じ打撃を全員が強制されたという。部隊は全員真っ赤な返り血をあびたらしい。
 
 この当時から「等価報復」という言葉が使用されている。(H氏の暗殺者の凶器はまさかりであったらしい。それに対して1mもあるバールで報復したらしい。その後の政治集会で60年アンポゼンガクレンイインチョウで有名なK氏は「ファシストの脳天にバールを!」とアジっていた。)その事件の報道を聞いてすべての党員が手に手をとりあって「やった、ついにやった!」と叫んでいた。それからその後の1年近くはまさしく嵐のようなテロ合戦であった。銃火器だけは使わなかったけれど、何百人もの死傷者を出した戦争以外のなにものでもなかった。

あえて言いたい。革マルは「左翼」ではない。「内ゲバ」ではない

 戦争以外のなにものでもない多くの戦闘行動に俺も数多く臨戦している。歴史的事実を風化させないために俺はあえていまだ生々しい記憶を掘り起こしている。ひとつことわっておくが□◯派はもはや決してサ翼ではない。敵対党派や文化人らににわとりの生首や猫の死体を宅急便で送ったりするのはサ翼ではない。敵対的な労組の幹部らを尾行し電話を盗聴しプライベートな醜聞をさがしまくりそれをネタに恫喝するのはサ翼ではない。他派をつぶすためにのみ軍事組織をつくり、他派の戦闘はすべて「権力の謀略」であるなどとうそでぬりかためるのもまたけっしてサ翼のやることではない。他派をウジ虫とか青虫とか公然と機関紙で言ってるのもまた□◯派の本質を表している。したがってこの戦争をひとくるめに「内ゲバ」と称するのは決して正しくない。サ翼の仮面を被った、史上もっとも暴力的な新興宗教団体と言った方がいいかもしれない。事実、党首の「くろカン」としょうする人物は彼等の集会では録音テープで登場する!彼等は総立ちになって拍手するらしい。

 
法大会戦(74年6・26)
 革マルによる襲撃と大学支配
風化させないために、事実を知ってもらうために、一つの会戦(!)を掘り起こそう。個人テロ戦に対して集団戦を会戦と称していた。有名な会戦に俺も参戦していたH6.26会戦というのがあった。H大構内で起こった200人規模の大集団戦である。その当時すでに□◯派の脅威は猛威をふるっていて、ただの学内集会すらまともに開くことすら命がけであった。
全国のほとんどの大学は□◯×派に制圧され、数少ない当方の拠点大学は幾度となく襲撃されていた。多くの死傷者も出している。早稲田、東大、東工大、専大、国学院、横国大、北は北大から南は沖大までほとんどの大学を制圧されていたといっていい。
大学だけではない。国鉄、全逓、教労、自治労、..労働戦線ですら□◯派の支配は猛威をふるっていたといってもいい。信じられないだろうけれど、本当の話である。例の国鉄分割の時も当時の中曽根が切り札にしボス交でとりまとめた相手こそ日共ではなくD労のマツザキであった。この人物こそ□◯派の副議長である。当時の影響力を物語っている。
革マルによる下宿・アパートへの襲撃との対峙。そしてスパイ
 **派の学生カツドーカは大学に登録してある下宿やアパートをすべて引き払っていて友人のところを泊まりあるいたり、2.3ヶ月ごとにアパートを代えたりしながら□◯派の牽敵活動をかいくぐっていた。
□◯派はインフと称して数百人規模でスパイ活動もどきをしていたし、先日権力にアジトが摘発されてあきらかになったけれど、盗聴活動などはけたはずれの規模で行っていた。警察無線のデジタル暗号を解読していたというので権力がやっきになってようやく検挙したらしいけれど、これも聞いた話によると警察内部にかなりのそれもかなり幹部クラスに□◯派のスパイが入っていたようだ。東大は□◯派の拠点校の一つであった。警察に組織的にもぐりこませていたとするならば十分ありえることだ。
「加入戦術」というのは□◯派の公然たる戦術でもある。この辺もどっかオームに似ている?!オーバーに恐れていたのではなくて事実、何百件とアパートで寝込みを襲撃されている。俺などもアパートのドアは冷蔵庫などでバリケードをつくり、ふとんに鉄パイプを抱いて寝た記憶がある。両手両足には竹とガムテープで作ったプロテクターをつけていた。
命がけの大学戦争
 で、学内集会であるけれど、のこのこと大学に歩いていってたらその途中で襲撃されてしまう。帰りもまたしかり。したがってそのころはもう、60年代にみられたような(「いちご白書」にみられたような)ある種、牧歌的な風景などみじんもない。大学に入るのすら命がけである。
例えばこうだ。前の晩、3人ずつぐらいで各所に分宿する。朝4じに起床し、決められた結集点に集合する。結集点はいくつかある。そこで幌付きトラックにのりこむ。そのなかでヘルメットと竹ざおで「武装」する。鉄パイプでないのはその時点で権力に遭遇した時「凶器準備集合罪」に問われないようにするためだ。そして大学近くの公園で各所からきたトラックが集合し、そこから全員が隊列を組んで大学に向うのだ。大きい集会であれば、50人から80人くらいであろうか。この部隊は先発隊であって、いわば集会防衛隊である。そうやって防衛隊が学内に陣取った後でもう少し大衆的なレベルの参加者らが合流するのである。
 
α隊と糾察(求殺??)の実相
 ***一部で有名になった糾察隊というのはこの集会防衛隊から派生した部隊のことであって、この言葉にはいろんな誤解がある。「公安調書」などは、「糾察隊」が「軍」そのものであるかの記述があるが水準が低いのかアホなのか笑ってしまう。ノンセクトのなかにもそう理解している人もいてこれもこれも低水準。
この頃、集会がしょっちゅう襲撃されるのでα(アルファ)という集会防衛隊を作った。これは軍組織でもなんでもない。集会参加者はβ(ベータ)、防衛隊はα、それだけのこと。だから「○×大は、α人出せ」とか指示を出してその集会の都度、急造した隊編成なのだ。「求殺隊」なんて笑かすなよ。集会場の周辺を見回りしてスパイとか襲撃部隊とかを摘発しようとして動いていただけのこと。α(防衛隊)とは別に攻撃隊を配置したこともあったけどね。こっちの方が本来の誤解された意味の方だね。まあ、ただαは軍隊的行動を要求されたので本来の軍から指導を仰いでいたのはたしかだけれどもね。
このα隊が、他派や一般学生らから反発を買ったのも事実。だって実際、一般人の荷物検査をしたり、(武器=Pを持ってないか)服装チェックをしたりしたわけだから。警察なみだよね(だから-警察と区別して-人民糾察隊と言った-正式名称ではないと思うの組織化をまかされたキャップクラスが勝手に命名したようだ)。αは、ただの活動家クラスの若い学生や労働者が多かった。だから実直だし使命感に燃えていたし硬直でもあったわけで、一般民衆にはまずい対応もいっぱいあったと思う。それは指揮官クラスの指導のつたなさの問題でもあるんだよね。
 
6・26法大会戦の当日の現場
 6.26当日もそのようにしてH大構内に60人ぐらいで登場したのだ。実はこの日は背水の陣でゴリゴリのメンバーを総動員していた。ガクレンのイインチョウHもいたし、マルガクドーのイインチョウのFもいた。SOB議長O氏すらいたのだ。
なぜかと言うと、その1週間前のサンリズカ支援集会を襲撃されて大敗北を喫していたのだ。こっちが100人に対し、それ以上の数ではさみ打にされこてんぱんにやられている。1人の死者も出した。重傷は数しれない。その当日、俺は党本部にいたけれど、夕方になって血だらけになってみんなもどってきていた。
H大といえば**派の最大拠点である。そこを襲撃され惨敗したとあっては立つ瀬もない。たいしてダメージを受けていないぞ、という姿勢を内外になんとしてもアピールし党内外の動揺を払拭しなければならない。そうした政治判断における1週間も経たないうちの大動員であった。なりふりかまわぬ召集だったわけだ。逆に敵もそんな早い再襲撃もきついだろう、という読みもあったのではないか。召集したメンツにそれがあらわれているように思う。
【注】 一週間」前。74年5月13日、前迫勝士が虐殺=戦死。
【注】学連委員長H氏。堀内氏のこと。マル学同委員長F、藤田氏(後述)SOB議長O氏???
 
 再度の襲撃。1時間以上の死闘
しかし、それは甘い読みであった。敵はより以上の強力な布陣を敷いていたのだ。我々は部隊を校庭に布陣し、学内の検索隊を何隊か出した。数分して検索隊が戻ってきて「異常なし!」という報告があった。
だが、その時である。正面の69年館の中でなにか白いものがうごめいていた。すぐにそれはヘルメットがゆれたものとわかった。誰かが「Yだ!」と叫んだ。一斉にこっちの部隊が建物に殺到し衝突が始まった。それがそれから1時間以上におよぶ壮絶な死闘のはじまりであった。
 発見が一瞬こちら側が早かった分さいわいしたのだろう。敵が建物からでてこないうちに殺到したおかげで緒戦の激突はこちらが押していた。(もしもであるけれど、発見が遅れて敵に奇襲をかけられていたならば、もっと悲惨な結果になっていたであろう。)喊声をあげて突っ込んだ部隊は竹ざおで69年館のドアとガラスをぶちやぶり敵に猛然と襲い掛かった。だが敵の数は半端ではなかった。倍(百以上)はいたであろう。「斥候は何を見てきたんだ!」とおれは思った。
竹竿VS鉄パイプ
しかも竹ざおと鉄パイプではやはり勝負にならない。ばしっ、ばしっ、と竹がたたきおられてしまう。がつん、がつん、とヘルヘットが陥没してしまう。10数分でずるずると押し出されて校庭が主戦場になってしまった。総勢2百人規模で校庭いっぱいにひろがって白兵戦が展開されている。まさしく斬り合いであった。
何人かが血まめれになって地べたに倒れている。敵は長めのパイプと短かめのパイプの2種類の役目の人間がいて訓練された部隊であろうことはすぐわかった。(当時□◯派にはJACという襲撃の特殊部隊がいてテロのプロといってもいい組織があった。)「こいつらがJACか」と思った。おれはJACに遭遇したのはこの時がはじめてであった。頭上からヘル越しに1発くらってクラッとなった。グシャとヘルが割れた。さらに左手に一発くらった。幸運にも時計にあたって壊れてそれが幸いした。それでも左手のダメージは大きくてその後ずっとしびれて握力がほとんどなくなった。
こんな白兵戦になると竹ざおなど何の役にもたたない。突いたって当たりはしない。さおのまん中を両手にもって右、左と鉄パイプの嵐を振払うのがせいいっぱいであった。そのうちこっちの部隊のうち20人くらいが押されて正門の外にだされてしまった。いよいよやばいかなと思った時、助っ人が出てきた。学生会館に泊まり込んでいたこっちの部隊5.6人が鉄パイプをもってでてきたのだ。それでまた押したり押されたりの均衡状態になった。
というより双方疲れてきたのであろう。みんな竹ざおをふりおろせない程、疲弊していた。一瞬不思議なにらみあい状態が続いていた。後ろの方でSOB(カクキョウドーガクセイソシキイインカイ)議長の「隊列つくれ!かたまれ!」という声が聞こえていた。(かたまってどうするんだ、とおれは思ったけれど、彼はJACの怖さを生身で知っている人間である。勝てる相手ではないと思っていたのであろう。)
戦闘再開
その間をぬっておれは使い物にならなくなった竹ざおの替わりをさがしに後ろへさがった。
本館の柱の影で鉄パイプをもってふるえているW大の仲間をみつけた。「何やってんだ、こんなとこで!」そいつは先輩であったけれど、おれはついどなってしまいその鉄パイプをよこどった。これでおれはようやくまともに戦えると思った。そこからおれは鉄パイプを手にして意気あがりなんとも無謀なことをしたのだ。にらみあって横を向いている□◯派の部隊に真横からたったひとりで突っ込んだのだ。Pをふりかざす瞬間大声を上げた。「ナロ~!」ひとりの右肩にぐさっと一撃。とってかえして顔面に二撃。だがそのとたんに3人ほどにかこまれて猛然と反撃された。
だがそれが合図になってにらみ合いから一転、戦闘がはじまった。おれは敵の陣地からなんとかのがれて部隊に復帰した。それから俺は二人ほどやりあい鉄ついをくらわせただろうか。こっちの人間も何人か地べたに倒されている。倒されているのに助けるひまなどないのだ。足元にも敵がすごい量の血をふいてねころがっている。「こいつ死んだのか。」と一瞬考えたりしている自分の妙な冷静さが不思議であった。

学館に逃げ込み
 10数分続いた後だろうか。むこうは徐々に隊列を整えて上回る数で扇型にじりじりと追い詰めてきた。「あいつだ、あいつをやれ!」という声が敵の隊列から聞こえてきた。なんだ、おれを差しているではないか。その一瞬、4.5人がこっちに殺到してきた。ワーッ、とボコボコにされてたえられなくなって学館の方へ逃げた。ところがそれがまた合図になってわが方の部隊が一斉に学館にむかって逃走したのである。全員が学館に逃げ込んだ。敵はそれ以上追ってこなかった。中ではマルガクドーイインチョウのF氏が、入り口にバリケード築け、と指示を出していた。
 
結末
たたかいは終わったのだ。全員疲れきり、血まみれの服をまとい、ある者は折られた手足をだらりとさせてうずくまっていた。そしてその一時間後くらいに機動隊が入り当方は全員逮捕された。襲撃した□◯派は逃走している。幸いにも死者は出なかったが、双方あわせて数十人の重傷者を出した。
 
 勝てはしなかったけれど互角に戦った。それまで常勝のプロ軍団JACは初めて手痛い傷を負ったのである。JAC神話が崩壊した日であろうか。こんな会戦が何十回となく全国であったのだ。立教で横国大で慶応大で、あるいは相模原とか新橋駅構内とかで、...
何故?なぜこんな集団(革マル派)を生み出したのか??
 (なぜこんな戦争が起こったのか、なぜ□◯派のような集団を生み出したのか、もっとはっきりと明らかにすべきである。もっと言えば、連赤、クメールルージュ、そもそものスターリン。キヨーサンシュギ運動のなかからなぜこのような部分を輩出してしまったのか、をはっきりさせないかぎり未来の青年を決してマルクス主義で引っ張っていくことはできない。
おれはこの戦争の正当性を主張できる。当事者としてその事情を知っているかぎりにおいて、戦うしかなかったし、戦わなければやられていたし、もし我々が戦わずに□◯派の天下になっていたとしたらそれこそおぞましい。
しかし何も知らない若者に対してマルクス主義運動がなぜそうような部分を生み出すのか、と説得するはっきりとした論拠を俺は持ちえていない。みななぜ口をつぐんでしまっているのか。もちろんそれはいまだに□○派のテロがこわいという面は十分にあるが。)

                      つづく
【下】の見出しは
離脱、脱け殻の日々
  血わき肉踊る日々
  呪縛からの解放
怪物のような人びと(松尾・北小路・マオさん・藤田・稲辺)
稲辺氏(日大)と作り上げた最大拠点=立教大学支部
傑物たちの欠点。権力の集中問題
俗物の堀内氏
離脱
 カメラマンとして
 追記(諸党派と黒田寛一)














































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