2018年11月

著者のコメント


「問われているものは何か」

 『新日本文学』に載せる予定で準備した草稿である。主体となる側に深い内省がないことには、議論は発展しない。こんなことはわかりきったことなのに、詰めて考えることをしない精神風土がこの国にはある。中途半端な妥協やあきらめが大手を振って罷り通るの状態は少しも変わっていない。それはほとんど宿痾といっても過言でない。竹内は、そのような風潮に対して果敢に挑戦した知識人のひとりである。竹内の問題提起を引いて論じようと考えたのは、それが最盛時の新日文に向けて行われたものだったからである。文中、新日文の会員のなまえが出てくるが、その中の何人かは有力会員として現存していた。野間宏、菊池章一などがそれである。書いている最中は、それらの会員が呼応してくれることに対して期待がなかったわけではない。だが、私はこのノートを掲載することを止めた。限られた誌面を争う会員の様に愛想が尽きたことが最大の理由であるが、これらの人たちが私の提起に対して反応してくれるという期待がもてなくなったからでもあった。この時期になると、私はこの会に何かを期待できるとは思えなくなっていた。そのような状況下で活字にすることに、意義がもてなくなっていたのである。
       04.06

 問われているものは何か
 ――継承すべき課題


  1 竹内好の問総提起


 いきなり国民文学論争が飛び出したのでは、面食らうのが当然である。なぜ、いま、国民文学論争かということも含めて、まずはわたしの問題意織から述べる。
 多くの人に読まれるものがいいとは限らない。一部の読者しか持たないものの中にもいいものは、ある。だが、それが作者と読者の間に暗黙裡に成立していた「馴れ合い」を含むものであるなら、あらかじめ多数の読者を獲得できないものであるに過ぎないといっても過言ではないだろう。逆の言い方をすれば、多くの読者を獲得しているものには、それだけの必然性があるという言い方もできる。
 かつてこの国の文学に一つの橋頭堡を築いていた新日本文学会が、いわゆる「文壇」から歯牙にもかけられないほどマイナーな存在になり下がってしまった原因の一つとして、創作方法における閉鎖性とある種の自己満足を、わたしは感じていた。『通信版』での提起は、こうした不満から、その原因を共同の討論で明らかにしたいという問題意識にもとづいて行ったものだった。
 なぜ多くの読者を獲得できないのか、多くの読者を獲得するためには何が必要なのか、という問題意識からいろいろと漁る中で突き当たったのが、竹内好であり、なかでも彼が五十年代に提起した「国民文学」に関する問題提起だった。
 竹内によれば、国民文学という形を取って問題が提唱された時期は、次の三回あったという。
  近代文学の初期(成立期)――二葉亭から透谷をへて啄木に至るもの
  第二次大戦中の「日本ロマン派」の主張を中心にするもの
  一九五〇年代初期に竹内などが提唱したもの
 の時期は、明治維新により欧米列強に比べて一世紀以上遅れて近代国家としての体裁を整えたこの国が、帝国主義のコースを取るか共和主義のコースを取るかをめぐって行われた綱引きの結果、体制側の勝利に終わり、帝国主義的近代化とは別のコースを目指した運動が挫折したことを契機にしていた。
 の時期は、中国古代の王政を範とする復古革命の挫折を契機にしている。ただし、ここにはもう一つの挫折もある。それは、帝国主義的角逐の過程で、その最弱の環であるロシア帝国が革命によって崩壊したことを受けて澎湃として起こった世界革命の波がある。そして、この波がスターリン主義の手で纂奪され、その影響をまともにかぶった左翼運動党の敗北がある。ここには二重の挫折があったともいえる。
 の時期は、米軍占領下の反植民地的状態からの脱出を目指した革命の挫折を契機にしている。
 竹内は、この三回の契機がいずれも革命の敗北を契機にしていることについて触れ、次のようにいう。

――
国民文学は、いつも革命の挫折の後に唱えられているように見えるが、それは法則として認めていいものであるかどうか。(「文学の自立性など」)

 国民文学論争は、右に述べたような省察を前提として、竹内が口火を切ることによって開始され、この国の知識人の総体を巻き込む論争に発展した。しかし、後でも触れるが、分裂していた日本共産党の珍妙な妥協が55年に成立することを機に、巨視的に見れば、55年体制と呼ばれる流れの中に放り込まれ、そこで行われた議論は、今日では完全に忘れ去られ、議論の端の上ることもない。
 竹内が疑問として提起したように「革命の挫折の後に唱えられる」ものとして「国民文学」があるとするならば、80年代を迎えた現在を「革命の挫折後」といえるかどうかが問われなければならないだろう。しかし、80年代以降、なかでも70年代から80年代にかけての総括を果たすことの困難さが、いままでそれを阻んできた。極端な言い方をするならば、この国の知識階級は、自らが歩む先をつかめないままに右往左往しているというのが実情である。このような状況に、高学歴社会と呼ばれる高度大衆社会が混迷状態にさらなる追い打ちをかけている。

 80年代に前後して登場した左翼反対派は、しばらくして「新左翼」と呼ばれるまでに社会的に定着し、一時期は権力と対決する構図を持った。しかし、それが今や見る影もないほどに社会的な影響力を失っている。日本共産党が革命を担う勢力ではないことが明らかであることを考えるとき、「新左翼」が「サヨク」といわれ、運動の実態を伴わない過去のものとしてしか扱われない現状は、「革命の挫折後」以外の何ものでもないと筆者は考える。
 80年代への突入を前にして、事を起こした当人たちも含めて誰もが予想しなかった形で一連の東欧革命が起こった。起きてみてあらためて知らされたことだが、歴史というものはつねに非情であり、また、結果的にはきわめて合理的である。いままで見えなかったものが見えるようになってきたという意味で、89年という年はそれまでの何十年かを凝縮した年だったのである。
 本論に戻していえば、80年代以降、今日に至る時期は、スターリン主義からの決別を目指し、かつ、それを自認していた左翼運動自身が、打倒すべき対象にしていたスターリン主義から依然として決別してはいないことが明らかになった時期でもある。スーリン主義からの決別という場合、何をもってその指標とするかについては議論が分かれるところなので、ここでは誰もが共有できることとして国際主義に問題を絞ってみる。
 国際主義を計る指標は、いうまでもなく「被抑圧民族との連帯」にある。ここでの最大の難問は、帝国主義本国の肥大化が、抑圧民族の内部で階級対立を希薄にするものとして進行することにある。本来的にあるはずの階級対立が見えにくくなる結果、本来なら抑圧されている側に意織の転倒が生まれる。結論を急いでいえば、この間のこの国の左翼運動は、以前的に抱えていた抑圧民族の問題にわずかに手を伸ばしたに留まり、新たに急増した「経済移民」といわれる人たちにまで手を伸ばすところに至っていない。そういうなかで、「経済移民」の数は年を追って増えているのである。スターリン主義にもっとも欠けていた国際主義を実現するという意味での敗北は、明らかである。
 このように考えるとき、90年代に突入した現在、国民文学論争で提起された課題を検証することの意味は小さいとはいえず、あながち的外れであるまいと思うのである。

2 竹内が国民文学を提唱した前提

 竹内が国民文学の必要性を初めて提起した52年は、前年に単独講和が締結され、世界が冷戦体制に突入した時期で、この年にはメーデー事件(5月)、破防法公布(7月)、警察予備隊の保安隊への改編(10月)と反動化攻勢が相次ぎ、「逆コース」という言葉が流行した年でもあった。
 平和条約が締結され、形の上では独立国になったとはいえ、アメリカ占領軍は事実上日本を占領している状態にあり、民族の自立(自決)が当面する緊急の課題として知識人の問題意織に上っている時期でもあった。ちなみに、日本共産党は占領軍を解放軍とするそれまでの規定から、日本をアメリカの半植民地と規定する綱領に変更し、この時期に発表している。この綱領をめぐって、書記局を握っていた主流派(所感派)とこれに反対する国際派との間に主導権争いが起き、新日文はその争いの影響をもろに受けた。竹内の危機意識は、こうした反体制勢力の分裂・不統一を背景にしたものだったことを、ここでは押さえておきたい。

 竹内が国民文学を提唱した前提には、次のような認織があった。

1)
 前記の時期の敗北に関する透徹した反省
 一九一七年のロシア革命が及ぼした影響は、昨年の東欧革命の比ではなかった。世界中のありとあらゆる階級と階層に属する人間が、その衝撃に巻き込まれたわけだが、もっとも影響を受けたのは知識人だった。そのことはこの国においても例外でなく、トルストイの小市民的な観念論に共鳴する中から出発した白樺派の人道主義が、プロレタリア文学に大きく傾斜せざるをえなかったのは、時代背景を考えるならば当然のことだったといえる。
 竹内は、新日文が戦前のプロレタリア文学を出発点にしていること、そして、そのプロレタリア文学が白樺派に基礎を置いていることを指摘したうえで、この両者の関係が未分化のままなし崩し的に移行したことに触れて、次のようにいう。

――
「白樺」の延長から出てきた日本のプロレタリア文学は、階級という新しい要素を輸入することに成功したが、抑圧された民族を救い出すことは念頭になかった。むしろ、民族を抑圧するために階級を利用し、階級を万能化した。抽象的自由人から出発し、それに階級闘争をあてはめれば、当然そうならざるをえない。この民族切り捨ての爪立ちの姿勢にそもそもの無理があったのだ。……そのため、ひとたび何かの力作用によって支えが崩れれば、自分の足で立つことができない。無理な姿勢は逆の方向に崩れる。極端な民族主義者が転向者の間から出たのは不思議ではない。

 十五年戦争下の転向が、語の本来の意味の転向という形を取らずに、この国独自の形態を取らざるを得なかったことの背後に、竹内は右のような発生の由来を見たえうで、敗北(失敗)の経験を無にしてはならないことを次のように説く。

――
国民文学というコトバがひとたび汚されたとしても、今日、私たちは国民文学への念願を捨てるわけにはいかない。それは階級文学や植民地文学(裏がえせば世界文学)では代置できない、かけがえのない大切なものである。それの実現を目ざさなくて、何のなすべくものがあるだろう。しかし、国民文学は、階級とともに民族をふくんだ全人間性の完全な実現なしには達成されない。民族の伝統に根ざさない革命というものはありえない。全体を救うことが問題なので、都合の悪い部分だけを切り捨てて事をすますわけにはいかない。かつての失敗の体験は貴重だ。
――
「処女性」を失った日本が、それを失わないアジアのナショナリズムに結びつく道は、おそらく非常に打開が困難だろう。ほとんど不可能に近いくらい困難だろう。しかし、絶望に直面した先に、かえって心の平静が得られる。……特効薬はない。一歩一歩、手さぐりで歩き続けるより仕方ない。中国の近代文学の建設者たちを見たって……他力に頼らず、手で土を掘るようにして一歩一歩進んでいるのである。かれらの達成した結果だけを借りてくるような虫のいいたくらみは許されない。たといそれで道が開けなかったところで、そのときは民族とともに滅びるだけであって、奴隷(あるいは奴隷の支配者)となって生きながらえるよりは、はるかにいいことである。(いずれも「近代主義と民族の問題」)

 ここにおける竹内の認識は、戦争に敗けた日本人の戦争総括は、敗けざるを得ない戦争を許した文化の敗北として追究されなければならない、という認識を前提にしている点で、大岡昇平の「文化によって勝つ」という認識と呼応している。

2)
 社会革命の挫折に係わる問題提起
 社会革命の挫折は、基本的に近代的市民社会の未成立=自我の未成熟に起因する。ロシアと中国で日の目を見た社会革命が今日もがき苦しんでいることは、そのことを裏付けている。近代的市民社会も未成熟なままに、しかも曲がりなりの社会革命も実現せずに、帝国主義のしっぽに連なろうとした結果、この国ではいろいろの形の歪んだ国民意識を生みだすことになったわけだが、文学という領域に絞っていえば、純文学(竹内によれば文壇文学)と大衆文学との乖離という形を取ったことはその現れの一つだった。その原因として、竹内は、近代文学が文壇=中世的ギルドを軸に存在し続けたこと、新日文もその例外ではなかったという。

――
民主主義文学を称するグループの戦後の動きは、一貫して、文壇という基本構造の破壊、それによる文学の国民的解放を目ざすのではなくて、文壇におけるヘゲモニーの争奪、あるいは別の文壇勢力を作るという方向に限られていた。それが今日のような文学理論の貧困をもたらしたのである。
――
一部は戦後文学と重なりながら、しかしそれとは別に戦後の文学の流れを代表する「新日本文学会」という集団があって「民主主義文学」をとなえている。これは綱領をもち、全国組織をもつ唯一の文学結社である。敗戦直後に組織され……ある程度その組織化に成功したが、間もなく伸びなやみが出てきた。……これには「新日本文学会」自体にも弱点があった。日本共産党の動揺につれて動揺し、内部分裂をおこしたりしたからである。日共は、戦後の再組織にあたって平和革命をとなえ、コミンフォルムの批判にあってそれを撤回したが、その後の理論的確立をまだ行えないでいる。この動揺が「新日本文学会」にも反映したのである。文学者の組織と政党との関係、および過去のプロレタリア文学と今日の民主主義文学との継承関係の理論的探究がいまだ十分になされていない。それがこの会の弱点である。
――
日本の文壇とよばれるものは、特殊なギルド的社会であって、一定の資格を公認されなければ参加できず、参加することによって身分的特権を取得する方式になっていた。そしてこれが日本独特の私小説の発生地盤でもあった。……文壇は今でも残っているが、その形は昔とすっかり変った。資格の公認も、文壇内部の身分的序列も、いまでは文壇の権威が決めるのではなくて、ジャーナリズムの商業主義が決めるのである。……ギルドの解体は、徒弟志願者がいなくなったことで証明される。むかしは文学青年という形でそれがあった。むろん、いまでも文学青年はいるし、むしろふえているが、これは徒弟志願者ではない。……金銭欲あるいは名声欲に駆られて作家を志願するのである。……文壇に代わる正常な作家養成のコースが生れるまでは、この変態現象はつづくだろう。

 最後に引用した箇所が、次のような指摘で結ばれていることに注目して欲しい。

「新日本文学会」が伸びなやむのは、それ自身が新しい文壇形成をめざしていて、コマーシャリズムに対抗する有力な組織原理を発見することができないでいるからではないかと思う。まず文壇の解体を承認し、独自の作家養成コースを作るべきである。今日の権力支配の下で、それは不可能に近いくらい困難であろうが、それなしに新しい文学は生れてこないであろう。(「文学における独立とはなにか」)

 事は、わが新日文に係わることである。竹内が「次のような分析などは割りに公平な見方である」という道家忠道の指摘を見ることは、無駄ではあるまい。
 道家は、日本の文壇文学の主流である私小説は、同じ後進国であるドイツにも似たようなものがあるが、内容的にはまったく違っており、その違いはいわゆる「文壇」というものの存在にあるという。

――
日本の「文壇」という独自なものを見逃しては、私小説は理解できないのではないか。私小説のようなあのような一般的に興味のない対象を扱うものが栄えるのは、一つにはそれがいわば楽屋話的な意味をもつからである。お互いに知りあい飲みあうごくせまいサークル、ほとんど小説家同志と評論家と雑誌記者そしてそれらの志顔者とからなるようなグループの間だからこそ、日常茶飯事的な些末な「私事」も興味がある。そこには「典型化」によって広い大衆にうったえるという要求も地盤もないのである。また描かれている主人公が、描く主体自身から完全にへその緒を切られていないという独特の形態も、読者層と作者層とがほぼ一致するというような社会構造に根本の理由があると思う。しかもそこには一種の特権的な意識、開放感、そして「近代人としての過大な意識」がある。この「文壇」に入場を許されるのは一つの「出世」であったという事実を見逃してはいけない。これは本質的に、一人の師匠を中心にした短歌や俳句や長唄の流派とちがわぬギルド的な社会である。或は生産者が同時に消費者であるようなお針の師匠的な、家内工業的なものですらある。こういうものが、一面で高度資本主義を成立させるような社会の中で「近代化」されて、或る機能を果しているところに問題がある。私小説の基盤としてこのようなものがあり、それが現在の「進歩的」な文学運動にも全く無くなってしまわない点を注意せねばならない。もちろんこのような狭い文壇文学の中でもある高さや進歩はあるが、それは専ら形式的洗練とか、主観的「心境」の練磨とかいう風に、俳句や短歌などと同じ方向に進んだものである。この枠をこえて、より大きな視野へと努力する思想的な文学や社会的関心の強い文学は「素人」の文学として「純文学」からはねとばされてしまった。一方別の層では粗野な類型化をもった「分りやすい」大衆文学が、軽蔑されつつも雑草のように強くはびこる。(道家忠道「最近の日本文学研究について」)

3)
 文学における独立(自律)に関する問題提起
 以上、筆者なりの整理を挟みながら竹内の見解を紹介してきた。ここでは、本題に入る前提として竹内が提唱する国民文学の内容に触れてみたい。
 竹内によると、かれの「国民文学」という概念は、日本民族が民族として十分に自立してはいない(近代的な意味での民族自律が果たせないでいる)という認識が出発点にあるように思われる。このことは世界一の経済力を誇るところまで登りつめたこの国の現状と照らし合わせて考えるとき、優れて現在的な課題であるといえよう。数こそ大陸のようには多くはないが、明らかにこの国は内部に少数民族を抱えている。加えて、「経済難民」と呼ばれる他民族の大量移入は、年を追うごとに加速しており、いまやかつてこの国の歴史が経験したことのない規模で多民族国家にならざるを得ないという現実に突き当たっている。
 歴史的に存在する少教民族を含めて、他民族との平和的な共存が併立する国家的基盤が形成されて、はじめて21世紀的な「日本民族」というものが民族として自立しうるのではなかろうか、というのが筆者の考えだが、以下では、こうした前提に立って文学の独立(自立)という課題に対して、竹内がどう考えていたかについて検討してみる。
 竹内が「文学の独立」というとき、今日見られるような事態はかれの想像の外にあった。しかし、西欧的合理主義をすべての規範とする近代主義を否定し、アジアから学ぶことに真摯だった竹内は、この国に存在する少数民族を含めた「平和的共存」が可能な国民的意識の形成を指して「民族の自立」という用語を意識して使っていることは、これまでの紹介だけでも明らかだと思う。かれが「国民文学」というとき、そのような意味での国民に受容される文学を問題にしていた、とわたしは考えるのである。

――
文学における独立とは何か、という問題になるわけだが、それをあきらかにするためには、文学における植民地性、という反対概念を考えたらいい。日本の文学が植民地的であることを、私は認める。しかしそれは、占領によって急に植民地化したわけではなく、すでに早く、植民地化への抵抗を放棄したことによってはじまっているのである。だいたいの時期でいうと、「白樺」以降がそうであり、新感覚派以降、それが顕著になり、戦争中に十全の奴隷性を発揮したことによって、戦後に完全に植民地になったと考える。……私は個々の事象についていうのではない。作家なり批評家なりが、もし私小説的方法によらなければ、方法どころかイメージまで外国に借りなければならぬ一般状況をさしていうのである。つまり、創造性を失っているのである。文学における独立とは、この創造性の回復を戦いとることでなければならない。(「文学における独立とはなにか」)

 ここで竹内が「植民地化への抵抗」というとき、それは自国が植民地化されることに対する抵抗だけでなく、他国を自国が植民地化することに対する抵抗を意味している。反植民地化闘争の放棄が、自国をも植民地化するという竹内のこの指摘は、見事に三十年以上を経た今日を射抜いている。世界一の金持ち国とはいうものの、戦後日本が作り得た文化といえば、ソニーのオーディオ機器やトヨタの自動車に代表される商品群とインスタントラーメン以外には、何もないのである。方法どころかイメージまで外国、とくにアメリカから借りなければ商品としての文学も成り立たない現実は、最近の村上春樹の小説世界が雄弁に物語っている。
 経済面では一定の独自性(しかし非常に歪んだものでしかないが)を発揮しているように見えるこの国も、こと文化という意味では際限なくアメリカ文化に侵されている。巷に溢れるカタカナの氾濫はものの見事にそのことを象徴しているが、これに対して国民は、無抵抗・無防備のままにこの〈植民地化〉を受容させられている。これではマズイとは思いつつも、どこからも反撃の声は上がってこないし、成す術もなく手をこまぬいているのが実情である。気づいてみたらこうなっていた、という状況の真っただ中にいることを、わたしたちは深刻なものとして考えてみる必要があるのではなかろうか。
 明治維新が革命であったか否かについては、かねてから多くの議論があるが、植民地化の拒否ということを文化の自立という次元まで貫いたという意味では世界史に誇りうる事業だったとする説を、六月号の『月刊Asahi』で司馬遼太郎が説いている。
 司馬は、われわれの先人が幕末から明治のかけて短い時間に何万という造語を試み、そのようにして造り上げた日本語を成熟させるために維新後三十年の歳月を必要としたことを指摘する。その血の滲み出るような努力を単なる「猿真似」と呼んで片付けてよいものだろうか、というのが司馬の問題意識だが、大和言葉しかもたなかった古代にも、われわれの先人は当時もっとも進んだ文明を象徴する漢字を移入することによって、独自の文化を形成する基盤を作った経緯がある。近代西洋が作り上げた方法と概念を移入するに当たって、かつて先人が移入した漢字と漢字によって形成される概念を拡張させて「明治日本語」は創出されたのである。独自の文明を築くことを成し得ていないという意味では、猿真似に猿真似を重ねたといえなくもない。が、そのような試みを成し得なかった漢字圏の中国と朝鮮に、かつての借りを返すほどの意味を持つ重要な試みだったことに疑う余地はない。
 カタカナ語の氾濫に象徴される昨今の欧米文化の垂れ流しは、現代の知識人が幕末や明治の知識人はおろか、古代人ほどの気概さえ喪失していることの証左でなくて何であろうか。

4 権力と芸術および芸術家の関係について

 知識人の気概の喪失という問題は、芸術家である文学者の気概の喪失として、自分に引き寄せて考えることをわれわれに迫る。そこで、ここでは竹内の芸術(家)観に触れてみる。
 竹内の芸術(家)観はきわめてラジカルである。竹内は、芸術家はつねに革新的であらねばならず、「革新という全的な否定行為に出る」ために芸術家は「失うものを何ももたぬもの=本質においては革命家」でなけらばならないという。次に紹介する叙述はその典型である。ここでかれの念頭にある「芸術家像」が、かれが尊敬してやまない魯迅であることは疑う余地がない。

――
芸術家は、自己をふくめての一切がかれに〔とって〕不満であるときに、芸術家となる。芸術家は全体に関するもので、部分に関するものではない。観念的なコトバなり、何かよりかかるものがあれば、芸術家になれない。〔なぜなら〕かれは失うべきものをもっているから。(「文学革命とエネルギイ」)

 そういう芸術家が現れない理由を竹内は、「なぜ日本の文学には革新がないか。これは、イデオロギイ的にはいろいろ説明がつくだろうが、私は、伝統が弱いからだと思う。しかし、伝統が弱いということは、一方からいえば、伝統が意織されぬくらい深くしみついているという、伝統の構造的な強さを意味している」からであるいう。ここで竹内がいう「伝統の構造的な強さ」とは、ほかならぬ天皇制の存在であることは言を待たない。
 ここまでなら誰でもいうことであり、あえて紹介する必要がないことだが、竹内の特徴は権力と芸術の関係を次のように捉えていることであり、われわれが、今、考えなければならないポイントでもある。

――
権力との関係での芸術の不安の種は、ほぼ三つある。一つは大衆社会状況の成立である。もう一つはファシズムであり、最後の一つはコミュニズムである。この三者は、相互に関連して、補いあう部分と反発する部分とをもっているが、古典近代のイメージを内部から破壊するはたらきの点では一致しており、あらわれた時期もほとんど同時である。芸術の自由の主題は、今日では、この三者に対する態度決定にほとんどしぼられており、古典近代のイメージをそこでどう調和させるかが、それぞれの芸術のジャンル、流派、風潮、および芸術家の個性の選択事項になっている。(「権力と芸術」)

 筆者は、この論文の発表が一九五八年の四月であることに注目する。58年といえば共産主義者同盟が発足した年であるが、第一次羽田闘争は翌年のことであり、論文の執筆時点では、共産党が「唯一の前術党」としての神話を誇っていた時期である。この時期に、反共主義者ならいざ知らず、竹内のような人物がコミニュズムをファッシズムや大衆社会状況と並ぶ、芸術との関係では「対立関係にあるもの」として捉えていたことは、驚異に値する。
 「竹内好全集」第九巻に添えられた「月報11」で、さねとうけいしゅうは次のようなエピソードを紹介している。

――
一九五八年、中国は日本の文化人を大勢招待した。安倍能成が団長になり……中国研究家には倉石武四郎・竹内好があった。竹内だけは招待に応じなかった。なぜだろう? 招かれていったのでは、自由な発言ができないからではなかろうか? 安保反対運動のある集まりのとき、わたしはかれに、そういって、きいてみたことがある。かれは肯定もせず、否定もしなかった。

 さねとうの問いに対して、沈黙をもって応えざるを得なかった竹内の心境は複雑だったはずである。国交回復する以前の中国は、ごく限られた者だけが訪問を許されるという時代であり、スターリンの鎖国政策が「鉄のカーテン」と呼ばれていたのをもじって、中国の鎖国政策は「竹のカーテン」と呼ばれた時代のことである。中国に関しては誰よりも愛着を持っていただろう竹内にとって、招待されながらそれを断るということは、迷いに迷った末の決断だっただろうし、並外れた勇気が要ることでもあったに違いない。
 筆者は、このエピソードに、魯迅から最良の近代知識人の在り方を学び取った竹内を、見る。
 周知のように、魯迅は、中国の近代化を計るためには、西欧の中世以前の状態にある中国にあっては魂の革命が必要であると考え、文学を通じてそれを実現しようとした人物である。積年にわたる特殊中国的な迷蒙は深く、絶望的であったことから、そこから脱却する道を西欧の近代化に求めた魯迅は、ある意味では近代主義者としての側面を色濃くもっている。漢字を愚民政策を象徴するものとしてとらえ、表音文字に代えることなしに中国の民衆は解放されないとする魯迅は、漢字と漢字が生みだした文化そのものを否定しかねない主張を展開したことなどが、それである。しかし、魯迅は、単純な近代主義者ではなかった。優れた国際主義者がそうであるように、かれは優れた民族主義者でもあった。若い文学志望者に向けて、古典などは続むなという一方で、自らは、古典の中から生きた民衆のたくましさを、渾身の力を振り絞って掬い上げようとした人だった。魯迅が「阿Q正伝」一作で国民作家としての地歩を築けた根拠と、その地位が今日に至るもゆるぎない根拠は、ここにある。

 国民文学論争は、立場の違いを超えた多くの文学者が参加した論争だった。竹内の提起に伊藤整が応じる形でスタートした論争に、当時所感派に属していた野間宏が『人民文学』誌上から反論を加え、国際派が占拠していた『新日本文学』からは蔵原惟人や菊池章一が反論をしたほかに、臼井吉見や福田恒存までの名の知れた文学者のほとんどが、この論争に参加している。新日文についても、野間宏、小田切秀雄、菊池章一、猪野謙二などの現会員が論争に参加している。そのことを考えるなら、かれらの主張も紹介しながら内容を検証するのが本来のあり方であるに違いない。そのことを承知のうえで、筆者は竹内のみに依拠して論を進めてきた。この節のテーマにからむことでもあるので、その理由を以下で簡単に述べることにする。
 野間の批判に対して、竹内は「いちばん充実していて、掘下げが深い」ことを認めている。菊池の批判にも「よく調べていて相当の力作である」と評価している。その一方で、竹内は、次のような事情を指摘する。

――
国民文学が提唱されたのは、前に述べたように、文学の一般的危機の認識の上に立って、それを救う(したがって人間の自由を救う)ためであったが、同時に、民族的危機(政治的危機)からの脱出の願望がそれに重なっていたのである。そのために国民文学論は勢いをえたが、一方ではそのために議論が複雑になった。それが野間対竹内の論争にも尾を引いているし、野間、竹内を一括した菊地氏の批評にも尾を引いている。……この二つの雑誌(「人民文学」と「新日本文学」)は、日本共産党の中の二つの流れに対応する形になっていた。その傾向は、俗な言い方をすれば、「人民文学」がヨリ政治主義的、「新日本文学」がヨリ文学主義的であった。その当然の帰結として、国民文学というかけ声にとびついたのは「人民文学」の方であった。……「新日本文学」の方は、政治をそのままナマの形で文学論にもちこむのは誤りだと考えていたので、……「人民文学」への対抗意識ないし反感から、ますます「国民文学」を敬遠するようになったのである。(「文学における独立とはなにか」)

 竹内が指摘するように、当時の党員文学者の発想は、一人の表現者である以前に「彼が属する綱領的立場」を優先するというものだった。そのことは、議論を複雑なものにしただけでなく、尻切れトンボなものにしてしまう結果にもつながっている。竹内の次のような指摘は、そのことを何よりも雄弁に物語っている。

――
この叙述〔野間が綱領を引用して叙述した部分〕はあきらかに、日本共産党の綱領の知織で書かれている。文学の自律性についての、確信に満ちた、ひびきの高いコトバとくらべると、まったく別人のようである。文学者としての野間氏は、このような没個性の文章が書ける人ではないが、それがこのような文章を書き、その矛盾を自覚していないことに、私は党員芸術家の悲劇を見る。……私は綱領を引用して悪いというのではない。文学的に処理されていないのがいけないのである。(「文学の自律性など」)

 当時の論争と無縁な筆者のような立場から見るかぎり、真に自立した表現者としては、竹内好の存在しか見えてこないのである。ここで問題なのは、非党員文学者は竹内のみでなかったにもかかわらず、竹内がかくも見事に自立することができたのは、なぜ可能だったのかということである。
 筆者は、先に「竹内が魯迅から最良の知織人のあり方を学んだ」と書いた。医者として人間を個別に治療することによっては、絶望的なほどに迷蒙な民族を解放することはできないと自覚した魯迅は、何よりも精神における解放が果たされなければならないと考え、魂の医者であることを選んだ。この覚醒の過程における苦悩の深さは、かれの生涯を厳しく規定している。優れた詩人であり、小説家であった魯迅であるが、生涯に書き残した作品と呼べるものは二十巻の全集(学習研究社版)のうちでわずか三巻、七分の一程度にすぎず、しかもそれらの多くは初期の段階で書かれたものであり、その精力の大半は、かれ自身が雑文と呼んだ短評を書くことに費やされている。この事実は、魯迅が自らの表現を、絶えず〈現実〉に置いていたことを物語っている。この節の冒頭で、筆者は竹内の芸術(家)観を紹介して、それを竹内が魯迅から学んだことを指摘した。野間のような優れた文学者ですら、党員であることの制約から逃れられないことを、竹内は魯迅を学ぶことによってつかんでいたのである。
 55年代の日共以上に、30年代の中共は「唯一の前衛」であった。そういう時代にあって、魂の解放という大事業を果たすためには、党がもつ物神性から自由であるという条件が、魯迅にとっては欠かせないものだったのである。魯迅と同様に、外野から見るかぎり秘密党員としてしか映らないところまで日共に近づきながら、竹内は、肝心なところでは断固として譲ることなく、明確な一線を画すことをやめなかった。この自律の精神こそ、いま、われわれが学ばなければならないことなのである。
 愛択革が、「文学運動のペレストロイカ、その民衆性」と題して五百号で提起した問題提起は、11回大会以降、「前衛党」との関係で緊張感を喪失した新日本文学会が、衰退の一途をたどり低迷を続けていることに対する、問題の核心に迫るこれまでにはなかった提起なのである。

 三十年以上も前に、竹内が「伸び悩み」を指摘した新日文は、現在、より深刻な状況にある。伸び悩みなどという奇麗事では済まされないほど深刻である、といっていい。新日文だけが危機であるなら、さして驚くに値しない。が、その危機は、この国が置かれている状況を受動的に反映したものであることから、危機の深さは、魯迅が抱えていたものと比べてより深くはあれ浅くはない、と筆者は考えている。特効薬などを期待できないからには、竹内流に表現すれば「手で掘るように」してでも、この現状を突破しなければならないのだ。
 現在の「新日文」がマイナーであることに疑う余地はない。問題は、マイナーであること自体ではなく、マイナーであることに安住する傾向が問題なのである。あえて挑発的な言い方をすれば、三十年以上も前に竹内に指摘されたギルド的存在から、現在に至るも新日本文学会が抜け出ていないことに問題があるのである。
 まずは、次の指摘を読んでいただきたい。

――
私は、読者の数が芸術的価値をはかる規準だといっているのではない。短い時間をとれば、この両者は一致しないのが普通である。先駆的な芸術は、その先駆性のゆえに当代に認められないが、そのことは芸術家の光栄であって、卑俗な芸術家よりかれが劣っていることにはならない。一時的な人気は作品の価値を左右しない。流行は人為的に作り出されることが非常に多いから。ただ、この逆は成立しないので、読者が少ないから作品の価値が高いということには絶対にならない。よくフランスの例などを引いて、すぐれた作家は大衆の低い理解力を問題にしないということで純文学を弁護する批評家がいるが、この類比はまちがっている。純粋の創作衝動というものは、つねに現状の否定から出発するから、そこには孤立意識がつきまとっている。現状との妥協において読者に媚びることは芸術家としての自殺行為である。だがそれは、読者を変革することによって多数を獲得しうるという期待を含むものであって、いわばその少数者は可能的多数者としての少数者であるから、日本の場合とちがう。日本の純文学の場合には、現状を変革するという期待を含まぬ、自足圏内でなれあっている少数者にすぎない。おなじように見える孤立の意識でも、まったく反対だ。むしろ日本の場合は、孤立の意識とはいえないもので、多数に媚びることができないから少数に媚びている程度のものだ。したがって、日本の純文学は、一般的にいえば通俗史文学よりも通俗的である。
 問題を吉川英治に戻していえば、かれの作品がよくよまれるのは、その芸術性においてよまれるので、芸術性と離れた大衆性においてよまれるのではない。多数の読者に媚びるのが通俗作品で、少赦の読者に媚びるのが芸術作品であるという区別は、文壇ギルド内部でしか通用しない価値判断である。
――
民主主義文学と自称する陣営にいる批評家は、吉川を反動ときめていて、それと戦わねばならぬことを口癖にしている。しかし、だれが、いかにして戦うのか。戦うためには敵を知らなければならぬが、かれらは吉川を研究しているだろうか。太宰治はデカダンであり、吉川は反動であるという風に、かれらはレッテルをはることは知っているが、どうも研究しているようには見えない。日本でいちばん続まれる吉川英治を捨てておいて、自分たちの仲間だけでいちゃついているやり方を見ていると、かれらは本気でファシズムと戦う気がないのではないかと疑いたくなる。
――
日本では、批評は文壇というギルド社会に従属している。文壇は純文学という手工業製品を自家消費のために単純再生産している。批評家はその職人に寄食して職人的な勘で、仲間同志のコトバでいいあっている。こういう自足的な、閉ざされた社会の内部にいるかぎり、外とのつながりは出てこない。純文学という商品の特徴は、それが自家消費のための生産であること、生産者が同時に消費者である点にある。その純文学に寄食するのだから、批評にも独立性があるわけはない。
――
ギルドの内部にいる批評家は、その寄食性のために、大衆のもつ芸術的感覚というものが正しく見えない。そこで、芸術性と大衆性を別のものとして表象するようになる。芸術的にすぐれていることと、よくよまれることとは、本来的に一致しないと独断している。芸術性をもつ純文学と大衆性をもつ大衆文学という観念上の区別は、このような分裂した意識の自己表現である。(いずれも「吉川英治論」から)

 長い引用を重ねたが、正直のところ紙副が許すなら全文を引用したいというのが筆者の実感である。それほど竹内の指摘は、鋭く現在の新日本文学会の弱点を指摘していると思うからである。このことを逆にいうと、この三十七年の間、新日本文学会は、ここで指摘された問題点に取り組んでこなかったことを意味している。もっとも、まったく取り組んでこなかったというと、事実に反する。確かに、7712月号の『新日本文学』は「なにが大衆の文学が」と題する特集を組んでいる。季刊になってからも、89年春号でいわゆる「大衆文学」が批評の対象になったことは事実である。
 筆者が問題にしたいのは、大衆文学を十年間に一度しか取り上げてこなかったことではない。前者に色濃く表れており、その色彩が薄れているとはいえ、後者にも見え隠れする「国民的規模で読まれている文学」に対する軽視の思想である。かつて吉川を反動と決め付け、レッテルを張ることによって「敵を知ること」を怠った過ちが、深刻なものとしてとらえられてはいないのだ。あらかじめ批判することが前提にあり、敵からも学ぼうという姿勢がないのである。「ない」と断定することに対して「いやそうではない」という声が聞こえてきそうである。
 7712号の編集後記は、次のように特集を企画した意図を述べている。

――
文学に〈純〉も〈大衆〉もない、文学それ自体であるはずのものだ。という説は、ひるがえせば、いわゆる〈純文学〉と〈大衆文学〉が、ひとつの差別として存在していた証拠であって、これは日本の近代文化形成の事情に発する。……〔よく売れている小説には〕小説の持つべき原初の力が、そこに生きているのではないか。それをどのように回復し、そうしてこの商品社会を突き抜けてゆくべきかという展望を求めて、まずはその雑然たるエネルギーへの注目として、この特集を組んだ。

 この編集後記の誤りは、純文学と大衆文学という「差別」の発生の原因を、日本の近代文化形成一般の問題にずらしていることにある。事実は、これまでの叙述で明らかなように、ギルド的な性格を持った「文壇(ないし新日本文学会を含む文壇的なもの)」が、文学というものを一種至高な存在に崇めたてることのなかから生み出された「差別」であり、近代文化の形成期一般に解消すべき性格のものではないのである。

 [通俗文学・大衆文学に対して]多く売れることを期待せず、純粋に芸術的な意図の下に作られる文芸作品。
 これは、新明解国語辞典の「純文学」の項にある記述である。手元にある他の辞書にはこのようにあからさまな記述はないだけに、純文学なるものの本質を見事に突いている。志を持たない文学が感動をもたらすことは、ないといってもよかろう。しかし、竹内が指摘するように、逆は必ずしも真にはならないのだ。「売れないこと」と「文壇に所属するか否か」をモノサシにして「志の有無」を計り、売れるもの=大衆に迎合するものとして切り捨ててきた結果が、「純文学」などというおかしなものを生み出してきたのである。このことについての反省がないから、「雑然たるエネルギーに注目」するにとどまり、そのエネルギーが秘めている「原初の力=芸術的力」を究明するところまで発想が届かないのである。そのことは、この特集が「雑然たるエネルギーに注目」し、いろいろな書き手を扱いながら、いわゆる「純文学」の側から見てもっとも不可解な、それゆえに魅力的な深沢七郎にページを割くことができなかったこととも密接に関連している。
 司馬遼太郎論にしても同じことがいえる。まずは、8ポ三段組みとはいえ、筆者自身が「国民文学」と表現せざるを得ないほどに国民的規模で続まれている司馬を、わずか二ページで批評すること自体が不遜なのだ。司馬を二ページで検証するなど、吉川を二ページで検証する以上に困難である。原稿を依頼するほうにも、依頼されたからといって書くほうにも、敵を知りつくすという姿勢が欠けらもないのである。だから、加藤周一や菊地昌典などの司馬の史観に対する異議申し立てを支持し、ぜいぜいのところ「問題は司馬史観そのものよりも、司馬文学を読むわれわれのなかの史観の空白を考えなおしてみることに集約されなければならないようである。」という程度のおそまつなことしかいえないだ。では、89年春号はどうか。十年前に比べれば、編集者にも執筆者にも、いわゆる「大衆文学」と呼ばれるものに対する偏見はない。そういうものから何かを学ぼうという姿勢が感じられることもたしかだ。しかし、それは不発に終わっており、その限りではまだ完全に乳離れしているとはいえない。

                      1989.10

 

突破力




 かつては郊外の里山だったものを造成した分譲地はまだ空き地が目立つ。このところの東京周辺の宅地造成は驚くものがある。「戦争」が始まるまではこういう光景を見ることもなかったし、関心もなかった。それが、このところ必要に迫られて頻繁にお目にかかるようになった。こういう光景を見るにつけ、思い出されるのは敗戦でソウルから引き揚げて移り住んだ母親の郷里ののどかな山村の風景である。山があり、したがって川があり、こどもにとっては遊ぶ場所にこと欠かない自由な世界だった。ここにだってかつてはそういう世界があったにちがいない。
 あらためて周囲を見回す。周辺の取り付け道路は整備が終わり、一部見晴らしがきかないところもあるが、高いところに陣取れば周囲はほぼ360度見渡すことができる。いい場所を選んでいる、と男は思った。ドライバーは視野が広い大口径の双眼鏡で下の道路を見渡している。
 4月の暖かさを増した陽光が差し込み、汗ばむほど車内は温かい。

 こどもたちはみな裸。すっぽんぽんである。上流ゆえに両岸は切り立った崖になっており、川は眼下を蛇行している。ところどころに小さな砂州があり、こどもたちはそこに服を脱ぎ捨てて水遊びをしている。橋の上からなんということもなしにそうした光景を眺めていた視野に、つるんとした白い尻が飛び込んできた。その尻がポカッと浮き出た瞬間にのっぺりした裂け目が見えた。もぐりそこなって、尻だけが水面に浮かび上がったのである。いらい、ほんの一瞬だけかいま見たその裂け目は、男の潜在意識のかなり深いところに定着することになった。いまの妻との結婚にしても、その深淵を探ってみたいという動機がなければしていなかったかもしれない。だから、気を許して寝物語でその「白い尻」のことを問わず語りに話してしまった。あれは失敗だった。男としては、話すべきでことでなかった、と男は思う。
 同級生である妻は、卒業後に私立の女子校に就職した。70年代に入り内ゲバが激化すると、公安が学校に干渉を始め、周囲の妻を見る目が極端によそよそしいものになり、居づらくなった。理事長に離職を促されたときには、すでに保護者のあいだで問題になっており、自分の力ではなんともしようがないと校長がいうまでになっていた。同僚で彼女をかばうものはひとりもいなかった。妻は自分で小さな商社の事務員の仕事を探してきたが、こちらのほうは1年ともたずに辞めざるをえなかった。男は、組織に所属する弁護士を通して、弁護士事務所の事務員として働く場を用意した。

 敵対する党首を暗殺した日からあと、それでなくとも会う機会が限られていた逢瀬にさらなる制約が加わることになった。何カ月ぶりに会ったときに、男ははじめて妻のほうから迫られた。それまでは、そういうことをしなかった妻が、自分のほうから求め、あられもないほどの大声を上げ、腰を激しく使った。思い切り放出した。気だるい充足感とえもいわれぬ解放感があった。男は、深層で追い求めてきたあの白い尻の裂け目の深淵が、そこにあったことをこのときにはじめて知った。つぎの逢瀬でも妻は同じように激しく求めてきた。が、男は必死の思いでこらえ、かろうじて放出寸前に陰茎を抜いた。怒張した陽物は湯気を立てていた。直前でいきなり抜かれてしまった妻の深淵からも湯気が立っていた。物憂げなかすれ声で「心配しなくてもいいのよ。」と妻が声をかけてきた。男の抜茎を排卵日を恐れてのことだと誤解してのものいいである。目の前にいる女と結婚したことを、男は悔いた。師が実践しているように、有能な秘書をじっくり時間をかけて探せばよかったのだ。同じとはいわないまでも、男がやろうとしていることを理解するだけの能力の持主を待てばよかったのだ。そうしなかった結果がこのていたらくであり、すべてはあの「白い尻とほの見えた裂け目」がしからしめていることを呪詛した。
 前の逢瀬でことが済んだあとのことだった。「みんな志なかばで死んでしまうのね。」という妻が思わずつぶやいたことばが強力な制動力として働いていた。後ろめたさでもある。この間に死んでいった仲間を妻は知らない。妻がいう「みんな」とは、彼女が知っているごく限られた古い仲間である。しかし、この間に死んだのは20代前半の若い学生だった。いずれもあの割れ目の深淵を知ることなしに逝ってしまった。妻がいうとおり「将来社会の萌芽形態」をみることなしに、そういう意味では「志なかば」で。

 「きたようです。」運転席からの声で男はわれに返った。柄にもなく感傷的になっている自分がおかしかった。がらにもなくみょうな気分になっている己を振り切った。
 南北に通っている新しい道路の上手から姿を見せたグレーのライトバンが目に入った。車はゆっくりと下りてきて、眼下を通り過ぎ、しばらく進んだところで止まり、助手席からひとりの男が下りてきて左手をかざして造成地をながめている。「まちがいありません。」ふだんは融通が利かない男だと思うが、こういうときは頼もしく思える。左手をかざしたときは尾行は見当たらないというシグナル。右手をかざしたときは要注意のシグナルであると事前に決められている。その間、車はスイッチバックを始め、男が乗り込むのを待ってもときた道を引き返し、男がいる位置から見ると30度ほど前で止まった。すべて指示どおりに動いているのを確認し、双眼鏡を納めながら
「ではいきましょう。」
 車はゆっくりと坂道を下り、ライトバンを追い越したところで停止した。
 助手席から先ほど手をかざして眺めていた男が下りてくる。黒っぽいサラリーマン風の服にネクタイを締めている。上着の左胸のあたりをしきりに気にしながら前後を確認し、ドア越しに運転席に目顔で合図を送る。運転席のドアが開き、ドライバーが出てくる。その男が近づいてくるのを確認し、こちらのドライバーも外に出る。近づいてきた男は内ポケットから紙片を取り出しドライバーに手渡す。ドアを開け、戻ってきたドライバーはトランスミッションの上にある備え付けの灰皿のふたを開け、ライターで火を付ける。紙片がすぐに燃え上がり、灰になった。それを確認したドライバーがいう。
「移ってください。」
 その声を待って男はドアを開け、外に出た。
 ふたりの男が近づいてきて、両側から挟むようにうしろで待つ車にいざなう。ひとりが先に後部座先に乗り、男はそれにつづく。内懐から伸縮式の警棒を取り出し、床に置く。もうひとりの男が周囲を見回してから男の隣に割り込むように入ってきた。ドアを閉めロックし、同じように警棒を内懐から取り出して床に置いた。
「いきます。」
 車はゆっくりと発進した。




 6月にジャカルタで開かれた国際学連(IUS)執行委のおりとは状況が大きく変わっていた。前年の61年8月にはソ連が核実験を再開。4月に入ってアメリカが実験を再開し、このままいけばイギリスとフランスも追随し、世界中が核実験競争の渦に巻き込まれる様相を見せていた。そうしたなかで8月にレニングラードでIUSの第七回大会が予定されていた。
 革共同政治局はこの大会に向けて3つのことを決めた。ひとつは同じ時期に開催が予定されている東京の原水禁世界大会に対し全学連が米ソ両国の核事件に抗議する大衆行動を展開すること。これに呼応してモスクワの赤い広場でも示威行動をおこなうこと。レニングラードの大会ではソ連核実験擁護の執行委案を批判すること、である。
 難題は赤い広場でおこなう示威行動の中身だった。類例がないことだっただけにことは慎重を期す必要があり、計画が綿密に練られた。政治局からは鈴木が英語に堪能であることから選ばれた。全学連を代表して根本と高木がゆくことに決まったが、高木は別に行動することになった。IUS書記局に常駐している石井と連携して後方支援をするためである。念のためにということでロシア語を話せる学生が物色され、Kが追加された。デモをするのは3人。高木は石井とともに拘束されるであろう3人の救済に当たることに決まった。

 モスクワに着いた鈴木はホテルで外国人記者を捜した。デモといったところで赤旗に「全学連」と白布を縫いつけただけのものを持って歩くだけのことである。ほかの国なら取り締まりの対象にはならないだろうが、この国ではそうはならない。すぐさま、KGBが駆けつけてきて拘引されること必至であり、何歩歩けるかが勝負になることが予測された。それだけに、カギは、その様子を写真に撮らせて世界中に配信させることにあった。赤地に白なら、白黒写真でもハッキリと写る。漢字の「全学連」の意味がわからなくてもいい。そういう示威行動がモスクワの赤の広場でおこなわれたことを世界中が知ることが大事なのだ。事前の打ち合わせでは日本の通信社を候補に挙げたものもいた。が、本多は言下に「それはダメだ。」と切り捨てた。日本の通信社では発信力がない。APやロイターでないことには受け取るほうに相手にされないという。そう本多に主張されると異論を挟むものはいなかった。
 ロビーには所在なげに雑談しているそれらしい人間がいる。Kがいかにもヤンキーらしい陽気な人間と話を交わしている。親指と人差し指で輪をつくり、「脈あり」のサインを送っている。ふたりのところに近づくと、Kが「APの記者だそうです。」といった。ここで話すのはまずい。どこにKGBが聞き耳を立てているかわからない。握手を交わし、「ゼンガクレン」の代表としてきていることをいってから、「夏のモスクワは美しいとは聞いていたがきょうはまさにそういう天気だ。ついては時間があれば少し外の空気を吸ってみないか。」といってみた。それだけで察してもらえるとは思わなかったが、相手の男ほうは乗ってくれた。「ゼンガクレン」がきいたことはしきりに「ゼンガクレン」を繰り返すことでわかった。アメリカ人にしてみれば、この極東の敗戦国を騒がせている「ゼンガクレン」とはそもなにものなのか興味津々なのだ。
 歩きなら単刀直入に用件を話した。男はしきりに「ひじょうにおもしろい(very interesting)」を連発し、ぜひとも乗るという。細部の打ち合わせは彼らの部屋でおこなった。カメラマンには写真を撮ったらすぐに現場を離れてほしいと念を押した。配信するさいにはビラをまいたことにしてほしいこと伝え、案文を渡した。話は筆談でおこなった。その雰囲気に彼らも飲み込まれようで秘密を共有する共犯者の気分になった。打ち合わせは短時間で済んだ。

 予想したとおり、旗を広げ、ものの数歩も歩き出したところで制服が駆け寄ってきた。鈴木は目でカメラマンの姿を追った。フラッシュがたかれ、指で丸をつくりながらカメラを持った男の後ずさりしていく姿が目に入った。「勝った!」と思った。
 へたをすると十年、ひょっとすると二十年は拘留されることを覚悟しての行動だった。が、結果は意外なものだった。1週間の拘留ののち、「わが社会主義共和国連邦」の「平和を求める気高い理念」の名をもって3人とも釈放された。レニングラードに送られ、そこで待つ高木と石井に合流した。大会では、執行委員会のソ連核実験擁護提案に抗議し、凱旋帰国した。事前の計画は予想した以上の幸運に恵まれ、写真は全世界に配信された。




 60年闘争のカギとなる国会突入を前にしてのことである。ブントの労対責任者として黒田に電話した。動労青年部の部隊を登場させてもらえまいかと依頼するのが用件だった。結果は拒否された。が、電話で筆名を名のった鈴木に対して「森だけではわからんよ、マルクス主義芸術理論家森茂と名のりなさいよ。」と黒田にいわれた。ひとをくすぐらせるものいいである。このひとことで鈴木は黒田の掌に落ちた。モスクワから帰国すると、いっときの凱旋気分は党内のもめごとで吹き飛んだ。わけがわからいうちに議長派と書記長派に分裂し、組織は割れた。弟がそれにからんでいることは明らかだった。が、鈴木は黒田をとった。ブントからは数多くの活動家が革共同に合流したが、黒田に従ったのは鈴木をのぞけば根本ひとりだった。年功と知名度から書記長の椅子を与えられ、結党宣言を議長にかわって書いた。が、その椅子は荷が重かった。生来が書斎肌の鈴木は動く政治は得手でない。つまるところ、半分自分から身を引く形でその椅子を譲ることになった。それでも理論家として得手な分野で動けたうちは居場所があった。しかし、それができたのも68年まで。運動の激化にともない自前の印刷所をつくってからは、そこにしか居場所がなくなった。

 いままでの革マルにはいなかったタイプの活動家が出てきた。これが、男をめぐる一致した評価だった。とくに黒田の期待は大きいものだった。黒田が説く理論をなぞる「理論家」はいたが、彼が不得手とする経済学について進んで挑戦するものはいなかった。男は最高指導部のメンバーのひとりひとりの性格や得手不得手などをじっくり観察していた。そして、だれもが名のりでないのを見て、後退戦の先頭に立つことを買って出た。黒田が定めた党是に忠実に、他党派からは敵前逃亡と罵られ、下部から指弾されることにも怯まなかった。その突破力は党首の信頼をかちえるに十分なものだった。抜擢に次ぐ抜擢がおこなわれ、数年で先人を追い越し、実質的な指導権を確保した。気づくと、ことば遣いを含めた態度をもって鈴木の前で君臨していた。
 目の前では根本が踏み絵を突きつける。弟の情報を出せ、そうするのが「プロレタリア的人間の論理」のあるべき姿ではないかいう。この種の理屈をこねることが不得手なこの男にしては柄にもないことだった。膝詰めの談判はこれが二度目だった。その根本自身も踏み絵を迫られてのことである。つぎはないだろうことは、隣で腕組みをしながら黙って座っている男を見れば一目瞭然だった。鈴木がどう対応するかだけでなく、根本がどう振る舞うかも同時に監視しているのだ。
 振り返ってみると、革共同への合流が正しかったと確信できたのはあのあたりまでのことだったかもしれない、といまの鈴木は思う。こと芸術にかかわる理論については一家言があるという自負をくすぐられ、同様に理論家であると称する黒田とは波長が合うものだと錯覚したのがボタンの掛け違えだった。居場所はときの経過とともになくなっていた。気づけば上のほうで決められたことを活字にするだけの部署にいた。従業員として動員された学生を管理するだけの存在になっていた。かつては自分もそこにいた部署でなにが、どう議論されているのかわからないまま、ただひたすら活字を拾い、輪転機を回す作業に明け暮れる日々がつづいていた。
 少し考えさせてもらえまいかというのが精一杯の抵抗だった。しかし、それは抵抗といえるほどのものでないことはすぐに判明した。これまでの閲歴を考え、それに兄弟という事情を顧慮すれば、頭からは否定できないという手続の問題として42時間の猶予が形として与えられたものでしかなかった。いちど堕ちたからには世捨て人として生きるほかに術はない。問われるままに弟について知っていることをすべて話した。いちど話し始めると、いわなくてもいいことまで「自白」している自分に気づき、暗澹とした気分に陥った。救いはただひとつ。「心配は要りませんよ。必要なのは彼が持っている資料だけなんです。むろん、いきがかりから適当な教育的措置はしますけど。」という男の保証だけだった。
 男は約束を守った。
 本で読むイエズス会修道士はこういう男ではなかったのか、と鈴木は思った。だとすれば、勝負はやる前から決まったも同然然だった。「負けた。」と思った。
 弟が持っていた資料を奪ったことも、相手もやっていることであるからには非難されるいわれはない。しかし、男が書いた「軍報」の文体にはなじめない。というより、なんともいえないざらざらした違和感をおぼえた。その危惧はすぐに現実のものになった。〝ブクロ官僚一派への葬送の辞〟として書かれた論文がその危惧を裏付けた。「それを読む部外者を唖然たらしめるほど品が悪いものがある」と立花隆が指摘したものがそれだった。こういうお行儀が悪い文章を書かかせたら、男は天下一品であることを示した。




 なにをするのかについてはここにくる日までなにも教えてもらえなかった。前の日になってはじめて告げられた。そういうものだと疑問は感じなかった。
 二階にある事務所ではふたりの男が待っていた。キャップとおぼしい年かさの男が起ち上がり、「庶務課長の関口です。待っていました。」
 そういって握手を求められた。名を名のりながら握手を返すと、隣に立つ同年代の男が紹介された。
「きみと一緒に防衛を担当してもらうCくんです。」
 関口はくわしことはその男から聞くようにといったきり椅子に座り、机に向かってなにごともなかったかのように事務を執り始めた。それであいさつは終わりだった。入れ込んでいただけに拍子抜けした。その一方で、革命組織であるからには諸事につけこのように事務的であることが問われているのだとIは自分にいい聞かせた。
 校了には間があるためか工場で活字を拾っているひとの数はまばらだった。活字台にとりつき、活字を拾っている長身の男とCはなにやら話をしていた。話は簡単に済んだようでCは丁寧に頭を下げると戻ってきた。
「きりがいいところまで済ませるから休憩室で待っようにとのことです。」
 衝立で囲った休憩室で待つことになった。慣れているためかCはゆったりとソファに腰を落としている。が、慣れないIは緊張で落ち着かない。男が入ってきた。バネ仕掛けの人形のように直立不動の姿勢で起ち上がった。
「作業中だったもので待たせて済みませんね。区切りがいいところまでやっておかないと気持ちが悪いもんですからね。どうぞ楽にしてください。」
 Cが「工場長の鈴木さんです。」と男を紹介をし、ついで自分のことも簡単に紹介してくれた。男は被っていたタオルを無造作にとり、手をぬぐいながらもしっかりと相手を見て「鈴木です。」といった。反射的に差し出した右手を両手で包むように握られた。インキが爪のあいだにしみこんだその手は労働者の手をしていた。雲の上の存在として仰ぎ見ていたひとから面と向かって声をかけられ、吉本隆明に「若きマルクス主義理論家」として高く評価されたあの森茂に「一緒にがんばりましょう。」と両手で握手されたのである。党首がいう「プロレタリア的人間の論理」をこのひとは率先してやっている。そう思うとIは感激のあまり声がふるえた。

 ひと息つく暇もない緊張の毎日がつづいた。やることとおぼえなければならないことが多すぎた。着いたその日に見張りの不寝番をやらされた。息つく暇もなく、Cから数冊の地図帳を渡され、いくつかの課題を与えられた。行き先を示すコードの読み方と地図帳の使い方を頭にたたき込むことから始まり、S車と呼ばれる装甲を施した車の助手席に座り、ナビゲーターをやるという実地訓練もやらされた。OJTということばがいわれるようになった時期だった。ふつうの企業などでやられているとは思えないほど性急かつ激越な実務に就きながらの学習だった。
 Cはときおり激しく咳をした。顔色も悪い。まだ率直に尋ねられる関係にないので遠慮したが、どこかからだがよくないことは推察できた。ほかに代わるものがいないことから、気力で乗り切っているらしいことが伝わってきた。そう思って振り返ると、工場長を待つあいだもしきりに咳をしていたことを思い出す。工場長が吐いた「あなたを頼りにしていますからね。」ということばも気になった。単なるリップサービス以上の意味があってのことではないかと思った。とまれ、一日でも早くCに替わって車両班の責任をもてるようになることが自分に課せられた任務なのだと考えた。そう考えると、Cが必要と思われる以上に「教育」を急いでいることの意味も見えてきた。

 時間に追われる日々がひと月ほどつづいた。工場内の人間関係もうっすらとではあったが透けて見えるようになってきた。そういうある日、S車の点検を告げられた。理由は告げられなかったが、雰囲気から推してかなり重要なことであることが推察できた。段取りの打ち合わせを始めようとしたところでCが呼ばれた。できるところから先に始めていることを名のり出た。
 工場長は「わかりました。」といい、工場の隅にある倉庫に向かった。「火気厳禁」とある扉が開くと、印刷工場特有の揮発油の臭いが鼻をついた。
「これでいいと思います。」といって使いかけの溶剤を渡してくれた。
「揮発性が強いからくれぐれも火には気をつけてください。密閉したところで長いあいだ使うことはしないこと。それから気持ちが悪くなったら作業はやめてください。これは必ず守ってください。ウエスは棚にあるものを適当に使っていいです。」

 ガラスはすべて割れにくい風防ガラス、内側は視野を確保するために金網だが後部座席は鉄板で補強されている。要は運転者の視野を確保することなのだ。しかし、風防ガラスは傷つきやすいようで細かな傷に埃や油が付着していた。Cがいった点検とはこの汚れを取り除くことだと得心した。渡された溶剤を使って拭きにかかった。まっさらなウエスがすぐに油とほこりまみれになった。5つあるドアを全部開けておいても10分もすると気分が悪くなった。できる範囲で先にやっていますといったときにCが示した表情の意味が飲み込めた。あれだけ咳き込んでいるのだ。この作業はできることなら避けたかったにちがいないと思った。
 頃合いを見計らったわけではないだろうが、車の掃除が一段落しところでCが現れた。運転席に座り、ハンドルを手にして視野を確認する。
「いいと思います。」
「これはどうしますか。」
 使い終えたボロ布と溶剤を入れた段ボール箱を抱えてみせる。
「そうねえ。また使うかもしれないから荷台におくことにしましょうか。」




 車庫を出てものの5分もしなうちに大型トラックが現れ、先を塞ぐようにして止まった。
「きたか。」と思った。車を後退させようとしたところを間髪入れずうしろからトラックに退路をふさがれた。それでもCは脱出を試みようと車を前進させた。大型トラックをかわそうと急ハンドルを切ったものの縁石に乗り上げ脱輪した。後方から7、8人の男たちが得物を手に襲いかかってきた。Cはハンドルに覆い被さるようにしがみつきながら警報を鳴らしつづけている。
 男は時計を見た。9時10分を少し過ぎたところを針は指していた。周囲を見回すとまだ灯りがついている。すべてが想定の範囲内のことである。勝負はこの10分か15分、長くても20分を超えることはあるまいと確信した。
 運転席の窓にツルハシを打ち込まれ、たまらなくなったCが後部座席に待避してくる。時計を見る。5分は警笛を鳴らしつづけていたことになる。よく頑張った。助手席ではIが姿勢を低くしながら懸命に耐えている。いずれにしても耐えなければならないのはあと10分だ。それまで待てば敵は退散するはずである。条件を考えれば襲った側もそれ以上の時間はかけられない。
 後部に回った部隊の窓を打ち壊す音が響き、車が激しく揺すられた。壊せないと見てやけになって横転させようとしているものだと男は判断した。ここまでもったからには勝ったも同然だと思った。ツルハシが打ち込まれ、穴が穿たれた。激しい打撃を受けて鉄板を止めていた螺旋が緩み、風防ガラスとのあいだに隙ができたためだろうとみた。あとで対策を考えなければならないことだ。車の外では指揮官とおぼしい男の声がなにやら叫んでいる。と、穴から筒状のものが差し込まれ、床に落ちた。激しい煙と同時に花火のような火が噴きだした。2本目は差し込まれたまま猛烈な火を噴射し、天井に張られた化学繊維に引火した。と同時に荷台から火が吹き上がった。
 天井の張り物に火がついたまではわかる。が、荷台から上がった炎は?
 どうしてそうなったのか。その理由だけはわからなかった。
 熱さを感じる前に呼吸が苦しくなり、意識が薄れていくのをおぼえた。その瞬間、男は謀略だと思った。それにしてもなぜ? と不審に思いながら足元に視線を移した。両側からふたりの人間に覆い被さるような格好で庇護されている男の視線の先を、炎をともなった液体が這っていく。むき出しの床に螺旋止めした鉄板の隙間にその液体は吸い込まれるように流れ込み、あとを追って炎が落ち込んだ。
 男は死を意識した。多くのことが頭をよぎった。

 敵党首の暗殺は議長の至上命令として打ち出された。協議は紛糾した。積極的に反対を唱えるものこそいなかったが、予想される反撃を測りかね意見を集約するのに時間がかかった。相手の内情について熟知しているわけでない。そうであるのに、このたぐいの議論は無意味である。至上命題として命じながら党首は例によって会議に顔を出さない。議長不在の会議である。勢い、議論を主導する責任は男の肩にかかった。最終的な断を下す議長が不在のまま、議論はいたずらに時間を費やすことになった。最終的には党首に直筆の書簡を書いてもらい、その権威を借りて全員の意思を集約させた。綿密に検討した策戦は敵の弱みを突いたものであり、図に当たった。敵は首謀者の名を挙げて報復を宣言した。指名された3人のガードを固めるための作業に追われることになった。主要メンバーのガードを固めた分だけ被害は周縁に拡大した。それ相応の犠牲は想定の範囲内のことだったが、数の拡大は組織の動きを痩せさせた。中途半端な停戦工作も頓挫した。負のスパイラルに陥ったことを知らされた。乾坤一擲といえるなにかの策を講じる必要に迫られた。こういうときこそ攻めに転じないことには組織はもたない。そう判断して反撃に転じなければと考え、もうひとりの敵将の謀殺を指示した。その策戦が動き始めたときに、水本潔が水死したいう報知が届いた。
 1月6日ひとつの水死体が江戸川に浮かんだ。所轄の市川署は警察医立会のもとに死体の腐敗の状態から推して死後1週間から10日と判断した。同署では指紋を採取しようとしたが長時間水に浸かっていたための指がふやけており、採取用インクがのらず採取できなかった。外傷などが見当たらないことから覚悟の入水自殺と判断し火葬場へ運ばれた。翌日、市川署の鑑識課係員が火葬場へ出向き、シリコンラバーを使って指紋を採取したあと死体を火葬した。指紋照合により水死体が水本であることがわかり、家族に連絡したのは発見から10日後のことだった。すでに火葬に付していることから鑑識主任は遺留品を示すとともに遺体の写真を見せたところ変わり果てた息子の写真をを見せられた母親は「これは潔じゃない。」と叫んだという。
 動顛した母親が変わり果てた息子の写真を見せられ、現実を直視できずに叫んだ可能性は否定できない。が、肝心なのことは市川署が死体を火葬してしまったところにあった。組織の総力を挙げての謀略論を展開することに決まった。松崎を説得し、動労を巻き込み、国会対策と知識人対策に奔走した。緩慢だった動きに弾みが出てきた。すでに進められていた解放派幹部笠原の謀殺については忙しさにかまけて担当部署にあずけ謀略論の指揮に専念した。策戦は予定どおり進められ、笠原謀殺は成功をした。が、彼らの反撃を甘く見たのは誤算だった。

 荷台が燃えているのがわかった。「自分の責任だ。」と思った。「また使うかもしれない」といわれ、安易に荷台においてよいといったCに同意したことをIは悔いた。多少経験にいおいて勝るとはいえ、相手は同じ年であるだけでなく病人なのだ。中央の最重要部署に場を与えられ、働き始めてからまだひと月しか経っていない。このまま死ぬのはなんとも悔しいと思った。工場長のインキがしみこんだ手が頭をよぎった。

 カギは動労なのだ。時間に追われていたからといって原稿を書く時間をとらなかったことが悔やまれた。いよいよということになれば印刷所で書けばいいと考えたことの失敗だと思った。前にやれたからといって、状況を考えれば同じようにできる保証はない。一年前に襲撃されたことを軽く見過ぎたことも。
 意識を失う前に男の脳裏に浮かんだのは、水面からぽっかりと浮がび上がった少女の白い尻だった。




 臨時にしつられたとおぼしい死体安置所には、一見するとは誰であるか判別できない4つの真っ黒な遺体が並んでいました。私には右端のものが彼であることがすぐにわかりました。ほかの方たちも同じだったようで関口さんのおかあさんは迷わず関口さんの遺体に向かって「誠司。」と叫びました。遺体にすがりつき、ほんとうに悲しいときにはひとはこういう声を上げるのかと思いました。まさに慟哭ということばのほかに表現しようがない声でした。
 事件の翌月に人民葬と称する集まりがおこなわれました。一連の謀略を糾弾する集会だとのことで遺族を代表する形で水本さんのおかあさまと私が壇上からあいさつすることになりました。これまでに何度となくこのたぐいの集会に参加したことがあります。しかし、それは客席からのものであって壇上に上がるのははじめてのことでしたので戸惑いました。彼が私になにをしゃべることを期待するだろうかなどといろいろと考えてみましたが、まとまらないまま当日を迎えました。会場の裏手にある控え室では水本さんのおかあさまにはじめてお会いしました。大変緊張していらっしゃるようでした。ごあいさつはしましたが、どう声をかけてよいやら見当がつきませんでしたのでそれ以上はことばを交わしませんでした。集まりが始まり、椅子に座ってからは文字どおり針のむしろの思いでした。水本さんのおかあさまも同じだったと思います。おかあさまは「水本の母でございます。よろしくお願いします。」とおっしゃっただけで椅子に座られました。私としてはいろいろとお話ししたいことがあったはずでしたが、いざ何百人ものひとを前にすると口の中がからからになり、水本さんのおかあさまと同じようにいうのが精一杯でした。

 彼は問題に直面しても逃げない人でした。必要とあればどこへでも行きました。なにか大きなことがあると、その中心に彼が入っているだろうといつも思っていました。事態を知ったとき、「もしかしたら彼が入っているかもしれない。」ととっさに思いました。その一方で彼は大変慎重なひとで、交通事故にあわぬようにとふたり一緒のときには離れて歩くようにするひとでした。無意味な死に方は絶対したくないと考えるひとでした。身元確認のために警察署にいったおりに工場長の鈴木さんから事件の一年前にも同じようなことがあったというお話をお聞きました。そのときは間一髪難を逃れたということでしたが、なぜそのような危ないところに普段はあれほどまでに慎重だった彼がいったのかが気になるようになりました。
 編集作業で頻繁にお付き合いするようになった方にそれとなくお尋ねして謎が解けました。機関紙の号外を出す予定だったとのことでした。いつもなら原稿を渡すだけ済むはずのころですが、あのときは彼の原稿が遅れたために印刷所で泊まり込んで間に合わせざるをえなかったとことでした。彼らしくないと思いました。しかし、前にもいちどだけですが同じようにして原稿を間に合わせたことがあったことを聞き、それほど彼の肩に全部がかかっていたことを知りました。ひと一倍責任感が強いひとでしたから得心はしましたが、それほどまでして守らなければならいものだったのかということになると、私にはわかりません。ついていけなくもなります。
 ついていけないといえば、「みんな志半ばで死んでしまうね。」と私がいったときのこです。彼は「場所的に考えねばだめだ。ボクは死んでいった人たちのことが忘れられない。」といいました。「場所的」という言い方は彼のというよりもあのひとたちの慣用句です。そもそもわかりにくいことばですが、私にはこういうときに使われると意味がわからなくなり、ますますついていけなくなります。
 振り返ってみると、私たちが夫婦といえる生活をした期間は何年もなかったように思います。それでも平和だったときにはこどものころのことなどを話してくれたりして、それなりに楽しかったし、思い出すこともたくさんあります。その一方で、いま考えみると、すれ違いの芽はそここにありました。
 私にはよく哲学論争をふっかけてきて閉口しましたし、私があまり勉強しようとしなかったことも彼は不満だったろうと思います。彼は「我々のノート」というノートをつくり、自分の思索の結果をつづったものを私に渡すのですが、私にはわからないことばかりで私が書くものとはまったく噛み合いませんでしたので、いつの間にかやめてしまいました。部屋が散らかっていたり、私がなにもせずにごろごろしていたりすると「離婚したいほど嫌だ」といわれたことがありましたし、私がお金の計算をしていると「くだらないことに時間をかけているなあ。」といわれたこともありました。
 母親にはかなり前に「覚悟しといてくれ。」といっていたようです。水本くんのおかあさんの話をしたときのことですが、「自分が死んだら誰が夢を見てくれるかなあ、母はきっと見てくれるよ。だけどあんたはダメだね。」といわれました。
 いわれたそのときはあまり気になりませんでした。が、こうして彼が逝ってから15年も経ってみると「あのひとはなんで私と結婚したのか。」と考え込むことばかりが思い出されます。
 こどもをつくらないというのは納得ずくでしたことでした。いまになってつくづく思うのはそれで正解だったと思います。私はふたり姉妹であっただけでなく中学も高校も私立の女子校でしたし、大学を卒業してから就職したのも女子校でしたので男の子との付き合い方をほとんど知らないできました。もしこどもができたとして、女の子ならなんとかやっていける自信がありますが、それが男の子だとするとどう接したらよいのか見当がつきません。ましてや彼のようなこどもだったらと思うと、どうしたらよいものかまったくわからないからです。彼や水本さんの母親のようにできる自信もありません。じじつ、いまの私は彼の夢を見ることがありません。

 人民葬の話と同時に彼の著作集を出すというお話をいただきました。活字になったものがあるので、それらをまとめて一周忌までに出す。もうひとつ古いノートや手紙などをまとめたものも出したいということでした。そのお手伝いだけは私にやらせていただきたいとお願いしました。浄書に一年ほどかかりましたが、おかげで血なまぐさいニュースを耳にせずに済みました。こちらのほうは一周忌には間に合いませんでしたが、三周忌に彼の家族とお会いしたときに私が寄せた文章について「あなた方ふたりの暮らしぶりがわかり久しぶりに楽しませてもらったわよ。」と彼の母親からいわれ、苦労したことが報われたと思いました。彼の著作集ができ上がるまでは、血なまぐさいことがあっても意識的に目をふさぐことでなんとか過ごせました。しかし、その作業が終わり、彼の三周忌を済ませてしまうとそうはいかなくなりました。彼のときは三人でしたが、そのあとに5人いちどきに殺されたというのに、メディアは騒がなくなりました。
 勤めていた学校に居づらくなり、辞めたあとは彼の紹介で弁護士事務所に仕事を見つけてもらいました。ふつうの弁護士事務所でないことは予想していましたが、私のようなノンポリがいられる場所ではありませんでした。彼の仲間で投獄されているひとたちからは事務所宛に検印が押された手紙がきます。いちどきにくる数はさほど多くはないのですが、中身によっては急ぐ必要があるものがあるようで、そうしたものも含めてYさんが全部目を通したうえで私が青焼きをとります。いまのように便利なコピー機が普及していなかった時期だったので数が多いときには半日仕事になることもありました。私は教員以外の仕事したことがありませんでしたから、最初からお茶汲みや電話番をやるつもりでいましたのでそういうことで不満があったわけではありません。ここは私のいるところではないと思ったのは、Yさんだけでなく事務所にいるひとのすべてが私とは別の世界のひとだと痛感させられたことでした。弁護士の渡邊さんとは学生時代に面識があり、気安く話しかけてもくれるのですが肝心なことになると私だけが外されました。で、本ができたのを機に辞めさせていただきました。新しい勤め先には公安の刑事さんがきました。が、それも1、2年のことでいまはふつうの暮らしができるようになりました。彼が生きていたらどういうかわかりません。でも私にはいまの平穏な生活のほうがあっているのではないかと思っています。彼の妻であったときを忘れたいとは思いませんが、かといってことさらに誇るつもりにもなれません。できることならこのまま誰に知られることなく生きてゆければと考えています。




 20世紀も残すところあと数年で終わる。モスクワの赤い広場でデモをやったときから40年経ったいま、考えてみるとあのころだけが華だったのかもしれないという気分に駆られる。日本での常識に照らしてもそう簡単に釈放されるとは思えなかった。それが、わずか1週間足らず拘留されただけで無罪放免になった。
 フルシチョフ体制は万全だと思われていた。じじつ、『イワン・デニーソヴィチの一日』は62年末に国内で公刊されていた。ただし、それは表面的なことで、内実は崩壊の危機が裏側で進行していた。そのことを世界が知るのは著者が国外での公刊を決意した『収容所列島』の公刊を待たねばならなかった。本はパリで公刊されるや時間をおかず邦訳された。ことはそれほど深刻であり、ソ連がどこにいこうとしているかは世界中の注目を集めていた。にもかかわらず、その前後の10年ほど、私には本を読む時間がなかった。指導体制から外されているとはいえ、機関紙の印刷をあずかる位置を与えられている身にあって、そういした余裕がなかったのである。
 いくらか時間に余裕がもてるようになったときには『列島』の全巻が文庫版で訳出されていた。それを読んで、拘留されたところが有名なルビヤンカであることを知った。そこでは拘束されたものだけでなく取り調べにかかわるものも含めてすべてが人格をもたない世界が支配していたこともあらためて知らされた。
 同書によると、拘束されたものは身につけたものの全部をはぎ取られ、つづいてからだじゅうの穴という穴をすべて調べられた。それが終わると、ボックスと呼ばれる畳一畳の広さもない箱形の房に入れられ、取り調べを待つ。取調室はボックスに比べれば広いがそれでも2㍍×4㍍ほどのもので、机と椅子が一脚づつあるだけの小部屋である。被疑者はそのボックスと独房を往復しながら調べを受けることになる。そこで書かれていることはすべて私が経験したものだった。
 夢中だったことに加えて拘留が短時日だったこともあって、私はそうしたことのすべてを忘れていた。A・ドルガンが書いたものは、忘れていたことを私に思い出させた。
 ドルガンの場合はアメリカ大使館員の身分をもつとはいえ、ロシア国籍ももっていた。が、私の場合はそうではない。KGBの大佐に対して私はもっぱらそのことを主張した。互いにおぼつかない英語をもってしての会話である。それでも彼がいうことはわかった。要は、「反ソビエト扇動およびプロパガンダ」について規定されている国事犯事項の80条の10に該当するというのだ。無茶苦茶な論理だった。そう考えて反論したが、押し問答にもならなかった。そういうことになっているからそうなのだと言い張るのみで議論にならないのである。かくしてドルガンは15年の懲役刑に処せられ、刑期を終えてからも流刑され、つごう20年の拘留生活を強いられた。あのアメリカの大使館員がである。
 ドルガンの回想記を読んで慄然とした。アメリカ大使館員ですら20年だったとすれば、日本人のわれわれはどうだのか。写真は撮ってもらっていたし、世界中に配信されていた。おりからの国際世論も追い風になっただろうことは予想できる。が、しょせんは小国日本の極小政党がやる救援活動である。1年や2年で釈放されるとは思えなかった。あれが2年あとだったら、まちがいなくそうなっただろうと思う。しかし、もしそうなったとすれば、スターリン体制以外の時期にかの「収容所列島」を経験した唯一の日本人ということになる。そうすれば、私の人生は全く別のものになったにちがいない。私が「革命家たりうる度胸も節制も持ち合わせていない」ことが証されたいま、貴重な経験をした一表現者としていきるのもけっこう楽しかったかもしれない。
 このように「もし」と考えると、想念がめぐった。私たちの救出をよそに内輪もめがされたとは思えない。だとすれば、組織の分裂はなかった可能性がある。もし、分裂が不可避だったとして、どちら側の組織が私たちの救出のために動いたんだろうかとも思う。

 弟の訃報に接しながら、私は葬儀には顔を出さなかった。出さなかったというよりも、出せなかったのである。組織が分裂し、書記長に就任した段階で私は親兄弟の縁をすべて断った。そのことで実家からなにかいわれることはなかた。が、弟を売るということになると話は別になる。弟を襲撃した情報が私から出ていることは養家で知らぬものはない。実家でも同じである。そうした条件があるなかで、顔を出すわけにはいかなかった。会葬の通知は昵懇の仲だった弟の妻を通じて私の妻の手元に届いていた。しかし、一周忌のあとに妻が出したはがきに返事はこなかった。妻はしばらくは賀状を出していたようだった。それにも弟の妻からの返事はなかったようである。
『収容所列島』には、党と国家の方針を信じて肉親をKGBに売り渡した例が活写されている。そのようにしたのは貧しいロシアの無学なひとたちだけではなかった。党の要職にあるものほど生き残るために妻を売り、夫を売った。身を守るためにそうしなければならなかったとして、そのようにして守ったものを抱えて生きる残りの人生とはなんであったのか。やった当人はいい。だが、巻き込んでしまった妻はどうなのか。そう考えると、私の犯した罪は深いし重い。いちど堕ちたからには、底まで堕ちないことにはなにをしようにも始まらない。いまの私はそう考えている。了。(2010/2/21

 

下記「試作もくじ」の中では「ある元過激派の手記」と「私の20世紀」のみ転載する。

他に「突破力」「問われているものは何か」、「小野田譲二の批判」「司馬遷(新日文)」を予定しています。

 
 試作もくじ
 
 標題
 著者のコメント
 公表した時期
 
 
 
  標題のもとに書き始めた手記。〇六年三月号で公表している。1部のみであとを書いていないのは「左翼過激派の20年」に本格的に書くことにしたことが理由である

 2006/3-5
 
 
 
 
 
 自分史の試みとして書いたもの。全体で九章までの草稿がある。が、そのうちの二章までを〇六年八月号で公表した。今回の点検でわかったのは六章以降は未定稿なこと。だが、五章までは完成している。なぜ、五章までを公表しなかったのかについては理由を思い出せない。 

 2006/8
(別巻)
 
 
 
 
 
 
 
 
  同じ標題で覚え書きめいたものを書いており、それは未公表。小説家なんだから小説として書くべきだと考えたことが理由である。公表したのは〇六年九月号だが、書き始めたのはだいぶ前のことで、構想そのものは九十年代の早い時期に固まっていた。この調子で書き続けることも考えたがそうするには基礎的な知見が決定的に補足していることを知らされ、途中で放棄した。中身としては、処女作の「序章」を受けた「第一章」として書いたものである。
 2006/9
 
 


  六年九月号から〇七年三月号で公表したもの。その前に七月号で番外編(然るべき本編の予告編)を公表している。この号の中身については過半を本編で使っている。文字どおり「予告編」だったといってよい。

 2006/9-07/3
 
 
 
  八年十一月号で公表したもの。公表したのはこの?部(191722)だけが、書きかけの草稿は1950年ころのものまである。時間が許せば、つぎに取り組みたいと考えている課題である。
 2008/11


 「党派左翼」とは別の視点から2つのレビュー(評論)が寄せられている。

◇「森野りえ」さんは43歳の自由業者、とある。狭く言えば「第七章 最終の地」(言わば第四部)辺りをクローズアップしている。第四部こそ本書の到達点という私の思いもある。もちろん第一部から全てを込みにしての第四部なのだけれど。

◇「登戸研究所」さんはどうやら「70年世代」。ちなみに登戸研究所は、現在の神奈川県川崎市多摩区生田にかつて所在した、大日本帝国陸軍の研究所とある。跡地の一部を明治大学が購入し、現在の明治大学生田キャンパスが開設されたそうだ。
最後まで読み通してから感想をまとめて欲しい。

◇因みにそれぞれのタイトル(下線付き)をクリックしてアマゾンのレビューに飛び、投稿者の「顔」をクリックすると、この人が他にどんなレビューを投稿しているかも分かる。

森野 りえ
2018年10月6日
 私は今年43歳、高校受験を控えた息子とその弟との3人暮らしの自由業者。
 あの悲惨な戦争は絶対に誤りだと誓った被爆地広島で育ち、平和憲法が当たり前のことだったのに、豊かになることと引き替えに、子どもと親の関係も、暮らしや働き方も、自然と人間のかかわりも、ついて行けないほど大きく変わった。
 この先、この国の姿がどうなるのか、見えにくく、改憲や戦争の道へ舵が切られていることだけがハッキリしているように見える。

 この本は、子どもたちが、これからの時代にどう生きたらいいのか、語られている。
仕事や恋愛や結婚や家族の在りようと、起こりうる戦争に、どう関わるのか、その選択を決める生き方の基本が語られている。「オーセンティックな自分で生きる」が、魔法のことばのように語られている。
 自分を辱めない本物の自分で生きるということだろう。友情も恋愛も家族も、いつでも自分を偽らないで納得できる生き方をしていく。
 そうすれば後悔しないで、信頼を得られ支え合って生きていける。
 そこに、生きる力や幸せの基礎があるということになるようだ。

 岡本太郎氏が自著のなかで、自分の絵を長い時間かけて見ていた人が、「吐き気がするほど気分が悪い絵だ」と言ったのを聞いて、「ドロドロしたものを描いたのだから、そう言われると嬉しい」と書いている。
 本著のなかで作者は、お世話になっている女性に「高田さんは信頼できない人だ」と言われ、2年間考えその理由をたずねている。その女性に「批判しないからだ」といわれて、自分の生き方が人に伝わっていることを、大いに喜んだと書かれている。
 批判が命の政治や社会で生きてきて、そこから離れて批判をしないで生きている。ひょっとすると、オーセンティックな自分ということと、批判しないということは、自他を肯定し、お互いに「許し、支える」ということになるのかもしれない。
 そして、人類がいまだなしえていない、どこの国もしていない、<非戦とは他者を殺さないことだ>という恐ろしいまでの結論の魂なのかもしれない。ごく日常の暮らしの場であっても同じことで、自己と他者の批判・否定ではなく、すなわち闘争ではなく、<心安らぐきずなをはぐくんでいく精神>なのかもしれない。

 息子が高校へ通い出したら、「君はどう生きるのか」と、聞いてみよう。語り合うことで、その先の私の人生にも実りをもたらすに違いない。本著には、そう確信できる確かな足取りがある。

森野 りえ 2018.10.06
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2018年11月9日

 世間に言わせれば亡くなった伴侶は爆弾犯である、また、かたや内ゲバ秘密工作員である。
 彼らふたり激動の嵐のど真ん中に身を寄せ、週末の時を迎え、身の内側を「袋縫いを逆さに」するように内臓の奥までをさらけ出し、津軽の田舎出身、中学出の元自衛官くずれの夫が覚悟を決めて語る、そして語る。

 出会う組織の中の善人と悪人、そして気取り方だけは「党官僚」ども。
 そうした摩擦、不当な邪魔者扱いに対しての中核派党主流派の腐りきった根性無しども。これでも弱い者の味方を気取っていた頃もあったのか。
 果てしなき殺し合いを演じていた「中核と革マル両派」。
 余人には理解できぬが、同時代をすぐ隣で生きた者として、異常に卑怯な革マル派あっての、きちんと謝罪というけじめをないがしろにした中核派の幼稚さが重なり合ってこその『殺人狂騒曲』の開演となった…との筆者の総括はまったく正しく、未消化の歴史の一部を消化してみせる。

 それにしても、あれだけの日常的殺し合いと、死刑と無期がチラつくほどの「爆発物取締罰則」をカサに着て追い詰める刑事らとの峡谷の中で、二人の地下組織員の生々しくも美しい男女の愛。
 筆者が時折綴る、亡き妻とのひと時、ともに触れた自然の美しさや、その卓越した彼の筆の表現のみずみずしさにはしばしば完動の涙にページめくる指が停まった。

 自分にここまで純粋に愛に順じ、心を無条件に溶かすことができるだろうかと、幾度も俗化した心を容赦なくこすり落とされた。

あ る意味、6~80年代日本の抵抗運動には、虚心坦懐でその内奥をフランクに振り返ることを許されぬまま、謎で済まされてきた多くの事象が存在する。
 それは時効や、当事者(や組織)防衛の仕方なき問題もあってのことだが、この「高田裕子へのバラード」には伴侶であり同時にかけがえのない尊敬すべき同志を喪った主人公=武の包み隠すことのない後悔や、哀しみ、そして怒りが満展開している。

ここまで自己暴露もののノンフィクションのなかで、美的でナイーブな愛を男性が書き著したものと出逢ったのは初めてだ。
気が付けば、もう刻々と自分の生命も終末へと向かっているが、あいにく『仲間』ではなかったものの、この一冊だけはともにあの頃を生きた者として、末期の枕元まで置いておくのが真っ当なのかなと思っている。

 高田武さん、素敵な裕子さんの生きざまを教えて戴いてありがとうございました。
あらゆる意味で、あなた方の勇気を忘れません。
ご冥福を心よりお祈りいたします。

2章 1950年代という「時代」(その2)

断わり書き

 この手記を書くにさいして私は「序にかえて」で次のようにことわりを述べておいた。

(小野田の手記の)どこの、どれが、どうお粗末なのか、どの部分の、なにが、どのように正鵠なのかについて書くには、いましばらくの準備が必要だ。準備不足のいま、それらについてはおいおい書くことにして、以下、小野田が提起している問題の核心だと思うことについてふれ、この手記の序にかえたい。

 ここで私がいいたかったのは、本来なら小野田が提起したことの中身について書くべきところであるが、その準備がいまはない。で、「とりあえず」は私がこれまでに考えてきたことと小野田の提起と関係があると思われることについて書き連ね、準備が整い次第、本論に入る――ということだった。前号で私的な体験を書き連ねたのは、時間を稼ぐための苦肉の策だったのである。準備不足はいまでも変わりない。が、いつまでもこの種の体験談を書くことが本意ではない。そこで無謀を承知のうえで6月号からは本論に入ることに決めた。とはいえ、標題に据えた「過ぎ去りし日々を問う」とした問題については依然として課題として残っている。で、この課題については別の形で書くことにし、今号は50年代とはどういう「時代」だったのかについて簡潔に述べ、とりあえずのしめくくりにする。

1950年代はどういう「時代」だったのか。

 前章では1939年にこの国に生を受けた私・今井公雄の個人的な体験を通じてこの国の50年代の素描を試みた。それはひとことでいうと、近代における最後の世界戦争が終わり、世界が再編成される時期だったといえる。戦争の終結からあとの5年間(つまり40年代の後半)のこの国についていえば、経済的には絶望的な貧困が支配していた。遅れて植民地争奪戦に乗り出した日本はいくばくかの植民地を確保し、2流であったとはいえ列強と肩を並べる強国に成り上がっていたが敗戦でそれらの全てを失った。その結果、最貧国に成り下がらざるをえなかったのである
*1。それにつづくこの国の50年代とは、国勢再起の助走を始めたところで米ソ2極対立の渦にまともに巻き込まれ、国論が真っ二つに分裂した時代だった。*1 50年代の全学連活動家だった森田実は『前後左翼の秘密』(汐文社)の中でこの絶望的な貧困が多くの有為な青年を過激派に走らせた根底にあったことについてふれている。

 右に指摘したことを如実に示す事件を50年代後半から拾い上げてみよう。(はソ連、はアメリカ、が日本に関連する事件)

57年〉57・2 南極観測船「宗谷」が2週間にわたって南氷洋に閉じ込められたが、ソ連の砕氷船オビ号が救出。①57・9 リトルロックで黒人高校生の入学をめぐり空挺部隊が介入。②5710 スプートニク打ち上げ①5712 同2号にはライカ犬が搭乗。58年〉58・1 ソ連に遅れること3ヵ月でアメリカがエクスプローラー打ち上げに成功。
    エサキダイオード海外で反響を呼ぶ。③58・3 スバル360登場。③5812 東京タワー完成。59年〉59・1 キューバ革命、ソ連が月ロケット打ち上げに成功。①59・6 全学連14回大会でブントが制す。唐牛委員長の誕生。③59・7 児島明子ミスユニバースに。③59・8 ブルーバード発売。③59・9 キャンプデービッドでフルシチョフがアイゼンハワーとトップ会談をおこない、どちらの体制が優位かを競争しようと提案する。

    小澤征爾が国際指揮者コンクールで1位を獲得。

    東京地評、全学連国会突入。③5912 在日朝鮮人帰国運動で第1陣が北朝鮮に帰国。


 右に列記した事件を俯瞰すると、この時期の特徴が明白になる。

 第1に、技術力という点でソ連がアメリカに比べて優位に立っている(かの)ように見えたこと。第2に、黒人問題に象徴されるようにソ連に比べてアメリカのほうがより問題を抱えている(かの)ように見えたこと。第3に、この時期になって日本も列強に追いつく機運が現れ始めたこと。この3つである。


社会主義労働者国家信仰

 前項でふれたことを踏まえ、前章に倣って右に列記した事件にさいして私が感じたことを連ねてみる。
 まずは宗谷が南氷洋に閉じ込められたのをソ連の砕氷船が救出した件。
 57年といえば11月にフジテレビの開局が発表され現在の8局体制がほど整った時期である。いまとちがってリアルタイムではなかったが映像が茶の間に入ってくる走りの時期で、ソ連が提供する救出劇の映像は衝撃的な訴求力をもっていた。新聞に掲載される写真とちがって14インチの画面に映し出されるモノクロの画像は、そうであるゆえに視聴者の想像力を駆り立てるものだった。
 閉じ込められた宗谷が写る画面の上方、水平線の彼方に米粒大のオビ号が姿を現しゆっくりと接近してくる。画面は少しづつ大写しになり、オビ号の動きが手に取るように見えるようになる。オビ号は船首をもたげ氷の上に乗り上がる。次ぎにゆっくりと船首を下げる。腹を見せていた船首が沈み、分厚い氷が見事に砕ける。オビ号は休むことなく尺取り虫に似た動きを繰り返しながら宗谷に近づいていく。その跡には砕けた氷塊の間に海水が見え、水路が開かれているのが素人目にもわかる。
 テレビの黎明期のことである。ほとんどの国民がこの映像に釘付けになったはずである。宣伝効果という点では3重の花丸だったといっても過言でない。2,600㌧の宗谷と12,840㌧のオビ号の差は、観るものにとってそのまま国力と技術力の差として映ったのである。
 この映像が誇示した日ソの差は、人工衛星の打ち上げをめぐる米ソの差によってダメ押しされる。ソ連は5710月にスプートニク1号を打ち上げ、12月にはライカ犬を載せた2号を打ち上げる。宇宙船の丸い窓枠にちょこんと両足をのせて無邪気な表情をしているライカ犬の愛くるしい姿を写真メディアはこぞって報じた。アメリカはこれに遅れること3ヵ月後の58年1月にエクスプローラーを打ち上げる。が、追いついたと思ったのも束の間で、1年後の59年1月には月ロケットでも後れをとる。それだけではない。同じ1月にはアメリカの裏庭であるカリブ海でキューバ革命が成立、ダメ押しされる。

 こと生産力という点にかぎっていえば、全てに計画的である社会主義経済のほうが人々の欲望に則って無際限に生産する資本主義経済よりも優位にあると考えたのは当然だった*2。私もそう考えたうちのひとりだった。だから、2つに分割させられたドイツと朝鮮についても同じで、西ドイツよりも東ドイツ、南朝鮮よりも北朝鮮のほうが経済的には優位にあると考えていた。こうした認識はひとり私だけのものではなく、広く世間一般にも受け入れられており、5912月には在日朝鮮人の帰国運動で第1陣が北朝鮮に帰国することになる。帰国運動に参じた在日朝鮮人は南の出身者のほうが圧倒的に多かったにもかかわらず、こぞって北への「帰国」を望んだ背後には理想の国・社会主義労働者国家とする信仰の存在を抜きにしては語れない。
*2 目標を定めておこなう国家総動員態勢には計画経済のほうが効率的であり、いわゆる自由主義経済が不向きであるのは理の当然である。しかし、計画経済が全体主義を必然化することにまで思いが至るには、90年代のソ連崩壊まで待たなければならなかった。

アメリカの暗部と日本復活の兆し

 私はアメリカこそ民主主義の総本山であると教えられた第1世代に属する。中学の英語の教科書は『Jack&Betty』といい、アメリカのものを直輸入したとおぼしい中身にあふれていた。独立戦争と並んでニューディールの成果を誇らしげに述べた記事が載っており、それを疑うことなく教えられた世代の走りだった。
 こういうことがあった。高校3年のときだった。学研が出していた受験誌から私が属していた新聞部宛に試写会出席の依頼がきた。紙上でおこなっている映画評のために封切り前の映画を観て、紙上討論に参加するというものだった。封切り前に観られるということで、私は映画好きのYとふたりで参加した。映画はローレンス・オリヴィエ主演の『オセロー』とジョン・ウエイン主演の西部劇『捜索者』。合評会ではもうひと組参加した女高生はほとんど発言せず、もっぱら私とYがしゃべりまくった。話が原住民差別に及んだときのことである。アメリカ人はああいう差別はしないはずだという私の発言を司会をしていた編集者が咎めた。「アメリカの人種差別はきみが考えているほど生やさしいものではない。」
 沈痛な面持ちで押し殺したように吐かれたその表情に、私は「無知ほど怖いものはないということ」と「そうしたものであると教えられていること」に対する無念を看てとった。そういうことがあった直後だっただけに、戦前の軍国小国民ほどではなかったがアメリカ民主主義を素直に信じていた私にとって、リトルロックがもたらした衝撃は大きかった。
 アメリカで、黒人解放を目指したはずの南北戦争から百年になんなんとするのに依然として黒人が差別されていることが暴露されたのは、50年代の後半に入っ

ダンディズム? デカダンス?

 「おい。O、あれをやるべぇ。」Oさんとはもっとも親しいSさんが声をかけ、着ているものを脱ぎ始めた。黙ってうなずいたOさんもやおら立ち上がり、上下メリアスの股引姿になり、履いていた靴下を両手にはめ、パントマイムに似た怪しげな所作で踊り始めた。阿波踊りや沖縄踊りをゆっくりした仕草でやるといったほうが正確かもしれない。
 Oさんたち3年生の送別会を兼ねた第2機関誌の打ち上げのときのことである。このクラブは、部室がそうだったように部費も教師が管理する外にあったから、この費用は部費で賄う。ビールと酒が出たようにも思うが、定かではない。
 なんとも珍妙な踊りが終えると、歌が出た。秋の文化祭のあとに出た歌だったので、私もそれに唱和した。

♪○
高よいとこいうなれば
おんぼろ校舎の焼け跡で
どこにもとるとこないけれど
ひとつ高生はよい男

右に江東楽天地
左に名高き国技館
間に立ちたる高にゃ
粋な姐御もたんといる

長年ためた参考書
叩き売ったる古本屋
化けたビールのほろ苦さ
禿のおやじがうらめしい

通り激しい千葉街道
道説くせんせはいるけれど
おいら17まだ若い
赤い血潮が承知せぬ

 あれはなんだったのだろうか。ずいぶん長いあいだ私は考えてきた。1つのヒントがある。

 しかしそうした知のダンディズムが何処から来たのかと考えると、戊辰戦争、明治維新後の薩長中心の新秩序において排除された江戸町民のダンディズムが浮かび上ってくる。ダンディズムは頑廃(デカダンス)と結びつき易いが、それは階層秩序に編成されること、分類されて上下関係の網の目に組み込まれることを拒否して、自らを開かれた状態に置いておく精神に基づいていることに由来するものであろう。(山口昌男『「挫折」の昭和史』p420)

 そう。山口が指摘するように、江戸下町の町民が育て、東京になってからも引き継いできたダンディズムが、デカダンスの形をとって表れたものと解するのが妥当なような気がする。


からくり

 しばらくして映画部と図書部にも入部した。映画部といってもなんのことはない。駅前にある映画館で上映する映画の割引券を斡旋するだけが唯一の活動だというおかしなものだった。新聞部で一緒だったYが、部員になると映画をただで観られるという話を聞きつけてきて「入ろう。」という。悪い話でないので、私は即座に同意した。このクラブは、部員は3年のMと2年のNのふたりしかおらず、ほかのクラブでは3年になると2年生に部長を譲るのが普通なのだが、3年のMが卒業する間近まで牛耳っていた。部員はわずかにふたり下級生ゼロは、部存亡の危機であるはずなのに、入部を希望した私たちふたりを歓迎するという雰囲気が彼らにはなかった。違和感はあったが、私たちはいわれるままに彼らがつくる「鑑賞券」と称する切符を売り、指定された日には映画館の入口でもぎりを手伝った。
 どこぞの警察署長の息子だというMは、親の商売からは想像できなほどくだけた男で、私が破るまでは3つのクラブを掛け持ちする記録をもっていた。自動車部も彼ひとりが部員の部で、放課後の校庭でいまでいうゴーカートほどの大きさの自家製自動車を乗り回していた。学校のすぐ裏には日本一のポンコツ街である竪川(現在の住居住所でいうと墨田区立川1丁目から4丁目辺り)があり、同窓生にはこの街の出身者がたくさんいた。手製の自動車は、彼らが部品を調達して造ったものだった。18歳になると、自動車免許がとれるので、通学にバイクを利用する生徒がいる。Mは、そこに目を付けて講習会と称して自動車部のデモンストレーションを企画した。むろん、おやじのコネを使ってのことだから、所轄である本所警察公認の講習会である。
 2年になって、からくりがわかった。Nが学校に姿を見せなくなり、観たい映画がかかったのを機に、私とYは支配人を訪ねた。私たちの顔を見るなり、のっけから「Nはどうした。Nを連れてこい。」でないと話は受けつけないといと支配人に怒鳴りまくられた。わけもわからないままさんざっぱら怒鳴りつけられ、怒りが静まったところで支配人の口から、Nが集めたはずの料金を使い込んでしまい、納めていないという話を聞かされた。いろいろと聞いてみると、通常は学生割引で100円のところを、支配人とのあいだで60円を納めるというのことで話を付けていた。生徒にすれば普通なら100円払うところを60円で済むし、映画館にすれば正規の切符を使わなくて済むので、双方の利害は一致する。ただし、これは明白な脱法行為であるわけで、支配人にすれば表沙汰にはできないという事情があった。*12
12 これは推測だが、MとNは売り捌いた「鑑賞券」の全額を納めずに間引いて払っており、支配人もそのことを黙認していたというのが真相だったと思われる。ひょっとすると(その可能性のほうが高いと思うが)支配人も、この密約で得た金を会社には納めていなかった可能性もある。

 図書部というのもおかしなクラブで、正規の司書がいないため顧問は非常勤講師のK先生が兼任していた。K先生は旧制高校の教授をしていたという漢文の先生だった*13から、授業のコマ数は少ないがそれでも授業があるときには受付要員がいなくなる。図書室は空き時間の自習の場でもあったから、受付要員がいないからといって閉めてしまうのはまずい。図書部員はその穴を埋める。授業がないおりに受付に据わるのが唯一の「部活動」なのである。ただし、部員には特典があった。自由に貸し出しが許され、読みたい本がいつでも読めるのだ。かくして、卒業アルバムの「各部の活動」で私は5つのクラブに写真が掲載される「栄誉」を担うことになる。
13 漢文専任の講師はふたりおり、私はもうひとりのF先生に教わった。F先生は北京大学で教えていたということで流暢な北京語を話す学者だった。私たちは戦前の高等教育の影響をほんの少しではあるが受けた最後の世代だったかもしれない。


7つ受けて全部ダメ

 就職試験は全部で7つ受け、全部が不合格だった。筆記試験では通るのだが、面接で落とされた。古いメモに「7つ」とあるのでこのでは7つとしたが、その全てを思い出せない。関東電気通信局(いまのNTTの前身に当たる電電公社)、NHK、国策パルプ、湯浅金物、海渡までは思い出せるのだが、そのほかの2つについては、どう記憶を振り絞っても思い出せない。
 最初に受けたのは関東電気通信局だった。2次試験の面接で「公社には電電のほかになにがあるか。」と問われた。専売公社(現在のJT=日本たばこ産業)は答えられたが、国有鉄道(現在のJR、分割される前は1つの組織だった)を答えられなかった。「もう1つあるはずなんですがわかりません。」といったのが失敗のもとで、なぜ君はそういうのかと尋ねられ「3公社5現業」といわれていることを告げた。3つの公社と5つの現業が組織する公労協は春闘の主役であり、毎年、春になるとメディアを賑わす主役だった。そんなことに関心をもつ高校生は敬遠すべしという思惑が、面接官に働いたとして当然のことだった。
 NHKについては苦い記憶が残る。ジャーナリストを志望していた私は、この試験だけは受けたいと思っていたが、学校に割り当てられたのは男1,女2だった。もうひとり男で受けたいという生徒がおり、くじ引きで外れた。たまたま就職指導を受け持っていたのが担任で私を買っていてくれ、2名の女生徒のうちのひとりを説得してくれた。*14
14 担任は誠実な人だったから強要したわけではなかったと思うが、その女生徒、Fさんの説得には時間がかかった。「今井、大丈夫からもう少し待ってくれ。」と担任にいわれても、私に彼女の気持ちを慮る余裕がなかった。Fさんが同期会にいちども姿を見せないのは、この1件があってのことだと思うと、いまでも気が引けてならない。

 このような無理を押して受けたNHKだったが、最後の面接で私は落とされ、採用されたのはもうひとりの同級生だった。ここでも、余計なひとことが仇になった。「尊敬する人物」の欄に米内光政と書いたことが、である。試験の直前に、私は米内について書かれた本を読んでおり、亡国の危機に当たっての彼の行動に共感を覚えていた。私としては、素直にそのことを書いたまでだったが、幹部職員の採用ならいざ知らず、高卒の中堅幹部に考える人間は必要ないという基準からすれば「なぜ、米内を尊敬するのか」と問われて、滔々と弁じる少年を雇わなかったのもこれまた当然だった。
 国策パルプ*15には、上の姉のコネで受験した。この会社には1名採用のところに30名ほどの受験者があった。コネといっても姉のつて程度のものでは、はじめから合格の可能性はなかった。
15 現在の日本製紙の前身の1部。山陽パルプと合併して山陽国策パルプとなり、十條製紙、東北パルプ、大昭和製紙の4社が合併したのが日本製紙である。

 次々と落とされて最後に受けたのが湯浅金物だった。一般的な知名度はないが1部上場の会社で将来性はあると思う、と担任にいわれて受験したのだが、ここでも見事に落とされた。筆記試験は満点に近かった。国語の問題で1つだけ解答できなかった設問があった。「難詰」の読みを問う設問で「なんきつ」と読むだろうことは想像できたが、自信がなかったので白紙にした。そのことを問われ「そう読むだろうとは思ったが意味がわからなかったので白紙にした。」と答えた。ここでも、そういう高卒を期待していないのは当然だった。*16
16 のちに大卒で湯浅に入ったNと同級会の席で立ち話をしたおりのことである。ひょっとすると同じ会社に入っていたことを告げたところ、Nは「誰が面接をやったか知らないけど、それは正解だったんじゃない。おれが面接したとしてもそうするよ。」といわれ、互いに大笑いをした。

 海渡を含めてあとの3つについての記憶は、ない。ここまでたてつづけて落とされと、面接があるかぎり合格するのは無理だと思うようになっていたからだ。
 かくして、受けた就職試験の全てに落とされた私は、東京都が募集する試験だけが残された唯一のものになった。筆記試験のみで面接がないこの試験のみが最後の頼みの綱だった。



「大島を買う話」

 菊池寛の佳作に「大島を買う話」という小品がある。学費を援助してくれた後援者に新品の大島紬の着物を買ってやるといわれ、断る話である。私は、この小品に描かれた菊池のと似たような体験を、なんどか味わった。
 小学5年と6年のときの担任を訪ねたおりのことである。進学はどうするという話になり、学費は援助するから進学しろといわれ、私はその場で丁重に断った。その少し前に菊池の作を読んでおり、それが見返りを求めないものであっても、この種の厚意が、受け取る側にもたらす負担の重さについて感じていたからだった。
 遠縁に当たる化学工場の経営者からも、同じような話が持ち込まれた。ただし、こちらのほうは紐付きだった。こどもがおらず、後継者として考えているとのことで、理工系の学部に入るのが条件だった。もともとが理系は不得手だったことに加えて、経営者としてやっていく自信もなかったから、こちらのほうも断った。
 日大に学費のほかに援助金が貰えるという奨学制度があることを知り、担任に推薦を貰えないかを相談したこともあった。成績を勘案して首をひねったものの、担任は校長を説得してくれ、推薦状が貰えることになった。しかし、私はそれを断った。成績からすればダメなものを出すことにしてくれたというだけでなく、もともとが私のほうから無理を承知で頼んだものである。断るにはそれなりの理由が必要だった。それを、些細な理由から私は断ったのである。
 演劇部で芝居をやっていたOという男が1級上にいた。矢代静一に傾倒しており、日大の芸術学部に進学、暇を見ては後輩の指導と称して母校に顔を出していた。その男が、どこで嗅ぎつけたのか私の推薦を聞きつけ、私が推薦を取り付けたと触れ回った。あの成績で特待生などというのはけしからん、というのがOの言い分だった。それを聞いて、私は嫌気がさした。他人のことなどどうでもいいはずなのに、なんてくだらないヤツだと思う一方で、そういう情報を流す教師にも腹が立った。担任にはそのことを話した。渋る校長をやっとのことで説得した担任には、翻意する気はないかとなんども問われた。それでも私の意志が固いのを知り、最終的には受け入れてくれた。
 就職先が見つからず困惑している私に同情して、ふたりの級友も援助してくれた。父親が毎日新聞の論説委員をやっていたSは、給仕の仕事でよいなら世話をするという話をもってきてくれた。私がNHKに落ちたことを知っての厚意だった。が、私は、それを断った。給仕からたたき上げることに不満はなかったが、それでは家に金を入れられないということもある。しかし、そのこと以上に、NHKを落ちた時点で大学卒という肩書きが条件である世界に魅力をおぼえなくなっていた。活字をもって表現する世界で生きたいという思いには変わりなかったが、己の力のみで勝負できる世界、つまり、小説の世界に、私はこの時点で半分以上踏み出していた。
 Oも「よかったらおやじの会社に入るか」といってくれた。Oの父親は、ライオン石鹸の常務をしており、時期外れであっても高校生のひとりくらいは入社させられる位置にいた。「よかったら」というOのことばは、そういうコネでの入社を私が好まないことを知ったうえでの配慮だった。「ありがたいけど遠慮するよ。」という私の返事に、Oは黙ってうなずいた。その顔には、「おまえならそういうだろうと思っていたよ」という表情があった。

貧しさは卒業して働いてもつづいた

 東京都の採用試験には合格したものの、4月には就職することができなかった。4月時点での採用枠は成績順に上のほうから採用されて埋まってしまい、あとは欠員が出るつど順次採用するという形がとられていた。5月になっても私までは順番が回ってこず、私が採用されたのは6月になってからのことだった。これで、わが家はひと息つけるようになった。とはいえ、働き手がひとり増え、扶養家族がひとり減り、3対3の構造が4対2になっただけだった。加えて、働き手といったところで、自分の食い扶持を除けば残る部分がわずかしかない低所得者である。文字どおりひと息つけたという状態を超えるものではなく、苦しい状態は変わりなかった。
 職場には学生服で通った。7月にボーナスが出たが、途中採用のため満額は貰えず、夏のあいだはジャンパー姿で通した。やっとのことで冬のボーナスを待って背広をつくった。
 食わせなければならない立場にあるにもかかわらず食わせて貰っている、そういう負い目から解放されたことは、私の気分を楽にさせた。その一方で、思う存分に羽を伸ばすことができた高校生活は過去のものになった。私の高校時代は社会に出る前のモラトリアムだった。が、その期間に次の展望をもたないままに過ごしただけに、卒業後の私は模索することになる。
 夜間大学では肩書きとしての学士が社会的な意味をもたないことを、私は知っていた。そういう私が、夜間大学でもいいから、いちど正規の学問というものの正体を覗いてみてやうという気分になるまでには1ねんかかった。なぜ、そういう気分になったのかということも含めて、次章では書くことにする。


〈この章の総結〉

一家は貧窮のドン底に突き落とされて、小学生の私達の学費さえ困った。学校から帰った午後、私と次兄とは、廃坑の跡を漁り歩いた。車輪の破片、ボートの折れ、釘、一切の金具類を拾い集める。翌日町の古金屋に持ってゆけば、多い日は十銭、普通は六銭で買ってくれた。それが私達の学費だった。
 引用は、「消えることはない」とまでいわれた八幡製鉄所の溶鉱炉の火を止める大ストライキを組織した労働運動指導者浅原健三の自伝『溶鉱炉の火は消えたり』からのものである。*17
17 かつてこの「幻の名著」の海賊版が労働者解放闘争同盟(労闘同)によってつくられ、私も手に入れたはずだが、手元に見つからないので上の引用は『「挫折」の昭和史』から孫引した。

 上の記述にある情況は、浅原が15歳のときだということだから、1912(大正元)年のことである。ここでいえるのは、当時の日本は、テレビの映像で見るマニラやリオの貧民窟と似たような光景が、各地にざらにあったことである。では、それから40年過ぎた50年代はどうだったのかといえば、「朝鮮特需*18」とのからみで銅や真鍮を集めることがはやった
18 朝鮮戦争(1950~53)とのからみでアメリカの兵站基地になった日本の軍需需要が急激に拡大し、その余波がつづいた55年ころまでの軍需景気のこと。この特需によってわが国は敗戦によって中断されていた最新技術を入手できたほか、アメリカ式の大量生産技術を学ぶ機会を得ることで、戦前の非効率的な生産方式から脱却し、再び産業立国になるうえで重要な技術とノウハウを手に入れることができた。それだけでなく、多くの雇用と外貨を確保することもできたのである。その額は1950年から52年までの3年間に特需として10億㌦、55年までの間接特需として36億㌦といわれている。

 私も含めて、私の周辺では大のおとなだけでなく、貧しい家ではこどもたちも兵器に使われる金属を集めて売ることに血眼になった。敗戦の結果、ふた昔前の時代に先祖返りしてしまったのが、敗戦後の10年ほどの期間だったのである。このことが戦前との連続であるとすれば、GHQの政策によって官が主導する施策、とくに人材育成の側面であった優遇措置はことごとく排除された。軍の廃止に伴って士官学校がなくなっただけでなく、教員志望者や公共企業を下支えしてきた中堅技能者養成施設も全て廃止になったことは、断続の1つであったといえる。
 戦前から戦後へ継続されたものという視座から見ると、浅原の自伝『溶鉱炉の火は消えたり』が復刻されることなく今日までその状態が続いていることの背後に、戦後の言論界におけるマルクス主義の支配力の問題がある。桐生桂一『反逆の獅子』角川書店にこの経緯はくわしいが、それについては別のところでふれることにする。
          2006・3・25


06/5月号
〈編集ノート〉06年5月号
当初の予定では、1部では私が過激派であった時代についてを、2部では過激派と決別してから今日に至るまでを書くつもりだった。書いていくなかで全体の構想を固めればよいだろうとも考えていた。が、書き始めてみて、それでは「一元過激派の手記」の域を出ないことに気づいた。自分史を書きたいならそれでもよいだろうが、私が予定を変更しても書かねばなるまいと思ったのはそういうことではない。新左翼の運動は、その理想としたものとは180度方向を異にする内ゲバによる殺戮合戦という愚昧な結果に終わった。なぜそうなってしまったのか。その根拠がどこにあったのか、を問うことこそこの覚え書きを書き始めた動機だったのである。
そういうことで予定を大幅に変更することにした。1部については今号で打ち切り、次号からは2部に入る。その2部も当初の予定を変更し、なぜ内ゲバが必然だったかという本題について扱うことにする。そのうえで、しめくくりの議論を3部でおこなう。
PFDにすると縦書きにしたものをそのまま読んで貰えることを知り、前号でデータをPFDにしてみた。かねてから縦書きを前提にして書いた文章を横書きで読ませるのはなんとも気分がよくないと思っていたからだ。ところがせっかく縦書きにしたのにWindowsでは呼び出せないのだ。全部のブラウザーが呼び出せないのではないから参った。今回も同じ轍を踏むことになるかもしれないが、再度、挑戦してみる。
         2006・4・25


今月の断章

 政治の困難さについてマキアベリは、政治は最高の芸術である、という主旨のことばを残している。この言をはじめて読んだとき、私は「なるほどな」と得心したもののいまひとつ腑に落ちないものを残した。この間、新左翼の政治について検証していて小野田襄二が次のように書いていることを知り、マキアベリのことばを思い返した。私は、今でも、政治というものの困難さに身震いする。それは、あまりに資本のかかる事業であり、余りに事業の規模が大きいからだ。思想という限りでは、私個人というなけなしの財産をはたけばなんとかなるし、またそれしか方法はない。政治というのは、どうあっても、私個人という財産をはたくだけではどうにもならぬ。純然たる個人の事業である文学や思想には無い困難が政治にはある。小野田がここでいわんとしていることは、政治が共同の事業であり、個人の事業としては成立しない領域に属することに伴う困難性である。その一方で、政治には強力な指導性が要請されることから、最終的には「組織の歴史を担ったところの指導者」の資質に絞り込まれる側面が色濃くあり、それは政治がもつ「宿命的構造」でもある。マキアベリが「最高の芸術」といったゆえんはここにあるわけで、政治がもつこうした困難さに対する視座を欠いた論評(政治批判や政治家批判)はおよそ意味をなさない。無意味であるだけでなく有害でさえあるといって過言でない。
              2006・4・25





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