【ブログ注】
前記事「私の発言」の続編です。見出しは当ブログで付けました。当ブログの判断で未完のフルネームにしました。
【以下引用】……… ……… ………
伊藤隆×さんの発言(メモから。要旨)
☆略歴
1951年生まれ
1970年3月に麻布高校を出て、大学受験せず70年4月に大企業に正規入社し、同時に杉並反戦青年委員会に入って活動を開始。1975年に「裏」=非公然活動に移行。
3回全国指名手配を受ける。
1回目の手配は75年3・6に革マル派の難波力(「解放」発行責任者)が完全せん滅された事件。
「車を準備してくれ」と上から言われ、私の実家の車を借りて持って行ったところ、その車が逃走過程で検問絡みで乗り捨てられ、私が手配された。当時は盗難車の技術がまだ無かった。
2回目の手配は80年10・30事件で、革マル派学生5人が東工大の付近で××された事件で、中核派5人が指名手配された。非公然活動をしていたということで私も手配されましたが、私はまったく関係していません。
(【ブログ注】××=バツバツと読む テロまたは「せん滅」の意。この場合、 「完全せん滅」=死亡の意)
1992年2月に潜伏場所にガサ入れがあり逮捕されたが1か月後に不起訴釈放。
3回目の手配は1982,3年頃に革マル派労働者が重せん滅された事件で、私は部屋から一歩も外に出ない生活だったが指名手配されたというもの。
1992年後半に表に浮上した後、千葉県党の常任として活動。2000年頃にあった杉並都議選選対への「出向」を拒否したところ、千葉の常任を外され「本社あずかり」となる。
その後、白井朗政治局員と親交があったが、白井さんが中核派による襲撃を受け、白井さんのワープロに私の名前があったことから、革共同との関係は断ち切られた。
「除名」でも「党員資格はく奪」でもなく、清水丈夫氏独断によるものと考えています。
「内ゲバ」と戦争への思い
私は俗に言われる「内ゲバ」―中核対革マル対解放派の党派闘争は、全面的に間違っていたと強く思っています。100人を超す活動家が命を落としました。その中に本多延嘉書記長もいます。
先日東京新聞のコラム記事に「内ゲバ死者100人超。暴力団の抗争、山口組対一和会でも死者は30人位」とありました。
70年代以降、日本の新左翼運動はずっと低迷しているわけですが、党派闘争=内ゲバに一般学生、労働者が恐怖し、「活動したくても怖くてできない」という状況を作り出してしまった、1960年代、70年代世代の私たちの責任はとても重大だと考えています。
死者が出るような闘争のやり方、あり方には心の底から反対します。
戦争にはすべて反対です。侵略戦争にはもちろん反対ですが、民族解放革命戦争にも、今は反対する立場を取ります。
死者が何十人、何百人から、数十万人、数百万人出る「戦争」に対して、徹底して反戦運動、反戦闘争を対置して生きて行こうと考えています。
――以上――
2020年10月25日㈰ 虐殺死から45年 本多延嘉書記長追悼の集い にて
【ブログ補足】 以下は飛ばしても可です。
①当日の発言者のほとんどが「学生運動出身」という中で、高校から職場に飛び込んだ「異色の人」でもある。ただ、実は、こういう経歴の人は当時の中核派にはけして少なくなかった。
もちろん「ふつうに」高卒で就職してから結集した人、学卒ではあるが本格的な結集は就職後という人も多い。「内ゲバ=対革マル戦」とその後の「ロケット砲」=「対権力の革命軍戦略」の時代、そうしたひとびとの存在すら忘れたような時代が続いた、と私は思う。
当日の司会の1人も同様な経歴のようだ。
②略歴2ー「3回の指名手配」
「10・30」は極めて重罪適用の手配であり、本人たちはもちろん、中核派にとって死活的な課題となった。
同時期に逮捕された人と時効切れで浮上した3人の計5人は、その後の党生活の中で全員離れた。事件は違うが高田武さんの著作『地下潜行/高田裕子のバラード (レッド・アーカイヴズ 04) 』が出されている。
れんだいこさんのサイトにも当時の雰囲気が出ている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/history10_1.htm
③思い
伊藤さんの発言=想いに私も共鳴する。
自らの「ふたつの戦争の体験的総括」をはじめ、ロシア革命での「内戦」を描いたトロツキーの著作や、中国革命の実態を知るにつけ、少なくとも、「安易に」「革命的戦争」に与することには激しい躊躇を覚える。
「党内闘争」・「党派闘争」そのもの、掘り下げれば「党派」というもの…。
より一層、深い議論を呼びかけるものだ、と思う。