2021年01月

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【ブログ注】
 記事「私の発言」の続編です。見出しは当ブログで付けました。当ブログの判断で未完のフルネームにしました。
【以下引用】……… ……… ………


伊藤隆×さんの発言(メモから。要旨)

☆略歴
 
1951年生まれ


19703月に麻布高校を出て、大学受験せず704月に大企業に正規入社し、同時に杉並反戦青年委員会に入って活動を開始。1975年に「裏」=非公然活動に移行。

3回全国指名手配を受ける。

1回目の手配は75年3・6に革マル派の難波力(「解放」発行責任者)が完全せん滅された事件。

「車を準備してくれ」と上から言われ、私の実家の車を借りて持って行ったところ、その車が逃走過程で検問絡みで乗り捨てられ、私が手配された。当時は盗難車の技術がまだ無かった。

2回目の手配は80年10・30事件で、革マル派学生5人が東工大の付近で××された事件で、中核派5人が指名手配された。非公然活動をしていたということで私も手配されましたが、私はまったく関係していません。
   (【ブログ注】××=バツバツと読む テロまたは「せん滅」の意。この場合、 「完全せん滅」=死亡の意) 
 1992年2月に潜伏場所にガサ入れがあり逮捕されたが1か月後に不起訴釈放。
 3回目の手配は1982,3年頃に革マル派労働者が重せん滅された事件で、私は部屋から一歩も外に出ない生活だったが指名手配されたというもの。

 

1992年後半に表に浮上した後、千葉県党の常任として活動。2000年頃にあった杉並都議選選対への「出向」を拒否したところ、千葉の常任を外され「本社あずかり」となる。

その後、白井朗政治局員と親交があったが、白井さんが中核派による襲撃を受け、白井さんのワープロに私の名前があったことから、革共同との関係は断ち切られた。

 「除名」でも「党員資格はく奪」でもなく、清水丈夫氏独断によるものと考えています。


「内ゲバ」と戦争への思い 

私は俗に言われる「内ゲバ」―中核対革マル対解放派の党派闘争は、全面的に間違っていたと強く思っています。100人を超す活動家が命を落としました。その中に本多延嘉書記長もいます。

先日東京新聞のコラム記事に「内ゲバ死者100人超。暴力団の抗争、山口組対一和会でも死者は30人位」とありました。

70年代以降、日本の新左翼運動はずっと低迷しているわけですが、党派闘争=内ゲバに一般学生、労働者が恐怖し、「活動したくても怖くてできない」という状況を作り出してしまった、1960年代、70年代世代の私たちの責任はとても重大だと考えています。

死者が出るような闘争のやり方、あり方には心の底から反対します。

戦争にはすべて反対です。侵略戦争にはもちろん反対ですが、民族解放革命戦争にも、今は反対する立場を取ります。

死者が何十人、何百人から、数十万人、数百万人出る「戦争」に対して、徹底して反戦運動、反戦闘争を対置して生きて行こうと考えています。

――以上―― 
  2020年10月25日㈰ 虐殺死から45年 本多延嘉書記長追悼の集い にて

 

 【ブログ補足】   以下は飛ばしても可です。
 当日の発言者のほとんどが「学生運動出身」という中で、高校から職場に飛び込んだ「異色の人」でもある。ただ、実は、こういう経歴の人は当時の中核派にはけして少なくなかった。
 もちろん「ふつうに」高卒で就職してから結集した人、学卒ではあるが本格的な結集は就職後という人も多い。「内ゲバ=対革マル戦」とその後の「ロケット砲」=「
対権力の革命軍戦略」の時代、そうしたひとびとの存在すら忘れたような時代が続いた、と私は思う。

 当日の司会の1人も同様な経歴のようだ。

 ②略歴2ー「3回の指名手配」
  「10・30」は極めて重罪適用の手配であり、本人たちはもちろん、中核派にとって死活的な課題となった。
  同時期に逮捕された人と時効切れで浮上した3人の計5人は、その後の党生活の中で全員離れた。事件は違うが高田武さんの著作『
地下潜行/高田裕子のバラード (レッド・アーカイヴズ 04) 』が出されている。

 れんだいこさんのサイトにも当時の雰囲気が出ている。
  http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/history10_1.htm

 ③思い
 伊藤さんの発言=想いに私も共鳴する。
 自らの「ふたつの戦争の体験的総括」をはじめ、ロシア革命での「内戦」を描いたトロツキーの著作や、中国革命の実態を知るにつけ、少なくとも、「安易に」「革命的戦争」に与することには激しい躊躇を覚える。
 「党内闘争」・
「党派闘争」そのもの、掘り下げれば「党派」というもの…。

 より一層、深い議論を呼びかけるものだ、と思う。

 

           

【ブログ注】
  


革命勝利へ党の飛躍を 革共同議長・清水丈夫同志に聞く 青年・学生の決起が歴史動かす

発行日: 20211 1日 第3176主張/理論

週刊『前進』05頁(31760102)(2021/01/01

http://www.zenshin.org/zh/f-kiji/2021/01/f31760102.html
革命勝利へ党の飛躍を
 革共同議長・清水丈夫同志に聞く
 青年・学生の決起が歴史動かす

(写真 全学連活動家の石田真弓さん(左)と清水丈夫革共同議長)


 昨年9月6日の革共同政治集会で51年ぶりに演壇に立ち、公然活動に復帰した革共同議長・清水丈夫同志に、2021年決戦の展望と革命党の果たすべき役割について大いに語ってもらった。聞き手は、前進チャンネルキャスターで全学連活動家の石田真弓さん。(編集局)

時代の要請に応えぬく決意

 ----まず、約半世紀ぶりとなる公然活動への復帰にあたっての決意、そして2021年を迎えての革共同議長としての考えを聞かせてください。
 いま、
〈コロナ×大恐慌〉情勢の底知れぬ泥沼化が進行し、コロナ対応を口実として未曽有の大合理化攻撃が展開され、労働者階級の解雇撤回、低賃金粉砕、総非正規職化阻止の闘いが、職場生産点からの階級的労働運動の再生の闘いとして組織されつつあります。昨年の11月労働者集会は3労組の闘い、医療・福祉労働者の闘いを先頭に歴史的前進が始まっていることを鮮明に示しました。
 私は、2015年の革共同第7回大会の「左翼空論主義」の誤り、その根底にある階級的日和見主義について、旧政治局指導部(議長)として、自分自身の問題として真っ向から自己批判しました。なによりも一共産主義者として、資本と権力、資本家階級に対する根底的怒りを爆発させ、職場生産点で資本・権力と闘っている同志たち、階級的団結と労働組合的団結を強化するために全力で闘っている革命的労働者たちと共に闘いぬきたいと思っています。これが、私が今回、公然化の道を選んだ第一の理由です。
 今ひとつの理由は、今日の〈コロナ×大恐慌〉情勢の歴史的重大性の問題です。
コロナも大恐慌も、帝国主義の絶望的延命形態である新自由主義の行き詰まりと破綻として引き起こされたものです。そして、この二つとも、新自由主義を死のふちに突き落とすものとしてあります。この二つのからみ合いをしっかりと確認することが大切だと思います。
 
まず大恐慌情勢について言えば、2008年リーマン・ショックとして爆発した恐慌は、1929年型の世界的な金融大恐慌としてあります。これ以後アメリカ帝国主義は、財務省とFRB(連邦準備制度理事会)が膨大な財政投入、超低金利政策をとめどなく展開し、経済の金融バブル化を繰り返すことでかろうじて延命してきたのです。したがって、言うまでもなく、大恐慌を不可避とした「過剰資本・過剰生産力」は基本的に整理されないままです。つまり、果てしなくバブルを繰り返すしかない。問題は大恐慌情勢のこうした局面でコロナ・パンデミックが発生したことです。バブルの繰り返しで延命してきた米帝経済は経済封鎖的危機に陥り、29年恐慌をはるかに超える年率換算でマイナス三十数%といったGDP(国内総生産)の下落を強制されました。これはしかし、本来、バブル崩壊で生ずる危機を先取りして出現させたものにほかならない。しかも、今起きているのは歴史的な大パンデミックであり、新自由主義的グローバル化によってコロナは全世界化したのであり、変異を繰り返しながら数年以上続くでしょう。
 コロナを解決することは新自由主義のもとでは絶対にできず、また新自由主義のもとで経済を立て直そうとすればコロナはますます蔓延(まんえん)する。アメリカの状況がまさにそうですが、ブルジョアジーは新自由主義のもとでコロナを撃退できないまま、我慢ができなくなって経済活動を再開する。そうすると1日20万人もの人々が感染するような事態になり、それがまた経済にもはね返ってくる。コロナと新自由主義は相互に影響し合い、矛盾を深めているのです。その一切が労働者階級人民に押し付けられる。このことが、全世界で巨大な怒りの爆発と階級的激突を生み出し、
革命的情勢を本格的に成熟させています。
 このような情勢だからこそ、私自身も現場で闘う同志たちと固く団結し、日常的に問題意識を共有しながら、党の飛躍をかけて一緒に奮闘しなければならないと考えました。何よりもそれが、公然活動への復帰を決断した理由です。

革命的情勢が到来

 このように、いま現在、コロナ・パンデミックと08年以来の大恐慌の展開のからみあいによって、国家債務が限りなく積み上げられ、「百年に一度」どころかそれ以上の経済的社会的危機と破綻が不可避となってきているのです。この事態におびえきった敵階級は、一切の矛盾を、一方では感染拡大として、他方では、大量解雇、賃下げ、総非正規職化といった形で労働者階級に押しつけようとしています。もうこんな新自由主義をのさばらせておくわけにはいかない。新自由主義を終わらせ、資本主義そのものを打倒するしかない。文字通り待ったなしの革命的情勢が到来したのです。
 革命的情勢を本物の革命に転化することは容易なことではありません。
 一つは、革命的情勢が到来したこと、プロレタリア革命以外にはないことを全労働者階級、全人民に訴え、全力で
階級意識の鮮明化をかちとることです。今ひとつは、それだけではなく、革命主体としての労働者階級が、資本と権力に対する職場生産点からの闘いに立ち上がり、革命党がその先頭に立って闘うこと。党と労働者階級との切っても切れない結合をつくりあげること。そして階級的労働運動の強化をかちとることが必要です。
 先ほども述べた7回大会問題の総括の核心は、「空論主義」に逃げるのではなく、革命情勢を革命に転化するために目下不可欠な決定的任務として、階級的労働運動の強大化をかちとるということにあります。そして、11月労働者集会で確認したように、3労組共闘を中心とする階級的労働運動の火を、全国でつくりだし、大きな力にしていくことです。この闘いは医療・福祉、合同労組をはじめ全産別で力強く推進されつつあります。
 こうした闘いの先頭に立つのは、やはりマルクス主義青年労働者同盟の同志たちだと思います。マル青労同は70年決戦において決定的な役割を果たしました。青年労働者の決起こそが階級的労働運動の帰趨(きすう)を決めます。

60〜70年の大激動期を闘う

 ----ここで清水さんの歩み、特に1969年に非公然活動に入るまでの闘いについて聞かせてください。
 60年安保闘争は全学連書記長として、また共産主義者同盟(ブント)全学連グループの一員として闘いましたが、60年5月20日の国会・首相官邸デモの件で6月4日に逮捕され、8月に出獄した時にはすでにブントは崩壊していました。その後、旧ブントのメンバーの多くが革共同に入りますが、私は革共同への合流に最後まで強硬に反対した者の一人でした(笑い)。
 革共同加盟の決断までには苦しみに苦しみました。60年安保闘争を全力でやったという自負はありましたが、ブントの小ブル急進主義的傾向は正しくないし、またプロレタリア党建設の立場がないという革共同からの批判は当たっていると考えるに至りました。意を決して加盟書を書き、本多延嘉書記長(当時)と会いました。この時、本多同志は一読して「わかった」と言って快諾してくれました。そして「すぐに政治局に入ってくれ」と言われてびっくりしました。すごいオルグ力でした。
 その後、学生戦線から東京北部地区委員会に移りました。65年日韓闘争の時に北部地区反戦青年委員会ができましたが、その拠点の豊島郵便局には橋本秀次郎さんを中心に多くの活動家がいました。それから東大付属病院分院の看護師たちの闘いがありました。オリジン電気の組合からは青年部活動家の大半が反戦青年委に結集しました。地区活動は非常にいい経験になりました。
 6710・8羽田闘争の直前頃は学生戦線に呼び戻されたような状態でした。日韓闘争時は東京の学生のデモも100人くらいで、機動隊に一方的に抑え込まれていたけど、それを転換させたのが10・8闘争です。ベトナム反戦闘争の一環で、当時の佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止するための羽田デモですが、計画的・意識的に準備して武装デモを決行し、こん棒と石で機動隊を蹴散らして装甲車を乗っ取るところまで徹底的にやったんです。この時、京大1回生の山崎博昭君が機動隊に虐殺されたことも、巨大な怒りの爆発を巻き起こしました。
 続いて68年1月に長崎県の佐世保で、米原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争がありました。私はその直前に現地入りして、日放労長崎分会長だった鈴木達夫同志に佐世保闘争の構想を話して、デモコースを一緒に下見して「基地に突入するならあそこがいい」と教えてもらいました。それから三菱長崎造船社会主義研究会の人たちが全面的に協力してくれました。そして当時の全学連委員長だった秋山勝行同志が現地で全責任をとってくれた。佐世保をあれほどの大闘争にしたのは当時の学生同志の力だったと思います。
 ----日大・東大闘争との関わりはどうでしたか?
 6811月に東大本郷キャンパス銀杏並木で、日大闘争と東大闘争の共同集会をやりましたが、その準備過程で東大全共闘議長の山本義隆君と喫茶店で会談しました。われわれは日大闘争に深く関わっていたので、日大中核派を代表するような形で話をして、集会を行うことを確認しました。東大の闘いはそこから一気に全国化しました。当時の運動の力が日大・東大の合流を実現したのだと思います。

破防法で非公然へ

 ----そういう闘いを経て、69年4月から非公然活動に入るわけですが、当時の状況や決意はいかなるものでしたか?
 沖縄闘争に対する破防法弾圧が直接の契機となるのですが、当時はベトナム戦争の出撃拠点とされている沖縄で本土復帰・基地撤去を掲げて闘いが高揚していた。10・8以来の闘いを全力で担ってきた私たちも沖縄闘争を闘う立場が問われました。他党派は「沖縄解放」などと言っていたが、沖縄の人々が本土復帰を求めて総力で決起している時、本土のスローガンがそんな抽象的で中途半端なものでいいのか。革共同は、沖縄の本土復帰闘争に全力で連帯し、共に闘って沖縄を奪還するという意味で「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」を掲げ、果敢に実力闘争を展開しました。これが本土でも沖縄でも一気に広がった。
 その突破口となった4・28闘争の直前に、本多さんが破防法弾圧で逮捕された。革共同をつぶし、安保・沖縄闘争を圧殺するという国家権力の意思が明確になる中で、このまま指導部を全員表に出しておくわけにはいかない。破防法下でも断固闘争を継続する、そのために党の非公然指導部をつくることが絶対に必要だった。それで私が潜行することになったのです。
 そして70年闘争後も非公然の指導部を堅持したことで、対カクマル戦争や80年代の三里塚決戦、国鉄決戦、天皇代替わりの儀式を直撃した90年天皇決戦まで、労働者階級の広範かつ根本的な支援・支持に支えられてとことん闘い抜くことができました。国家権力は何度も破防法の革共同への団体適用を狙いましたが、それをやったらもっと闘いが爆発するんじゃないかと恐れ、結局できなかったんです。
 こうした勝利の上に91年5月テーゼを出した。それまでの闘いの単なる延長ではなく、労働戦線の闘いに圧倒的に重心を置き、労働運動・大衆運動の展開と労働者細胞の建設に全力を挙げることを確認したのです。

菅打倒の巨大な学生運動を

 ----では最後に、今の若い世代に期待すること、学生運動に求めることをお願いします。
 先ほども話したとおり、革命的情勢の本格的到来を本物の革命に転化するためには、階級的労働運動の再生と発展、とりわけ職場から闘いを組織することに党の全力を集中しなければなりません。
 〈コロナ×大恐慌〉のもとで労働者階級に対する大量解雇、大幅賃下げ、総非正規職化、そして労働組合の根絶といった極限的な新自由主義攻撃が襲いかかろうとしている。これに対して、昨年の11・1集会で非常に豊かに示されたように、階級的労働運動を職場生産点から猛然とつくり上げていくことをもって反撃し、党がその先頭に立って労働者階級とともに闘う。そのことを通して初めて、「革命しかない」ということを労働者の一部ではなく、労働者階級全体の認識として獲得していくことが可能になります。革命情勢を認めるだけではなく、それにふさわしい行動を伴わなければならないし、そのための力量をわれわれが培っていかなければなりません。
 そのような党の基本路線のもとで、学生戦線はどういう任務を受け持つのか。単に「学生も労働者と同じだ」と考えるより、学生が学生らしい闘争を徹底的に闘って強力な運動をつくりだし、労働者階級の解放に向けて闘うということではないでしょうか。学生運動がそういう形で大きく社会的存在として登場することが、何より労働者に歓迎されるし、労働者にとっても力になります。
 そして、やはり学生運動に求められていることは政治闘争を徹底的に闘うこと、政治闘争の本格的発展を先頭に立って切り開くことだと思います。今の京都大学の闘いの意義は非常に大きく、この地平を踏まえて前進することが決定的に重要です。同時に、21年決戦の展望としては、日本の学生が菅政権の数々の悪政や改憲・戦争政策に対して、巨大な学生運動をたたきつける。60年や70年なんかちゃちなもんだと思えるほどの学生運動の爆発で、労働者階級との連帯をかちとる。そのような壮大な展望をもって闘うことが求められていると思います。
 労働戦線でもいま、マル青労同の同志を先頭にして青年労働者の闘いが本格的に切り開かれようとしています。
 ----昨年は本当に肌で革命情勢を感じる年でした。何より自分が10年余り活動してきた中で経験したことのないスピードで新たな仲間が全学連運動・マル学同に結集しています。彼らのエネルギーを引き出し、力ある運動を形成することのできる党へと飛躍できるよう、議長はじめ全党の同志と団結して私も全力で闘いたいと決意を新たにしました。今日はありがとうございました。

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清水丈夫同志のプロフィール
 1937年、神奈川県生まれ。高校生の頃に革命家を志し東大在学中に日本共産党に入党するも、58年に離党し共産主義者同盟に参加。5960年、全学連書記長として安保闘争を指導。61年、革共同に結集。本多延嘉書記長らと共に政治局員として指導的役割を担い、66年第3回大会では第2報告を担当。69年4月、非公然活動へ。97年第20回全国委員会総会で革共同議長に就任。2020年、革共同政治集会で特別報告を行い、公然活動に復帰。著書『清水丈夫選集』全10巻(既刊8巻)。

フォームの終わり




【ブログ注】ぜひ活用したいと…【以下引用】

2021
1 14 感染症法改正議論に関する声明

日本医学会連合などが「罰則」新設に反対声明 感染症法改正案巡り声明

☆公衆衛生学会 一疫学会

 
内閣総理大臣 菅 義偉殿
 厚生労働大臣 田村憲久殿

【ブログ注】ぜひ活用したいと…段落がほとんどないので独断で付けました。【以下引用】

 現在、検討されている「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(以下、感染症法)の改正案の一部として、新型コロナウイルス感染症の患者・感染者が入院措置や検査を拒否した場合などには刑事罰を与えること、感染に関する情報提供を拒否した場合にも罰則を科すことが、政府与野党連絡協議会資料に示され、一部で既に報道もされています。

 感染症法の基本理念(第2条)には「新感染症その他の感染症に迅速かつ適確に対応することができるよう、感染症の患者等が置かれている状況を深く認識し、これらの者の人権を尊重しつつ、総合的かつ計画的に推進されることを基本理念とする。」と書かれています。この基本理念の背景として、前文には「(前略)我が国においては、過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である。

 このような感染症を巡る状況の変化や感染症の患者等が置かれてきた状況を踏まえ、感染症の患者等の人権を尊重しつつ、これらの者に対する良質かつ適切な医療の提供を確保し、感染症に迅速かつ適確に対応することが求められている。」と書かれています。

 このように、過去におこった感染症患者に対する悲惨な差別的措置に対する深い反省に基づいて同法は制定されています。かつて結核・ハンセン病では患者・感染者の強制収容が法的になされ、蔓延防止の名目のもと、科学的根拠が乏しい中で著しい人権侵害が行われてきたという歴史があります。上記にも記したように現行の感染症法はそうした歴史的反省のうえに成立した経緯があることを深く認識する必要があります。

 入院措置を拒否するには、措置により阻害される社会的役割(たとえば就労や家庭役割の喪失)、周囲からの偏見・差別などの理由がありえます。現に新型コロナウイルス感染症の患者・感染者、あるいは治療にあたる医療従事者への差別も報告されています。

 これらの事態に対処せずに個人にのみ責任を押し付けることは倫理的に受け入れがたいと思われます。また刑事罰・罰則が科されることを恐れるあまり、検査結果を隠す、ないし検査を受けなくなれば感染状況が把握しにくくなり、かえって感染コントロールが困難になることが想定されます。

 かつて性感染症対策や後天性免疫不全症候群(AIDS)対策において強制的な措置を実施した多くの国が経験したことであり、公衆衛生の実践上もデメリットが大きいものとなります。

 罰則を伴う強制は国民に恐怖や不安・差別を惹起することにもつながり、感染症対策を始めとするすべての公衆衛生施策において不可欠な、国民の主体的で積極的な参加と協力を得ることを著しく妨げる恐れがあります。
 
 上記を踏まえ
 1)感染症法の改正において感染者の人権が守られ、感染者が最適に医療を安心して受けられる社会環境を提供することに最大限配慮すること、
 2)あらゆる感染症において国民の参加協力のもとに感染を適切に制御する観点から、患者・感染者の入院強制や検査・情報提供の強要に刑事罰・罰則を伴わせることは不適切であること、
 3)感染者やその関係者の個人情報保護に改めて最大限の配慮がなされるべきであることを声明として発します。

 また国民の参加協力を得て感染拡大を阻止する上で、入院勧告、宿泊療養・自宅療養の要請などの措置を行うにあたり、措置に伴い発生する社会的不利に対する補償(就労機会の保障、所得保障や医療介護サービスの無償提供など)を十分図ること、そして感染に伴う偏見・差別行為に対し毅然とした規制を行うことを併せて求めます

【ブログ注】

コロナ下で昨年も終えました。「地方の疲弊と地方の時代」は進行中。各地の話も伝わってきます。今年は「選挙の歳」でもありそうです。だいぶ時間が経ちましたが、斎藤政明さんの壱岐の島での選挙を載せてみました。

年始あけ、ゆったりした中でお読みください。この時点で斎藤さんは壱岐に移って10年とか。古くからの地元の住民と、島の外からやってきた「若い候補者」という組み合わせも意表を衝いて面白い。「ムラの選挙」ですがそんなところでこそ「何が常識か」じっくりと考えてもみたいところです。「コロナ下で浮き彫りになったこと」「コロナ下で緊急に求められているもの」「コロナ後の暫定的な社会像」もしっかり考えたいときですね。
 『ピスカトール』にも載りましたがもっと詳しい… 。昨年の作です。
 アップまでにだいぶ遅れまして申し訳ありません。

【以下転載】……… ……… ………

 

壱岐の市長選に挑む

67日に森俊介さんを応援した老若男女の手で「壱岐市長選慰労会」が催されます。島民にとってはこの上なく喜ばしいことに、森さんはこれからも壱岐に住み、事業を立ち上げ生活基盤を整え、4年後の市長選に挑む気持ちを固めました。この日の会で、森さんはその意思表明をします。今回の市長選の感想と4年後に向けた取り組みへの私見(メモ)です。老若男女との話し合いのたたき台になればと、彼ら彼女らに配布しているものです。ご紹介致します。斎藤政明拝

2020年4月12日 壱岐市市長選(投票率、約67%)

私たちが推した 森   俊介  7042

4選を目指した  白川 博一  7371

現職・白川(無所属、自公推薦)が森俊介さんに329票差で4

市長選を終えての感想とこれからの行動への私見(メモ)

白川市政がこれからさらに4年も続くことになりました。何とも無念で、やるせない気持ちです。が、ここで立ち止まっているわけにはいきません。この場に集う私たちの手で4年後には必ず森市長、森市政を実現しましょう。その話し合いの糸口になればと、本メモを作成しました。 先ずは、今回の森さん、それに4年前の武原さんの選挙戦で露わになったことをそれぞれ一つ取り上げる。

(A)(1)は、森VS白川の白川の陣形について

(A)(2)は、4年前の武原VS白川の市長選で露わになった壱岐に宿る心情について

 

(A)(1)VS白川の白川の陣形について

白川後援会(白友会)が新聞折り込みと各戸ポステイングしたチラシ「白友会だより」(A3表裏)は、これまでの、これからの、白川の、市政への立ち位置と取り組みのありよう、白川陣営の構造、それらの全てをあからさまにしていた。チラシの裏面には37日の白川の事務所開きでの発言者の氏名(写真入り)、肩書、各発言の要旨が紹介されている。発言者は、自民党壱岐支部長、公明党壱岐支部長、自民党県議、壱岐市議会議長、壱岐医師会会長、壱岐市老人クラブ連合会会長、国境離島民間会議会長、壱岐市漁業協同組合組合長会会長、長崎県建設業協会壱岐支部長の9名。白川の陣形を形作る政党と団体の長がこぞって登場する異様な有様に、今の壱岐の閉塞の状況の構造を、そしてこれからもこの息苦しい状況が続くと見た島民は多い。ちなみに、農協壱岐の会長は国境離島民間会議会長として発言しているので、ここに登場しない壱岐の主要な団体の長は商工会の会長のみといったところである。

壱岐に新しい風をと市長選に挑んだ森俊介さんは否姶なく、3期に渡って続くこの白川陣形に挑み、立ち向かうこととなった。

<余談>このチラシの表の面には、白川がこれから取り組む、論じるほどのこともない諸政策に、「青い海!澄んだ空!未来に残そう 子や孫に」のキャッチコピーが添えられている。社会的地位にある者を並べれば住民は平伏すとの思惑が溢れる紙面に、小学生が作るような(といえば小学生に失礼か)決まり文句を羅列したスローガン。チラシを見るたびに、寒々とした気持ちになる。

 

(A)(2)4年前の武原VS白川の市長選で露わになった壱岐に宿る心情について

4年前の市長選へ挑戦した武原ゆり子さんは、白川陣営の壁に加えて、さらに壱岐に宿る根深い心情とも闘わねばならなかった。 「壱岐日々新聞」に載った(武原さんの立候補を快く思わない同新聞社が作文したとも考えられる)「郷の浦在住の女性の投書」がそれである。大要は「壱岐の女性は日々、農業をし、子を育て、老親の世話をし、また地域の婦人部会員として敬老会の出し物の踊りの練習や地域の祭りの準備をしてきた。この苦労やそこにある楽しみを知らない島外からやって来た女性に壱岐の市政は任せられない」というものである。壱岐への移住は大歓迎するが、市政に口をはさむような活躍までは望まないという心狭い心情に依拠し、(投書の形で)島内の女性を島外出身の女性と闘わせる最悪の手法を用いて、「壱岐日日新聞」は武原さんの挑戦をおとしめる論を展開した。武原ゆり子さんの市政への挑戦は、白川との闘いのみならず、壱岐に横たわるこの根深い心情との闘いでもあった。 次に、(B)(1)~(5)で、上記(A)の状況に森俊介さんが挑戦した、今次市長選の渦中で見えたこと、感じたことをあげておく。

 

(B)()見えたこと、感じたことの全般的感想

今次市長選の感想を一言で言えば、森俊介さんは島の人々の心をしっかりとらえた。これに尽きる。35歳の森俊介さんはあるがままの自分を、それが今の壱岐市政に求められる核心であることを、キッパリと前面に打ち出した。森さんは、よそ者、若さ、会社の起業経験と経営の実績の三点を臆せずに大胆に掲げた。島民はその姿に、国からの種々の補助金を含めた市の年間予算(併せて約250億円を超える)を繰る市長・白川と彼の背後に控える陣形をベースにしたこれまでの市政とは全く異なる、しがらみにない新しい市政を感じ取った。森さんはさらに、白川の壱岐の市政は否定するも、壱岐の良さについては大いに評価し、その資源を生かす構想を高く掲げた。白川の壱岐市政はNOだが、壱岐はYES、これを鮮明に打ち出した。そこに彼の人間的魅力と発信力が加わり、これらの総和が、停滞から後退へとあえぐ壱岐の島民の心を短期間で捉えた。森さんはさらに、森市長、森市政が実現されればこうなるという姿を、島民との「意見交換会」という形で具体的に先取りして示した。2月の後半から島内各所で開いたこの島民の意見を聞く試みは、白川市政にはそもそもないものであった。森さんは、市政のよって立つ基盤は、白川が依拠するような陣形にあるのではなく、住民一人一人にあることを目に見える形で島民に示した。10人から40人の小さな規模で開催した島内4町各所での「意見交換会」を経るに応じて、「森って誰、何者?」から「森、いいじゃやないか」という声が上がり、やがてこの会の出席者を中心に、森さんを応援する行動が生れていった。以下で、その広がりを見ていく。

(B)世代による多様で活発な動き

(1)40代の「若者」が動いた

今次市長選の住民の動きの中で際立つものは、40代の40人ほどの(壱岐では)「若者」が誘い合って森支援に馳せ参じたことである。彼らは「ここで自分たちが森と動かなかったら壱岐に未来はない」とこもごも語り、集まってきた。彼等と打ち解けた間柄になって聞き知ったことであるが、昨年の12月半ばに森さんに市長選出馬を打診、口説いたのは、何と彼等だった。1月半ばに森さんから「出る」と聞いた一人は「10年に一度あるかないかの感動で体が震えた」と、その時の心情を語った。

話はそれるが、4年前の市長選の際、40代の面識のある「若者」から「自分には希望なんていうものはない。市長が変わっても壱岐は何も変わらない。投票してもしなくても同じ」と

いう言葉を聞いた。彼は農家を継ぎ、さらには現金収入を得るために、時には工事現場に出て働く、壱岐の根っこを支えている典型的な「若者」である。そんな彼の言葉に、これまでの市政は、彼に何の光も感じさせるものがなかったのだと、寂しい思いを抱いたものである。恐らくこの「若者」の気持ちは彼の世代に共通したものであったのであろう。4年前の市長選では彼の世代が選挙の前線に絡む姿を目にすることはなかった。もっと言えば、壱岐が2004年に市になってからの市長選挙で、今回のような「若者」の動きは皆無であったのではなかろうか。

話を戻すと、それが今次市長選では、件の彼の世代が「森と共にここで自分たちが動かねば壱岐の将来はない」と誘い合って立ち上がった。彼らの登場は、何よりも壱岐に宿る未来を感じさせてくれた。 彼らは皆、仕事をもっている。自営者もいれば勤務している者もいるので、事務所に勢ぞろいできるのは平日では夜の9時。その場で彼らは、森後援会のポスター張りから同チラシの全島各戸のポステイングに取り組む、相方、地域分担、それぞれに実施可能の日時を決め、ポスター、チラシを持ち帰り、行動に入った。

公示日の公設掲示板160余ケ所に森のポスターを張る作業は彼らが一手に引き受けた。

40代の活動に加え、20代、30代の男女数人も仕事の合間をぬって駆けつけ、後援会の宣伝カーの運転や事務所内での作業に加わっていたことも印象に残る一事であった。 

土日の事務所には終日、彼ら「若者」の楽しげな笑い声が満ち溢れていた。

 

(2) 女性が動いた

森さんの市長選出馬の名乗りに敏感に反応したのが60歳~70歳世代の女性たちであった。彼女たちの数人は武原ゆり子さんの選挙時の集会で見かけてはいたが、今回のように、女性たちが選挙事務所に大挙して日参し、連日に渡って集団で作業する姿を目にするのは初めてのことであった。都合40人ほどであろうか。この女性たちからも「ここで壱岐を変えなければ壱岐はもう終わり」という言葉を何度となく聞いた。全戸にポステイングするチラシを折り、全戸に郵送する12000通のチラシを封書型にし、公選ハガキ8000枚の住所を書く、これらの作業の8割方は彼女たちの手になるものであった。彼女たちはまた、公示前から投票までの10数日間は、島内の固定電話宅に、森さんの立候補の紹介、森さんへの投票依頼の電話かけをもこなした。選挙にかかわるこの女性集団のパワーの源は、森市政実現を通して壱岐の未来を切り拓こうとする希望にあった。彼女たちの奮闘ぶりを見るにつけ、武原ゆり子さんが先んじてなした挑戦が今ここに確実に受け継がれている、まいた種は見事な花を咲かせたと、感慨ひとしおであった。

 

(3) 70代の男性の奮闘 

選挙の要をなしたのは、ほぼ70歳前後の男性たち。彼らは、初登場の40代の「若者」たちの島内を駆け巡る行動、初登場の女性たちの献身的な実務作業とは一味違った分野で大いに力を発揮した。 

彼らは森さんを同道して、自分が住む地域の全戸の家庭を訪問し、森さんを住民と引き合わせた。地域の人びとから信頼される彼らが森さんを紹介し推薦したことは、地域住民の間に森さん立候補の話題を生み、次には森支持の会話が住民間で交わされる突破口となった。 

森さんの応援に集まった「若者」たちと女性陣をまとめ、その力を解き放ち、また各地の住民を森支持に向けていったのは、吉野誠治さんを始めとした70歳前後の老世代の男性たちであった。彼らは最も奥深いところで森さんの挑戦を支えた。

 

(4) 𠮷野誠治さん、武原ゆり子さんが切り開いた道を今や「若者」が進む。 

以上のB(1)(2)(3)に見る森さんの応援に動いた老若男女は総じて、8年前の市長選では2期目を狙う白川に挑戦した𠮷野誠治さん、4年前の市長選では3期目を狙う白川に挑戦した武原ゆり子さんを支持した、とみて間違いない。 

2氏の挑戦時に比べ、壱岐の人口は年年に漸減を続けており、今日では前2氏を応援した人たちの世代交代が加速しながら進行している。 

森さんの白川への挑戦は、この2氏の挑戦の流れをくむと言えるが、最大の違いは進行する世代交代下の挑戦であったことである。4年後にはこの世代交代はより加速して進む。 

こうした動きの中で今回、前2氏の挑戦時にはなかった、「若者」層が雪崩を打って森支援の行動に出てきたことの意味は計り知れない。森さんは前2氏が切り開いた道を進みながらも、この「若者」たちとさらに新しい道を切り開き、前へ進み、過去を越えたもう一つの世界を作り出した。 

ここに、これからの壱岐の希望を見出したい。森さんにはこの「若者」たちがいる。前2氏を応援した老世代男女は、今はこの「若者」に連なる位置に来た。

 

(5) 補足 コロナ下の選挙

今回の市長選はコロナ情勢下で闘わざるを得なかった。島内では314に最初のコロナ陽性者、45日には6人目の陽性者が明らかとなった。 

これで予定されていた、森さんの「意見交換会」は全て中止せざるをえなくなり、さらに以後は同会の設定そのものが不可能となった。また、3月後半に集中する各地域の公民館で開催される公民館総会、また各地の老人会総会が軒並み中止となったことで、森さんの挨拶の場がなくなった。私の属する老人会、公民館の各総会でも森さんの挨拶を組んでいたが、総会中止となり、それができなかった森さんは、「意見交換会」や各種総会の出席にかける時間とエネルギーを、公示前の戸別訪問に回せたと言えなくもないが、「意見交換会」や各種総会出席での交流が生み出すグループダイナミズムは生み出せなくなった。これは新人候補には痛手であった。 

白川はこの事態を逆手に取った。公示前も後も、島内放送で毎日3回「コロナ対策本部長の市長・白川です」で始まるコロナ対策報告を流した。電波ジャックで白川はコロナと闘う姿を島内全域に流し売り込みを図った。 

彼我ともに制約された選挙活動を余儀なくされた点では同じであろうが、新人候補には特段に重い制約下の選挙であった。 

投票率は前2回の市長選約80%10%強下回った。事前であれ当日であれ、投票所に足を運ばなかった多くは高齢者なのであろうが、この10%強の差がどちらの候補を利したのか。これは読めない。

(C) 2024年には住民の手で森市長、森市政の誕生を

(1)「森俊介さんを壱岐市長に 市民1000人委員会」を立ちあげよう

会の目的と内実はこの名称通りだが、ネーミングは考慮。例えば「森俊介さんと歩む 市民1000人の会」のようなものがいいのか。もっと泥臭い方がいいのか。名称はどうあれ、要は4年がかりで1000人の森支援者を作り、森さんを市長に押し上げる、恒常的な運動を開始しようということである。

*会の立ちあげの準備事項

呼びかけ文()

会員の年会費の確定()

呼びかけ文に添える連絡先(および気付け者の氏名)の確定 

この夏から一斉に署名取りの行動が開始できるペースで。

会員名簿の日常的集約と作成、会費の出入り管理(新規通帳)、それらの各担当者をおって確定などなど

 

(2)老若男女による三層四層の日常的な運動へ、途中に市議選あり

会の基本活動は会員の署名取りであるが、()

*なお、1年余り後の2021年の夏には市議選がある。()

 どの道を通るにせよ、全てのカギは、1000人の署名による森応援団の形成、実現である。

 

(3) 4年間で1000万円の基金を()

(4) いくつもの多様な森さんを囲む会を作ろう()

なお、これらの活動は、コロナの収まり状況のいかんにかかわる。状況に応じた活動が必要になる。

 

(5) 白川による次期市長の座の禅譲との対決 

白川には5期目(72歳になる)はない、白川は指名で市長の座を禅譲する、と見て間違いなかろう。巷間では山本県議に市長の座を譲るとされ、山本の後釜にはX市議ないしはZ市議を充てると噂されている。 私たちにとっては誰が市長選の相手になるかが問題ではない。4年後には、日本全体の劣化、白川市政の下、壱岐の閉塞、劣化はさらに進む。 問われているのは、相手が誰かではなく、深まる閉塞、疲弊する壱岐を変えられるのは森さんであり、森さんしかいないという声を、住民の共通の声にすることである。 

白川から市長選への出馬を指名された者が「出馬しても森には勝てない」という気持ちになる情勢を生み出しておくことである。()

これは必ずできる。森さんには7042票=7042人の人びとから支持が寄せられている。

補足

(1)()

(2)この集まりでは、市長選に際し、森さん、白川がそれぞれ発表した、市政の課題と政策に関しては触れなかったので、両者の政策の違いの核心をここで挙げておく。森さんは、壱岐の厳しい現況、壱岐の有する資源(可能性)を見つめたところから壱岐市政に求められる政策を提起している。対する白川は、国(官僚)が作った一般的な地域振興策のいくつかを援用して壱岐市政の政策にしている。両者の視点は全く異なっている。

 

その他の補足

コロナ情勢他(メールからコピペなど)先日の本多集会は、「帰島したらPCR検査を受ける」ことを条件に、老人会から上京を許されました。さいわい、「陰性」。壱岐島内のコロナ感染者として公表された人数は昨春8名。これでストップしていたが、年明けから7日までに一挙に52名の感染を発表。、半数が市職員とその家族で、彼らの忘年会で広まったのだそうだ。

(市民からは,り患した市職員に対して「だらしない」「高給取り」とささやかれているが、そうではない。市長と市の幹部が1218日に忘年会を開催。これを見て市職員が忘年会を開催、感染につながっている。組織は頭から腐るものである。)

 参考壱岐の地図
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=%2F83oIWgn&id=5DCFAB261C550253AD96D2BB522167527D8656AF&thid=OIP._83oIWgnzHx1BxqgrIaZ-gHaIL&mediaurl=http:%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-a4-e2%2Fgenkaiya%2Ffolder%2F1739162%2F40%2F16665440%2Fimg_0&exph=1500&expw=1357&q=%E5%A3%B1%E5%B2%90+%E5%9C%B0%E5%9B%B3&simid=608006153726984239&ck=082619FD67A9592F3AE109274FBB5BC6&selectedindex=0&form=EX0023&idpp=overlayview&ajaxhist=0&adlt=demote&shtp=GetUrl&shid=0161ddb0-0a5f-4ed4-bac1-74bebee237a3&shtk=5aOx5bKQ44Gn5pyA44KC5aSa44GP5L2%2F44KP44KM44Gm44GE44KL44Oe44OD44OXICgg6ZW35bSO55yMICkgLSDlo7HlspDjg5bjg63jgrAgLi4u&shdk=QmluZyDkuIrjga4gYmxvZ3MueWFob28uY28uanAg44Gr6KaL44Gk44GL44KK44G%2B44GX44Gf&shhk=TUftN0gN3VuaUX83QGhygm9gqGbZQVxOZyfeMQ2C%2BTw%3D&shth=OSH.hoNA1vaE%252FH8Z2ulSBpLvgQ





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