2022年05月

二か月前の元反軍兵士の小西誠さんの提言です。その後の戦況やもろもろの変動の前のものとして、当時としては「画期的」な意見の一つでしょう。
今日的には南東部の要衝・マリウポリに当てはめれば、それなりの共感を呼ぶのかも知れません。
私自身はいま、大いに揺れに揺れて、それ自体で疲れ切っている…
【以下転載】……… ……… ………

ウクライナ主要都市の緊急の「無防備地域宣言」を!|小西 誠|
note

2022326 09:49

ゼレンスキー大統領および欧州の首脳への提言!

ウクライナでは、連日のように「火炎瓶を作っている女性ら」が、美談のように取り上げられている。あるいは、国民の戦争動員や義勇軍の勇ましい風景が、メディアで喧伝される!

だが、これらのメディアは「市民の戦争動員」ということの凄まじい結果を、誰も考えようとしない。それどころか、日本のマスメディアを始め、世界中のメディアが、「ウクライナ市民の英雄的抵抗」としてキャンペーンする。

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市民らが、都市で武器を取れば「壮絶な、無差別の市街戦」になることは軍事常識だ。どんな強力な正規軍といえども、「市街地戦闘」には困難がつきもの。都市のビル(迷路のような建物)などは、絶好の要塞であり、トーチカである。

だから、ロシア軍の攻撃は、市街地戦では「無差別」になる(残念ながら「戦争の掟」)。

これを避けるには、市民の武装の放棄・解除はもとより、市街地からの「退去」以外にない。また、ウクライナ軍自体も市街地から退去しない限り、無差別戦闘は避けられない。古典的レジスタンスの「英雄的美談」を吹聴する時代は、すでに終わっているのだ。

このためには、具体的には、例えばキエフなどは「無防備都市宣言」を行い、全ての軍隊・軍事力の退去が必要だ。これは国際法に認められたもので、歴史的にも、アジア太平洋下のマニラなどで、実行された。

ウクライナの悲惨な市街地での、市民の殺戮を即刻止めるためには、繰り返すが無責任に「美談」や「悲惨」をキャンペーンするだけではいけない。

そして、ゼレンスキー大統領および欧州の首脳らへ!

ウクライナの美しい街、そして市民の犠牲を避けるために、ゼレンスキー大統領、そして欧州の各国首脳、さらに世界の知識人に呼びかける!

この戦争から、ウクライナの市民、そして街々を守るために、国際法にのっとり、キエフなどの主要都市に「無防備都市宣言」を出していただきたい。この宣言下の街々から、軍隊と武器を撤去していただきたい。

これは、「敗北」の勧めではない。「名誉ある撤退」の勧めである。1941年、フィリピン・マニラを守るために、マッカーサー将軍が執った英雄的行為である。東洋一という美しい街を守るため、マッカーサーは、マニラの無防備都市宣言を行い、コレヒドール島へ撤退したのだ(ウクライナの場合、例えば、リビィウへの一時的退去)。

I shall return.    I shall return To Kyiv .

この戦争の現下の戦況を考慮するなら、「知将」は、必ずこの「無防備都市宣言」の選択をするだろう!

*一刻も早く「ウクライナ主要都市の無防備地域宣言」を!
*ウクライナーロシア戦争の即時停戦を!

(参考文献『市街地戦』(陸自教範))

 

 

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拙著『オキナワ島嶼戦争: 自衛隊の海峡封鎖作戦』の無防備都市宣言の引用から

「先島諸島の「無防備都市(島)」宣言
 以上、見てきたような、政府・自衛隊の恐るべき島嶼防衛戦――島嶼破壊戦に対し、先島諸島の住民らはどのようにすべきなのか。いや、これはもちろん、先島諸島の人々だけの問題ではない。「海洋限定戦争」を通して、日本全体が、ひいてはアジア太平洋地域が巻き込まれる戦争だ。

 ここに筆者は1つの提案をしたいと思う。それは国際法上でも認められ、かつ歴史的にも宣言されてきた「無防備都市(島)宣言」を先島諸島の住民たちが宣言するということだ。

 この無防備都市宣言は、「特定の都市」がハーグ陸戦条約第 25条に定められた無防備都市であることを、 紛争当事者に対して宣言したことを指すものである。正確には「無防備地区宣言」と呼ばれ、特定の都市、地域を無防備地域(Non-defended localities)であると宣言することをいうのである(ジュネーブ諸条約追加第1議定書第 59条)。

 こういう無防備都市宣言を行った地域に対し、紛争当事国が攻撃を行うことは、戦時国際法で禁止されている。そして、「無防備都市宣言」を行う場合、この地域からは全ての戦闘員、移動可能な兵器、軍事設備は撤去されなければならないし、また、この地域で軍隊や住民が軍事施設を使用することも、軍事行動の支援活動を行うことも禁止されるのだ。

 つまり、「無防備地区宣言」とは、宣言する地域が軍事的な抵抗を行う能力と意思がない地域であることを示すことによって、その地域に対する攻撃の軍事的利益をなくし、その地域が軍事作戦による攻撃で受ける被害を最小限に抑えるためになされるものである。

 歴史上、無防備都市宣言を行った地域は幾多の例があるが、もっとも有名であり、かつ成功した例が、フィリピン戦争でのマッカーサーの「マニラ無防備都市宣言」である。この戦争の経緯は省くが、1941年 12 27日、マッカーサーはフィリピンに侵攻した日本軍に対し、マニラ市の「無防備都市宣言」を行い、米比軍の全てをマニラから撤退させ、マニラ湾の入口にあたるバターン半島・コレヒドール島に立て籠もったのだ。ルソン島の北西部リンガエン湾などに上陸した日本軍は、このため、フィリピン上陸以来のわずか 10日でマニラに入城することになった。

 言うまでもないが、マッカーサーがマニラ市の「無防備都市宣言」を行ったのは、東洋一美しいと言われたマニラ市とその100万人にのぼる住民たちを、殺戮と破壊・戦禍から守るためであった。そして、マッカーサーのその宣言によってマニラ市は、破壊からも殺戮からも完全に守られたのだ。

 しかし、1945年、 攻守は一転逆転したことは歴史の示すところである。1945年 10月、マッカーサーの連合軍は、レイテに上陸し、その後日本軍が上陸した同じ場所、ルソン島リンガエン湾から上陸作戦を開始した(1945年1月9日)。

 だが、 山下将軍の傘下にあった海軍マニラ防衛隊と陸軍部隊は、マッカーサーと対照的に「マニラ死守」を宣言したのだ。この日本軍の「マニラ死守」による凄まじい、地獄のような市街戦によって、東洋一の美しさを誇ったマニラ市は、徹底的に破壊し尽くされたのだ。マニラ市内に残る約 70万人の市民のうち、およそ 10万人が戦闘に巻き込まれて死亡(過半は日本軍の虐殺)し、 マニラ市街は文字通り廃墟と化したのである。

 「無防備都市宣言」は、事実上、紛争相手国の占領を無抵抗で受け入れることを宣言するもので、「降伏宣言」という主張がある。確かにそれは一面としては正しいだろう。しかし、現代世界において、「無防備都市宣言」を行い、文字通りの無防備の島々に対して、軍事的攻撃を行った場合、それこそ国際世論全てを敵に回すことになるだろう。

 もちろん、無防備都市宣言は、この宣言を行うだけでは事足りない。沖縄・先島諸島の人々が、この宣言を契機に中国の各都市と平和交流・文化交流・経済交流を深めていくとき、その平和は本物となるだろう。つまり、 先島諸島で「無防備都市宣言」を行い、実際に自衛隊配備を拒むならば、これは戦争を食い止める根源的・現実的力となるのである。

[参考]
*ジュネーヴ条約追加第1議定書第 59条「無防備地区」……紛争当事国が無防備地区を攻撃することは、手段のいかんを問わず禁止する。紛争当事国の適当な当局は、軍隊が接触している地帯の付近またはその中にある居住地で、敵対する紛争当事国による占領のために開放されているものを無防備地区と宣言することができる。無防備地区は、次のすべての条件を満たさなければならない。
(a)
すべての戦闘員ならびに移動兵器及び移動軍用設備が撤去されていること、
(b)
固定した軍用の施設または営造物が敵対的目的に使用されていないこと、
(c)
当局または住民により敵対行為が行われていないこと、
(d)
軍事行動を支援する活動が行われていないこと。
*ハーグ陸戦条約の第 25条「無防備都市、集落、住宅、建物はいかなる手段をもってしても、これを攻撃、砲撃することを禁ず」と定められている。

 

 

 

 


この間何度かコメントの投稿について苦情を書きましたが、読者からの指摘で、当方の間違いがわかりました。
投稿欄の最初の行に「白土」と出ていて、多くの人はただ、投稿欄にだけ注目して、そこに書き込んでいたということでした。

で、差し当たり
①できれば、「白土」の欄を空白にして、投稿をお願いします。
⓶まずはそのままの投稿も、文句を言わずに応ずることにします。できればそれと分かる形にしたいと思いますが、しばらくはご容赦ください。

天田三紀夫元書記長が逝去

   323日。葬儀も神奈川で。党員・本社からも参列。

1

 天田さんが亡くなったそうです

 介護から解放されて、木崎さんが復活するのを、現指導部が許すのか否か…

 それにしても、結局長生きした者が都合良く歴史を偽造していくんでしょうね

 清水さんの悪運の強さ、無責任さ、卑劣さ等を改めて思い知らされました

 

『前進』

 紙面ではだいぶ遅れて掲載されたけど、WEB上ではまだアップされない。

 で、一応、お知らせとして、アップします。

 

白土

天田さんにはいろいろありましたが、個人の話としては…


①私の前橋高校の先輩でもありました。

 1940年生。58年前高卒10回生。翌59年梨大工入学63年卒。石播就職,

 65(同労組?)の専従?

エンペディアに少し加えました。⇒天田三紀夫
 71年に私が神奈川に移籍した頃は、相鉄線の二俣川に妻子と共に住んでいてそこでよく会議をしていました。子どもを幼稚園に連れて行くのも彼の日課でした。中核派の専従になったのは6911月で逮捕·保釈後しばらくあと、という記憶です。(不正確ですが。それとエンペディアは未決拘留と下獄の区別もつかない?)

⓶山梨大は蛸足大学で、工学部には足がなかったのでしょうか?その後の拠点はたしか教育学部でしたね。
③神奈川時代は何かの折りに、「俺はお前のように高校や大学時代の実績もないからな」などと述懐していました。
 当時の私は子育ても含めて、「規律違反」の常習でしたが、怒鳴ってしかりながらも大目に見てくれたという気もします。
神奈川 「天田ってそういうとこあるよね」とは元神奈川の弁。「本社に送った白土、や事務局の女性、被青同の故・友野などにはけっこう気にかけていたね。ともに学生運動出身で。ま、労働者には向けられない怒りのはけ口でもあったらしいけど」

「獄中15年の川*にも敬意を払っていた」
  最古参 「あのヒラメ野郎」と嫌悪感むき出し。

「いつごろから『ヒラメ』?」

「前からだよ。特に常任になってからだな」「対カクマル戦で一気にのして昇りつめたんだね」 
 本社  「あのダメだめ」。いつも会議で言うのは「ダメだ、ダメだ」そして「金を集めろ」ばかりだった。

労対  人としてはまあそれなりに目配りも経験もあったと思う。嫌いなタイプではない。ただ、書記長になる器じゃなかったね。それが問題。当ブログでも書いていたけど、「労働者の党の神奈川」を体現する人でもなく、逆に清水氏やその取り巻きには「神奈川的」な面を疎まれたという不運もあったかな?

続きは後日。

まずは『前進』の追悼文にご注目。

【追記】
 タッチの差で『前進』がアップ。
 ただ、県委員長になったのは70年ではありません。この時期の県委員長は誰もが知る「お医者さん」          71年時点で天田氏は横浜南部地区委員長でしょう。神奈川の歴史に無関心な人の記事?
    

  1. 主張/理論 天田三紀夫同志を追悼する 革命的共産主義者同盟

 

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