【ブログ注】80年代の当時現役の革マル派の「世界観」が恐ろしいほど率直に描かれている。おぞましい。
段落はブログで付けた
Name: すえいどん(【注】趣味者の中心の1人) Date: 03/19 17:45 [4678]竹田先生(革マル)の回想に基づく78年以降の横国大情勢性の利用 >中核派は、78年9月以降、横国大を武装制圧し始めた。 そして、中共派の日本労働者党の協力の下、横国大を拠点化しようとした。1978年9月30日の文化系サークル連合の総会に出席するために全学連の学生は、9月29日の夜10時ごろに、横国大を武装制圧した。9月30日に総会に出席する事は、広く宣伝してあった。その日、中核派を来させないためである。 しかし、我々が大学を武装制圧した後に、中核派はやってきた。中核派は、我々と遭遇すると、トラックで、我々に向けて、突っ込んできた。トラックに2人がひかれた。1人は半身不随になり、学習院大学の同志・堀は、倒れている所を鉄パイプで止めをさされ、虐殺された。 10月1日からも、中核派は、機動隊に守られて、大学を武装制圧し続けた。そこで、革マル派は、10月の中旬のある日に、大学に登場するとの情報を広く流した。朝、大学構内に入った機動隊は、そこに居るのが、革マル派だと間違えて、中核派40名を逮捕した。機動隊に中核派を逮捕させた事は、革マル派の権謀術策の勝利だった。 1978年11月、僕は、2000人の学生を前にして、アジテーションを行い、拍手喝采を浴びた。その勢いにのって、僕達は、経済学部自治会を、翌年の1979年1月に再建し、当初、ノンセクト主導であった自治会執行部を、同年、6月には、革マル派竹内寿一を執行委員長とする執行部に変革した。 横国大学生運動の主導権は、43歳の革共同最高幹部・佐々木(北海道学芸大学札幌分校音楽科卒業、ピアノの教師、根本仁の盟友)の指導を受け、東京工業大学退学処分の佐野という現地指揮官に従う、10代の少年活動家の手に掌握された。 1979年11月16日の佐藤修平、小林智(北大生)虐殺事件で、野島三郎は失脚し、北小路路線の下、謀略追認路線にウジ虫は舞い戻り、1980年の東京工業大学7名の学生の虐殺をも追認するのである。 佐藤にとって、「内ゲバ」こそ、現代日本社会の矛盾を象徴するものであった。革マル派系学生が殺されれば、殺されるほど、闘争に決起するもの、革マル派の運動に参加する者が増加していった。 M(横国大工学部)は、同志・堀が横国大で殺された事を新聞で読み、親戚一同の反対を押しきって、横国大に入学した。松川は言った「人間は血を流して闘う事が必要だ」「横国大に血を流して闘う人が居る事を知って、自分も生命を危険に晒したいと思って、この大学に来た」 竹内寿一は、佐藤修平が虐殺された事を知り、自分も同じ道を辿ろうと決意した。僕も同じだった。佐藤修平の死によって、「いつ死んでもいい」と言う覚悟ができた。 1980年頃には、中原の後継者=狭間による滝口派に対するテロが続発した。狭間が精神病になり、学生解放派は分裂し殺し合いを始めた。 しかし、学生解放派両派の死者の多くは「知りすぎたスパイ」の抹殺を意図した権力の謀略部隊によって殺されたのである。 解放派のスローガンは「感性の無限の解放を!!」であり、「殴りたい時に殴れ、セックスしたい時にはセックスしろ」というものであった。解放派の女はヤリマンで、男子活動家の共同便所だった。女とやりたくて解放派に入った学生も多い。 解放派のメス青虫のオルグ方法は肉体オルグであった。性に関する純潔を求められる革マル派とは、正反対であった。ちろん、動労青年部においては、後輩を風俗営業店に連れて行く事が奨励されていた。しかし、同志間の恋愛には、指導部の許可が必要であった。 【以上転載】 【ブログ注】以下は「竹田 革マル」の検索結果から https://open.mixi.jp/user/15183261/diary/1939032186 https://open.mixi.jp/user/15183261/diary/1938671348 |