結末をまとめて、「党」に送った。
 あわせて、お別れの手紙を書いた。
 
 90年の「党改革運動」では、「通報の義務と権利」が大々的に語られていた。
 私はこの権利と義務をテコにして、数々の書状を書いてきた。しかし、通報の受け手が義務を果たしていない以上、私の権利も義務もない。以降、一切の指導を拒否する…という内容だった。

 同時に、私なりの組織論を書き連ねたのはこのときだったと思う。
 私との信頼関係で関与したWa氏への処遇は、私自身への処遇である。私が介入するのは、当然の権利・義務だ。私の関与を排除してWa氏との会見を拒否し続けた関西や「中央」の組織論はあまりにおかしい。「関西に隠れて」私からの報告を要請するのも姑息だ。党の現状がおかしいだけではなく、考え方自体が間違っている。こんな「党」に未練はない。

 内容的にはこんなことを書き連ねた。

 「緊急出頭」の時のAm氏の最後のことばに、「晩節を汚したな」といわれたが、それを「そっくりお返し」した。

 投函するのに数日待った。自分の腹を確認したいと思った。

 もっと正面きって関西に乗り込むことができなかったのか?
 「糾弾会」を逆に要請して臨むことはできなかったのか? 知り合いも大勢いたし、少々袋叩きに合っても何かになったのではないのか?
 自分は単なる負け犬なのだろうか?
 自分を信頼して親しく付き合ってくれた人々への責任はどうとる?
 自分は単なる腐敗した日和見分子だったのではないのか?

 あいつならこうしたろうか? あるいはもっと正面からやっていただろうか? あるいはこいつなら?

 「党による人民への襲撃・強盗」行為に立ち会いながら、むざむざと屈することへのやるせなさ…。

 ようやくすっきりした。私は私なりにやってきたのだ。「責任」はおいおいとるしかない。
 とりあえず、自由を取り戻したのだ。これからは、自分の意思と判断で生きることができる。それこそが「イスト」としての最低の生き方だ。良かった!      (了)