1      横浜南部地区委員会

この『前進』は配らない

 横浜南部地区委員は皆、若かった。当時私は24歳になる頃だ。古参幹部も30歳前だ。ペンネームはあえて「黒田」と名乗った。会議では多数決による「決議」が原則だ。基本はしゃんしゃんだけれど、時として中央方針に反対して激しい議論も起こった。
70年」は、階級闘争のうねりの中で、次々に新しい課題が形になった時代だ。民族問題・沖縄闘争論・女性解放・市民・住民運動……。新左翼諸党派にとっても、「綱領」そのものを根底から作り直す事が迫られていた。それを具現化しようとすればもっと大変だ。1度や2度の議論でけりがつく問題ではない。
 障害者解放闘争についての『前進』論文だったと思う。私は、「一体この筆者は、障害者の側から論じているのか、それとも健常者の側から論じているのか、サッパリ分からない」と言った。論争の中で、「今号の配布を俺は拒否する。シンパにも渡さない」と宣言した。先輩の真似をしたのだ。地区委員会指導部の天田さんが怒声で応えたが、翌日には互いにケロリとしていた。
 

「第2の7.7」と地域入管闘

 横浜南部では、私は「地区入管闘」の一員でもあった。70年7・7の華青闘(華僑青年闘争委員会)による糾弾に、革共同は「7・7自己批判」で答えた。華青闘は中国派(毛派)だ。党派闘争の赴きもある。それを乗り越えての自己批判だった。そして入管法(出入国管理法)改悪に対しては、「政治決戦」として闘った。
 しかし華青闘は、「政治決戦主義」への批判を強めた。「入管法改悪がたとえ阻止されたとしても、入管法体制はある。入管改悪法粉砕、入管体制粉砕だ」。そして、日常の中での民族差別への運動を求めた。
 「第2の7・7自己批判」の下、各地で地区入管闘が結成されていった。その頃、横浜市戸塚区の日立工場で「採用差別」事件が起こった。日立は「朝鮮籍」を理由に内定を取り消した。戸塚工場前で、私たちは弾劾のビラを撒き続けた。マスコミも取り上げた。
 
 ある時、私が書いたビラについて、地区入管闘の会議で徹底糾弾を受けた。日立工場の女性労働者は、「黒田さんのビラには『血債の思想』が無い」。私の必死の弁明は、女性たちの怒りを倍加させた。ようやく市職のキャップがとりなしてくれた。私はビラの最後に、中国人文学者の魯迅(ろじん)を引用していた。
『墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を覆いきることは出来ぬ。血債は必ず同一物で償還されねばならぬ。支払いが遅れれば遅れるほど、利息は増されるのだ』
「血債の思想」という言葉はここから生まれたものだ。
 
 横浜中華街。旧正月の夜、私たちはよく遊びに行った。龍神を追い、爆竹を路上に投げつけ、うろついた。中華街の小さなブティックは、『前進』を置いてくれた。場違いのようだが、ここでは絵になった。
 
朝鮮総連や韓国居留民団のそれぞれで闘いと内紛がうねっていた。もみくちゃになりながら、みんな必死に考え、闘った。
地域入管闘は、職場・地域の社会生活に根付いてこそその本来の役割を果たす。行政・企業を動かし、民衆の差別・排外を克服して受け入れる基盤作り、労組・地区労や商工会議所・町内会と連携した「世話役活動」にも精通しなければならない。共に糾弾闘争に参加することに留まることは出来ない。
課題はとてつもなく大きい。課題に即した党派政治の枠組みもゆくゆくは課題となる。それが「第2の7.7自己批判」なのだと思う。
対革マルの内戦激化の中で、「在日との接触の厳禁」が指示され、地区入管闘も解体されていく。
当時の入管法は、戦前から日本に住む人々までもさじ加減で「国外退去」を可能にしている。「煮て食おうと焼いて食おうと勝手」な非人間性に貫かれている。在日のある人は、「過激派と接しようとすまいと、オレたちは入管体制の下にある。破防法も同じだ」と言った。
後日、日立の採用差別での原告勝訴の記事を見た。
 
コラム 7・7自己批判
70年安保・沖縄闘争の中で、諸党派とともに華青闘が隊列に参加していた。その統一戦線の会議の場で華青闘が「抑圧民族の傲慢な姿勢」を徹底的に批判し、共に闘う仲間と認めることは出来ないと退場した。中核派は批判を受け入れ、「抑圧民族と被抑圧民族」の区別を明確にする立場を確立した。7・7は1937年7月7日の盧溝橋事件、中国侵略の本格的開始の日。
「たとえ闘う人間であれ、共産主義者であれ、その存在として、私たちは抑圧民族の一員として刻印されている」。この認識は、沖縄県民に対する「ヤマトンチュ」、被差別部落民に対する「一般民」等々として普遍化された。「差別者の一員として、差別主義と対決しのりこえる」という。
「知らないことの罪」「無関心と言う罪」、「踏まれたものの痛みは踏まれなければ分からない」等々。
「非抑圧民族の生活と闘いから学ぶ」、そこから自らを発見しなおすこと。糾弾を受けつつ成長する。非抑圧の解放主体としての存在を承認する。
けれども私たちの世代は、青年期に郷里を離れ、日々の巨大な変化の中で、親子間・世代間の継承を欠いた断絶の世代でもあった。乗り越えるべき歴史や自らのアイデンティティの不確かさを、どう見つけ出すことができるだろうか