1      転属と離婚

 1978年、互いのテロと三里塚ゲリラは128件、75年以降のピークを迎えた。この年私は編集局に転属した。転属の直前、妻が差し出した離婚届にサインした。神奈川支社に帰って、天田さんにその事を告げると、彼は絶句した。
 任務配置のスケジュール決定で、私は往々にして、「家庭の事情」を理由に、日程の変更を求めていた。週に2~3回、オムツ洗いや……。保釈金問題でも、「妻への負担はおかしい」と申し出たが、中央からは無視された。間に入った天田さんが、県の負担として月々返してくれた。私だけが事あるごとに、「家族」を主張していた。その私が、転属を前にして離婚した。
転属自体、私の意に反したものだった。天田さんによれば、「今まで何度もお前を指名して、中央から要請があったが、断って来た。行きたくないのも分かる。しかしこれ以上は断れない。しかも編集局だ、やりがいのある所だ。命令だ」。
私はもう断れなかった。そして、自動的に判をついたのだ。3つになった幼子の顔を見る事なく、私は家を出た。
 何故?本社は、私にとってあまりに異質な空間だった。任務で本社に行った時の殺伐とした空気、学生出身者特有の……生活感の欠落、社会性の欠如、そして芝工大事件をめぐる亀裂……。
同志的友愛の情で家族を支え合っていく事など、夢の夢に思われた。活動をやめる、という選択肢はなかった。職場を辞めた時から数年、「働く生活」への復帰も希求も断たれていた。「対革マル戦をやり切るまで」と心に念じるのが精一杯だった。
私と同時期、同じ部署から非公然部門に配属が決まったKがブーイングした。「何で……いつも損をするのは俺かよ」。私は多分、ニタリと笑って返したのだと思う。彼は、自らの意思をハッキリと表明する人格でもあった。
 
神奈川に移ったとき私は横浜南部の区の地区委員だった。しかし本社に移る時は、センター専従の班キャップだった。同じ専従活動家でも、県委員がなる「常任」ではなく、その下の「専従」だ。
 私と同期、就職せずに反戦に移行した「元学生」は、それぞれ県委員会の1員(常任)として、地区のキャップになっている。大分「差」がついた。内戦下、規律破りを重ねて自宅に通い続けて子育てをして来たから、そんなものだ。
 当初、横浜南部のキャップも、職業は労組の専従書記。県委員長は、医者だ。「職革(職業革命家、党の専従)の党」への移行が急速に進み、県委員長になった天田さんも、国立大を卒業して、それまでは労組の書記だった。その頃は、朝1番、我が子を保育園に連れて行くのが日課だった。世知に長けた人だ。
職を辞して「職革」になり、県委員(地区キャップ)になる人も少しづつ出てきた。専従になった当初、私は西湘地区の会議に出ていたが、キャップは同期学卒で職場体験を経ていた。
 

バイクと職質

 横浜は坂が多いし、バスも使い勝手が悪い。バイクに乗ると気分も爽快になる。『前進』を何部も積み込んで、シンパ宅を駆け回った。バイクは、関内近くの川辺に置く。人目も少ないし、センターへの出入りは徒歩でいい。けれど、ひと気の無い所だから、2日連続して放置すると、ミラーやパーツが奪われている事がよくあった。治安が悪い。
 ある日私は、バイクの置き場に近寄って、職務質問に遭ってしまった。明日は法政の動員だ。私がぶち込まれたら、大穴が開く。どうせこの地区のパトロールだ。私は、住所・氏名を言い、10分後、確認が取れて解放された。
 センターに帰り、天田さんに報告する。天田さんは怒鳴り付けた。「お前、同じ事をやったら除名だ」。私は「だって……明日は戦争だよ」と言ったが、もうダメだ。「戦争に穴が開こうが、何があろうが完黙は完黙だ」。

 原則的な、あまりに原則的な命令に、たとえ党の死活が係ろうとも、従うしかないのか?編集局に移行が決まる直前の事だ。他方で、保釈中のメンバーが地下にもぐり、「保釈逃亡」がマスコミでも話題になっていた。

 
いつだったろう?本社で、神奈川出身の女性と話していた。「私たち3人は、よく天田さんに怒鳴られていたよね」。えっ、そう?」。「うん、多分、天田さんのはけ口だったのだと思う。彼は労働者には怒鳴れない人だから溜まっていたのだと思う…」。うーん。