1      「高次段階」論の前提

「先制的内戦戦略の高次段階(PⅡ、フェイズⅡ)への突入」。大論文だけれど、誰も意味が分からない。マオさんの『革命的組み換え』論文で、みんなようやく少し分かりかけてきた。「2重対峙=対革マル戦」から、対権力闘争を第一義的な課題として闘う、という事か。
 対権力の革命的武装闘争に突入する。その下で、一部、大衆運動での凍結を解除する。対革マル戦も、その下でより本格的なものになる、そういう理解だったと思う。
 けれどみんな、よく分からない。対革マル戦はすでに総反攻のただ中だ。……東工大での5人完全せん滅は、戦争として彼我の差を決定的なものにした。「さらに進め」ではないのか。
 水谷さんの解説だったろうか。確かに革マルは戦意を失っている。「謀略」論による自家中毒も深刻だ。けれども、その勢力は衰えてはいない。若い世代を獲得し、今や動労本部も握った。教労その他の勢力も侮れない。中核派は陣形を立て直さない限り、「3頭目処刑」も「敗北する全革マル成員の総せん滅」もあり得ない。敵もまた、反革命的「人民の海」にいる。
 党は対権力・対革マルの2つの非公然軍を持つ。さらに公然の軍(行動隊)の下に、大衆領域へ打って出よ。さらに反軍工作を加えれば、蜂起の陣形は完結する。対権力闘争を通して、革マルを大包囲するさらに巨大な陣形を勝ち取ろう。
 何の事はない。革マルの勢力・態様への認識が、全く違っていたという事か。
『前進』1面の路線論文の書き方も変わった。第1章 対権力、第2章 対革マル……。
「対権力の革命的武装闘争の戦取」について、私は甘く捉えていた。「少しは大衆運動にとりかかれる」という思いが先に立った。
 

2      三里塚Ⅱ期決戦

三里塚実行委の盛衰

 近づくⅡ期攻撃に備えて、三里塚実行委員会が結成された。当初実行委は、中核派主導の統一戦線を目指していた。そしてその外に、より広大な共闘もある。課題は三里塚、そして動労千葉のジェット燃料輸送阻止闘争の支援だ。
 全国実行委の世話人に、10人の人士が並び、表のトップの北小路さんが出席する。ここの決定が最終決定となり、各地の実行委へ下される。私は実行委担当も兼ねた。取材の過程で初めて、世話人の人々の素顔を知った。
 宗教評論家の丸山照雄さんは、真宗本願寺派の同朋会運動に深く関わっていた。同朋会は、真宗の戦争責任を問い、部落差別の責任を自ら問う運動でもあった。本願寺派の謝罪決議を生み出した原動力となった。
 各地の実行委の世話人も、多くの人士で形成された。これらの世話人で成り立つ実行委運動の広さと豊かさを、私は充分に伝えたとはとても言えない。
 問題は「党」だった。行動隊の下、軍事編成された街頭宣伝隊は、道行く人になじめない。マイクの訴えも空を切る。
それでも、少しずつ少しずつ、変わって行った。動員力も増えた。組合で共に現地に参加する人も増えた。けれど組合旗を持って大衆動員に成功した所は、権力のガサと革マルの集中砲火を受けて自壊してしまった。
 
問題は『前進』だ。三里塚の反対同盟や動労千葉や解放同盟・荒本支部、そして各地の実行委を除いて、せっかくの運動を記事に出来ない。三里塚の記事でも他党派の存在すら無視する『前進』が讃える運動は、即ち中核系だと自己暴露する事になる。もちろん、非党派の住民運動や市民運動は、目玉記事ではある。やはり「人民の闘う砦・三里塚」だ。
 関西に飛び、実行委運動の展開を記事にした。渋る常任を口説いて、日々の活動を取材する。それをまとめて連載「広がる渦」に載せた。「これを見ると、関西も意外と頑張っているよな。見直した」。常任さんの感想だ。自分の闘いへのニヒリズム。これを解きほぐさなければ。
 
83年の「三里塚3・8分裂」の後も、世話人会はわずかに持ち堪えた。けれど、2波・8人の、第4インターへのテロに抗議して、世話人会は最終的に崩壊してしまった。地区の世話人会も大同小異だろう。
 後に残るのはただ、純粋中核派系の大衆動員組織だけだ。動員力は少しずつ伸びたものの、Ⅱ期決戦を闘うにはほど遠い。三里塚陣形の「豊かさ」も消えてしまった。「書ける記事」もさらに狭まる。
 
破防法に反対する人権と民主主義のより広範な陣形の獲得のため、『破防法研究』も改題された。しかしその第1号は、そのまま絶版になってしまった。投稿に応じた人士の中に、三里塚の脱落派(熱田派)の人がいた。また、アジア女性基金での「裏切り者」がいた。
 これで良かったのだろうか。様々な矛盾を抱えた幾重もの統一戦線。「党」というものは、そこで股裂きになりながら、体を張って堪える。そのためにこそ「党」があるのではないだろうか。「党の一体性」とは、この悩みを分かち合える人々の集合ではないのだろうか。第4インターへのテロルとその思想は、どこから生まれてしまったのだろう。
 

動労千葉

 片肺空港のまま、開港に向けて政府公団が突進する。それを阻んだのが、ジェット燃料輸送のパイプライン施設問題だった。千葉市花見川の住人たちは、「危険なパイプラインが住居近くを通る」事に反対していた。彼らもまた、三里塚集会に結集していた。
 78年5月、ジェット燃料の貨車輸送が始まった。闘いのさ中の79年3月、当時の動労本部・革マルから独立する。鉄道を使って、当面開港に間に合わせる。三里塚に参加する動労千葉にとって、死活・存亡の瀬戸際だ。
 
私は写真班として派遣されていた。いざ決戦の序章、実際に貨車を走らせてみる線見訓練の時、組合員に付いて私も機関区の中に入った。機関士が1人、職制に囲まれて立っている。機関士が職制に「スト」を通告する。タラップを下りて来る、その晴れやかな顔を撮りまくる。
闘いを準備する青年部集会の決意表明を聞いた。親組合の方針を1つ1つ噛み砕くように、自分の言葉で語ろうと葛藤している。そこに、真摯な思いがにじみ出る。
支部の組合員オルグも覗いた。乗務員控室だったか。ストーブの脇で、支部の役員が組合員と1対1で話し合う。時に中野委員長の言葉を、そして時に自分の思いも込めて語る。組合員はほとんど無口のままだ。信頼・不安・熱意……。わずかな表情の変化に出るだけだ。闘いの時、彼らは1人で職制と向かい合わなければならない。その決意を固める場所がここだ。気の遠くなるような、1人1人のオルグを経て、決戦は準備されていた。
 
 学んだ事は多い。1つは、高石闘争[1]以来の運転保安闘争だ。三里塚と連帯し、開港を阻むこの闘いも、「危険な輸送反対」という運転保安と固く結び付いていた。運転保安の闘いと熱意があったからこそ結びつけることが出来た。
 2つ目は、労農同盟。組合員の1人は、反対同盟の家族だった。組合員1人1人の利益と結合して、組織内問題としても労農同盟はあった。
 3つ目は、撤退のための闘いだ。動労千葉本部が、ストを中止して「ハンドルを握る闘い」「鉄路を支配する闘い」への転換を決めた後、実際の撤退まで、数ヵ月をかけていた。
 決起の時と同じかそれ以上に、組合員1人1人が納得するまで、丁寧で熱意を込めた説得が続いた。「これは裏切りではないのか」、「動労千葉はまた闘えるのか」。説得の役割もまた、支部の役員1人1人だ。
 反対同盟がもし、動労千葉を裏切りと呼んだならどうなっていたろう。この点では、反対同盟への中核派の影響力の大きさを抜きに、動労千葉の整然とした後退はあり得なかったと思う。戸村委員長のひと言が、流れを決めた、とも言える。
パイプラインが供用を始めた83年8月まで、動労千葉の組合員は悶えながら、成田空港へ燃料を輸送し続けた。動労千葉は潰れなかった。
 

 

[1] 高石闘争。72年の船橋事故で処分された高石運転士の処分撤回闘争。「事故の責任は当局にある!」。高石闘争は反合・運転保安闘争をレベルアップさせ、動労千葉は、「全国1」の労働条件を獲得した。
[2]POSB。諸機関・諸戦線・各地方委員会によって構成される。調整・執行と政策立案の両面の機能を持つ。