市東さんへの暴行

84年9月27日、成田用水阻止闘争。座り込む市東さんを乱闘服の機動隊が取り囲む。周囲にいるのはマスコミだけ。支援は排除されている。私は、外周を守る機動隊を「報道だ」と叫びながら突き飛ばして中に入る。

業を煮やした機動隊が市東さんを殴る。シャッターを切ったが、うまく撮れたか不安だ。小突き続ける機動隊。指揮官を指しながら叫んだ。「殴れ!殴れ!もっと殴れ!」。叫びながら、カメラを構える。指揮官は呆然としている。いくら私服とはいえ(公安!)、そんな指示があるものか…。

数分間シャッターを切り続けるうちに、ホンモノの私服が飛んで来て、したたかに打ちのめされた。「フィルムを抜け!」と叫んで襲いかかる私服をかわしてようやく脱出。「報道だ!報道だ!」という叫び声が功を奏したのか。現場を離脱して、帰途につく。闘いはこれからが本番だが、私の任務は終えた。
後日、市東さんに焼き付けて渡した。「よく撮れてるな、貼っておこう」と喜んでくれた。紙面には、殴打の瞬間は載らなかった。血を流しながら胸を反らす姿の方が良い。
 

「報道」の腕章

デモ隊が機動隊の阻止線に突入する――という方針が決まった。カメラマンは私と△△の2人。この場面をどう撮るか。温めていた構想のチャンスだ。拾って隠しておいた「報道」の腕章を写真に撮り、記章旗の店に持っていく。同じ色・同じ文字で、10本を注文した。色がぴったりの布地が無いので、「似ている青」で我慢した。
 
 当日。デモ隊が12列のデモに広がって、機動隊と対峙した。慌てふためく機動隊の盾や警棒が、異様な音を立てる。マスコミも、道端から双方を追う。
 ワッショイ!ワッショイ!腰を入れて気勢を上げるデモ。にらみ合う10mほど。その中に飛び込んだ。機動隊の直前から、デモ隊に向かってカメラを構える。超広角レンズでワイド画面。球面収差で、両端はせり上がって映るはずだ。長い時間に感じた。カメラを覗いて数枚、地面スレスレのローアングルで数枚、狙いに狙ってシャッターを押した。
 突然、道路端の私服が叫び出した。「刈谷だ!中だ!カメラを取れ!フィルムをとれ!」。
「報道」の腕章をしたカメラマンに襲いかかる、「帽子・サングラス・マスク」の男たち。今度はマスコミ記者たちが、フラッシュを集中させる。ボコボコにされながら、何とか脱出。フィルムは守り切った。撮影済みのフィルムを助手に預け、腕章をはずして現場に戻った。
「デモの1員として中から撮るか、デモを被写体として捉えるか」。70年に、若者たちの議論があった。しかし「従軍記者」にとっては、無縁の議論だ。
 
三里塚、北原事務局長が呼びかける。「マスコミの皆さん<報道>の腕章をはずして下さい。そして各社の腕章を着けて下さい」。
しかし、会場内をうろつくカメラマンは従わない。「カメラマンの皆さん、ここは反対同盟の敷地内です。警察=公安に渡された<報道>の腕章で取材することの意味を考えて下さい。マスコミとしてのプライドを捨てないで」。外国人カメラマンたちは、最初から社章つきだ。
寸又峡事件[1]の時の記者たちの、警察への協力は忘れる事は出来ない。
 
 
写真班のキャップは、デモの写真を改造する。何枚かの写真から、ヘルメットを切り取り、貼り付ける。青や赤のヘルメットを白に塗り替える。私の反スタの原点は、スターリンによるトロツキー抹殺のための、「写真の偽造」にあった。こうして歴史を偽造する、こいつの反スタはどこにあるのか、と憤る。
けれども軍令的指示だ。私も何度も何度も、同じ事を繰り返す。集会では、撮影場所の近くに人を集め、ボリューム感を出す。赤ヘルが邪魔な時は、赤のフィルターを使い白ヘルに変える。[1]
 

写真パネルの販売

カンパが底をついてきた。支給額も不足したまま。その上、社防その他でカンパに行く時間もない。
 「使用禁止」や、東峰団結会館の強制撤去をめぐる、写真のパネルを作った。鳥かごと放水、立ち木に体を絞りつけた戦士、そして血を流して座り込む市東さん。感動の場面を再現するパネル集を作り、街頭宣伝に使おう。インパクトもあるはずだ。
実行委運動の最盛期、思いついて企画を立てた。1式10枚近くで○千円、見本の他にベタ焼も付けて、希望のコマを選んでもらおう。勝手に企画し、全国・地区に予約を募った。特に狙い目は、東京実行委と各地の大学だった。
「どうしたんや?編集局は、何か変わったの?」。関西のキャップが声をかけて来た。「イヤ、金儲けさ。自分の活動費を捻り出す手段を考え付いたのさ」。「ム。それにしてもいい事だ。地区の要望に応える編集局はうれしいヨ。中央も変わったのかね」。
 暗室での作業は意外と難しかった。安い電球では、極端に拡大すると、中心と周辺の光量の差が大き過ぎた。覆い焼の失敗作が山となった。それでもやり遂げた。
 すでに地区の財布は底を突いていたようだ。「パネルで街頭カンパも増えるから」と力説したが、地区のキャップたちの反応は良くなかった。「上納金が増えるだけ」という冷めた奴らもいた。東京実行委が、好意的に応えてくれた。数セットをまとめ買いして、有料貸し出しすることになる。
注文が狙いより少なく、初期投資(失敗作)が比較的大きく、小遣いは2万円ほどにしかならない。
 


[1]寸又峡事件。68年、在日韓国人2世の金嬉老(キム・ヒロ)氏による殺人を発端とする監禁事件。寸又峡温泉の館に宿泊客を人質として篭城し、警察官による在日コリアンへの差別発言に謝罪を要求した。テレビ等で実況され、社会的に衝撃を与えた。最後は、記者団に紛れた警察に逮捕された。大規模な弁護団が結成され、日韓の政治問題にもなった。99年に韓国への出獄を条件に仮出所。事件時、共産党は3億円事件とともに「犯罪者に共感を示すマスコミ」を繰り返し非難した。