婦民全国協

84年、婦人民主クラブが分裂し、佐多稲子さんらの「本部派」に対抗して、全国協議会が結成された。三里塚と男女雇用均等法への対応が、分裂の理由だと聞かされた。北富士集会に、旗を林立させて登場した全国協の隊列に、私は感動した。
私は女性運動の現状については、ほとんど分かっていなかった。80年以来の「戦女(戦争への道を許さない女達の集会)」の話は、ずっと後に聞いたくらいだ。優生保護法改悪反対闘争などの実践も、当時はほとんど知っていなかった。
けれども「分裂してまで」という思いも強かった。「単なる中核派の女性運動になってしまうのでは」という危惧があった。原水禁運動の分裂の歴史を繰り返すのではないか。多数派の共産党が、数年後にはスッテンテンになった事を知っていた。大阪の代表となった女性の「石けん運動」のアピールを聞いて、少しはホッとしたけれど……。
社防室にいた時、全国協の代表的女性に話を聞いた。開口一番、「佐多婦民(本部派)は、反共に転落したんだ」と言う。「彼女たちは、『社会主義になっても女性の抑圧は変わらない』と言い出した」。「えっ」と私は聞き返す。「中核派の女性解放論は『社会主義』でも差別は残る。だからこそ……じゃないの?」。
しばらく議論した後、彼女は私の日和見主義に愛想を尽かして行ってしまった。三里塚での対立なら、「独自行動」をとれば済む事ではないのか?聞けなかった。
「路線主義」下で10年、婦民戦線もまた、原点を失ってしまったように思えた。『レーニン最後の闘い』という反スタの原典的書物を、あなた達はどう読んだのか。当時の諸戦線担当の政治局員は梶さんだったと思う。