24      下獄と本社生活

下獄

 85年の7月か。77年の5・29鉄塔決戦で1年有余、横浜・上大岡の刑務所に下獄した。通称「笹毛」。前科は2犯だけれど、救対の指導通りなら実刑はなかった。しかし元々、木の根団結小屋などへの義理で闘ったものだ。裁判方針でも、彼らに付き合った結果だ。
 救対メンバーの「養子」になるという方針は蹴った。当時、受刑者は親族以外との接見を許されていなかった。たとえ獄中の接見確保の為の方便とはいえ、「私の姓」を変える気はなかった。私は亡き父母の子だ。私は「私」だ。獄中体験の先輩にも相談して、共感を得た。
 かつて5・29の半年を超える拘留中、私は妻に手紙を書き続けた。当時の決定に従って、手紙は救対の点検を介して妻に届けられた。手紙の中で私は、子どもの誕生日に自弁で弁当をとり、祝った事を書いた。それを評して、救対指導部が「こいつはゲロする、転向する」と断言したと後から聞いた。こんな奴らの顔を獄中でまで見たくもない。
「実刑を避ける」事に汲々としていながら、「仮出獄拒否」の大原則、これも納得できるものではない。結果的には悩む必要もなかったが……。
 私は懲罰房の常習者だった。脇で作業する同囚と話しては、「ヘラ()を働かせた」と挙げられた。作業中の会話、脇見、サボは懲罰房送りだ。階級も下がってしまう。その傍ら、毎日の会話をせっせと書いて、大学ノート数冊分になった。仲の良かった窃盗さん。元デパートの店長さんとは、シャバで2回ほど飲んだ。姉の子育てのために中卒で働いたテキ屋系の暴力団組員とは、「団結の必要、労働組合の必要性」で一致した。
 厳寒の木工場では、1m先を歩くイレズミ男の体温に温められた。朝鮮大学卒業の組員とは、金日成の世襲制を論じ合った。「日本の天皇制と同じではないか。北には、他に人材はいないのか?」――「もちろん居る、居るはずだ」。
 私の受刑者番号は2千*番だった。「笹毛の2千番台」は、「政治犯」の事だと懲役は知っていた。「お前ら『担当』(工場の看守)とは反目(はんめ)だろ」。木工場に出て間もなくのこと。5分の休憩時間に、ヤクザ、詐欺師やみんなが私の所に寄って来た。三里塚では機動隊との大激戦があり、直後には浅草橋駅が炎上していた。「お前らすげーな」。私は一躍、英雄中の英雄になった。
 よく、「鳩」が飛んで来た。他の工場から「第10工場の2千番とは誰か、党派はどこか」と問い合わせが来た。互いの安否を伝え合う。工場対抗の運動会では、お互いに対立する応援団員だ。互いに目を合わせながら、「フレー、フレー」。
 学習用にはレーニン10巻選集と、フィリピン本を持ち込んだ。ノートをとった。レーニン本は後日、「レーニンを読まないレーニン主義者」との闘いの武器になる。フィリピン国立歴史図書館長、レナト・コンスターティノ氏の「フィリピンの歴史」全17巻は、フィリピン問題の域を超えて、歴史や社会認識や闘いの視座を教えてくれた。
 出獄後、療養を兼ねて運転免許合宿に行った。本社からも遠いし、「社会人並み」の資格も取れる。1石3鳥だ。
 

D隊に志願

 本社を支える礎は、印刷工場とD隊(ドライバー)だ。私は時間を作って週に1~度、D隊に志願した。「前進社」の100m先に、1台のワゴンが常駐し、私服が張り付いている。歩いて出ようものなら、どこまでも追いかけて来る。時には「職質」と称して「任意同行」が強制される。もちろん革マルの追尾もある。
 だからホロトラに乗り込んで出る。尾行の車を切って、解散地点で1人1人散る。「出社戦争」「散」だ。「出社」の用語がおかしいけれど、「本社生活」を中心に考えての言葉だ。
 本来のD隊に、コースプランを点検してもらい、最初は助手席に乗ってもらって走り回った。「刈谷さんの車には乗りたくない」と言う声もあった。「急発進・急ブレーキ・急カーブ、みな酔っちゃうよ」。「知った事か、こっちはペーパードライバー様だ」。せっかく取った免許証。多くの人が免許を取りながら、尻込みしてフイにしていった。
 
 気休めが欲しい時は、工場に出向いた。「印刷工場メンバーは労働者扱い」という位置づけで、おっとりした生活空間が曲がりなりにもある。世間話をしたりテレビを見たり様々だ。
編集局と工場の情報格差は余りにも大きい。よく質問もされた。けれどあまり多く話すと、工場内の「指導部と被指導部のバランスを崩す」と苦情も入った。口を噤むしかない。
 

お互い様

 その日の社防隊員は、全逓の女性だった。当時20代半ばか。活動歴も数年という。
特定郵便局だと言うので、日頃の疑問をぶつけてみた。「閉局間際に人が駆け込んで来た時は、どうしてる?」。「受けますけど、それが?」。「その結果、残業になるとしても?」。「ええ」。「何で?」と重ねて聞くと、「お互い様、じゃないですか?」。元学生が割り込んで「ただ働きだ、追い返せ!」……無視、無視。
 「実は」と、私は4・28不当処分[1]の話をした。あの時の「物留め闘争」の話、そして闘いの頂点での労働者の声。「魚や肉が腐った臭いをしだした。やった!勝った」。 初めての話だと言う。今度は彼女の質問に答えた。最後はお互いに「有難う」。
「お互い様、か。融通し合うか」。忘れていた言葉だ。けれど、この本社生活で、私はこの言葉を使えるだろうか。「任務、任務」とセクショナリズム、「お互い様」なんてどこにある。
 

井戸端会議

 本社の中で、女性の比率が高いのは救対、そして工場だ。事務局も「比率」は大きいけれど、絶対数が少ない。被指導部の女性たちは、救対を中心に井戸端会議に花を咲かせていた。その1人は、俗世間の雰囲気を持ち込んでいた。おしゃべりと世話好きな女性だ。
 井戸端さんは結婚相談所も開いていた。「刈谷さん、いい女性を紹介してあげる。好みのタイプはどんな人?」。この件ばかりはお断りした。「こんなにいい男が独り者、男を見る目の無い女なんて百人くれてもごめんだ」。
 
 編集局の大先輩が見合い結婚した。新婚旅行から帰って、彼は叫んだ。「俺は本当に幸せだ。この幸せをみんなに知って欲しい。マイクを持って叫びたい」。みんな心から祝福した。
 結婚した相手の女性は「女性解放」で結集した若い人、もっともラジカルな女解主義者だった。面白い選択をした、と感銘した。
 
 井戸端さんは社内に、世俗の風を吹き込もうとしていた。指導部に対しても、世俗の視線から辛辣に批評した。
 「救対に出入り禁止」事件があったのも、この頃だ。本社指導部が、若い女性にすり寄って嫌だと言う苦情があった。指導部さんが救対部屋を覗くと、女性たちが寄ってたかって「しっ、しっ」と追い出すのだという。何人かの同志が「しっ、しっ」と追い立てられた。「アイツは女に飢えている」という話も、井戸端さんに聞いた。1人の女性を追いかけるのは仕方ない。けれどアイツは振られた直後に、もう別の女性に言い寄ってる。「これで3人目よ」。笑ってしまった。けれどチョンガーとしては、軽く笑えない。
私も、人に頼まれて「興信所」をしてやった。まず、独身か否か。それから趣味は……。思いを募らす若い男が、女性と2人になるチャンスすらない。この程度なら許されるだろう。「報告書」を渡したら、彼はそれを持って指導部に相談しに行った。
後から、「他人の組織に口を出すな」というクレームが来た。「お前の知った事か!」。


[1] 全逓4・28処分。78年、前年から続いた闘争に対する処分で61人が免職。当局と結んだ全郵政による組織破壊に対する組織攻防は、時には暴力にも及んで逮捕者が続出した。79年の年賀状配達を混乱させた「物だめ」闘争は闘いの頂点になった。2007年に、処分無効の最高裁決定が出た。