26   フィリピン新人民軍

「季刊『共産主義者』に、フィリピンについて書かないか?」。出版局のマオさんに言われて、私は飛びついた。「面白い」。完成したら原稿料として1万円がもらえる。それを当てにして本を買い込んだ。神保町のアジア文庫には、実に多くの本がある。私は岩波映画に通いながら、神保町界隈を歩くうちにここを見つけた。
 原典として、私の獄中ノート、フィリピン共産党の本、フィリピンの土地問題研究と、中国革命の関連、そして『世界から』。とりあえずこれで良いとしよう。かつて、レーニンやトロツキーの民族問題や、農民問題についての論述や論争も読んだけれど、とても使える代物ではない。
コンセプトは、中核派の「民族解放=革命戦争論」、その社会的基礎としての「農業=農民問題論」、その検証としよう。革命論として、その社会変革の綱領と戦略を解いてみたい。
私の腹の中には、韓国・朴政権がある。朴体制の展開したセマウル運動(新しい農村運動)の中で、社会が様変わりし、外資導入の「成功」でアジアNIESのトップに踊り出ている。けれども中核派は、まともな論評すら出来ていない。
日韓問題に、私が発言できる余地はない。それならば、フィリピン問題の研究・試論で、裾野を形作るのも1つの道かもしれない。共に「開発独裁」という新しい課題を抱えている。
あまり立派な出来ではなかった。けれど、「今でもこんな問題意識を持っている人がいるんだ」という驚きと、共感の反応は確かにあった。目先の事、「路線」や「基軸戦略」に埋没するだけでなく、革命を正面から考えたい。その限りで、私の存在価値もあるはずだ。
 
 86年の「マニラの春」、「ピープルズパワーの勝利」については、水谷さんと一致した。ここには米帝の仕組んだクーデター、「予防反革命」としての要素が間違いなくある。アメリカは反乱軍の鎮圧に空軍を動員する事を許さず、クーデターの勝利を誘導した。その背後には2つの要因があった。
 1つは、フィリピン共産党=新人民軍と農民・農業労働者の闘いが、反マルコスの1点で都市中間層の共鳴を得ていた事にある。ここにクサビを打ち込め、だ。すでに共産党は、いくつもの地域で「半解放区宣言」をしている。このまま行けば、勝利の日も遠くない。ここまでは一致する。
 もう1つ、より重要な事は、アメリカの膨大な軍事・経済「援助」の返済が滞った事だ。力あるマルコスから、弱体な「傀儡政権」に換え、IMFの「構造調整政策」で乾いた雑巾から無理やり絞りとる。「破産国」と認定されたフィリピン経済は、転落への途を辿った。「夕張」は、ここから始まった。
 水谷さんは、この急変に出遅れたフィリピン共産党を「スターリニズムのため」と断罪せよと言う。けれど私は拒否した。85年、反核のあの気運に空を切った我が中核派に、そんな資格はない。国鉄戦線、また然りだ。小泉ブームに、私たちは有効に対決し得たろうか?
 

「君に会いたくて」

 フィリピン共産党の使者がやって来た。交流、そして資金援助の要請。しかし中核派の対応は冷たい。これが「闘うアジア人民と連帯し……」の党なのだろうか。「血債」は、韓国・朝鮮と中国・台湾に対してだけなのだろうか。
 
農村で闘う元学生の活動家。彼らもやはり、都市の文化生活を渇望する。「コーヒーが飲みたい」。地元の豆を炒って、コーヒーもどきを楽しむ。それが、新人民や農村の「コーヒー文化」を形作っていく。
 共産党議長のホセ・マリア・シソンが、マニラで逮捕された。「逮捕」のニュースに、「殺されなかった」と私は少しほっとする。フィリピン刑法は、アメリカ仕込みだ。「逮捕」が公表されてしまえば、刑務所でも日本より格段の自由がある。獄中で、彼は詩を書いた。「私は君に会いたくて、戒厳下のマニラに行った。君に会いたくて」。そんな内容だった。新人民軍が身近になった。
出獄して彼は、合法政党「人民党」を立ち上げた。水谷さんは「転向だ」と断ずる。けれど全く違う。情勢の急変に対応しようと、共産党は格闘していた。合法と非合法の、両面での闘いの不断の模索だ。水谷さんのような見方こそ、後の共産党の血みどろの内部抗争の源流だ、と私は思う。
 
コラム バナナと日本人
浅草橋戦闘の獄中被告から「バナナを拒否しよう」というアピールが届いた。この時代、フィリピンの半植民地状態の1つの象徴はアメリカ・デルモンテ社の巨大農園で作られるバナナだった。その最大の輸入国は日本。
「農民の土地解放への闘いに応えたい」という想いは大事だ。けれども私の答えは「ノー」だった。「いったん生産・消費のルートが出来てしまったら、あとは食い続けること」。問題を告発している鶴見良行氏自身が書いているけれど、「先進国の消費者の移り気」こそ、農園で働く人々の生活を何倍もの力で右に左に振り回す。
巨大農園から自立して砂糖生産に挑む農民を支援する「ネグロスキャンペーン」がその後始まった。「持続可能な成長」が合言葉になる。もっと突っ込んだ議論をしたいと思いながら、議論の土俵が見つからないままに放置してしまった。