信念的信念

 70年闘争は「男中核」の全盛期だった。ボサボサの長髪をかき上げ、「精神の深み」を思い描く。3派全学連は、鶴田浩二や高倉健にも憧れていた。女性たちは、長髪とジーパン、そしてミニ。民青と3派はその風体でもよく見分けられる。
対革マル戦争時の、アジテーションのキーワードは「中核派根性」。清水さんの専売特許だ。私もまた、「根性」をくり返した。「根性」が「魂」に変わったのは、いつ頃だろう。「根性」は余りに古すぎる。封建思想や職人たちの、寡黙で勤勉で、文字を読まない鬱屈した心情が醸し出される。右派労働運動や、体育会の強い所では、反動的な「根性」論がのさばっている。「精神棒で根性を叩き直す」奴らとの思想闘争として、「根性」問題は大きい。
 そこで生まれたのが「魂」だ。魂とて「大和魂」はある。けれど私たちは戦後世代だから、あまり深刻ではない。「根性」にせよ「魂」にせよ、とにかくそういう領域を言葉にしたかったのだ。
 
「信念的信念」は、私が編集局に移ってからだ。さすがの水谷さんも最初、これには弱っていた。言い換えれば「四の五の言わずに、百万遍念仏を唱えろ」と言う事だ。「百万の敵ありとも、我行かん」でもある。さらに言い換えれば「男1匹ど根性」。
 親分気質の突撃部長の清水さんとナイーブな知性派の水谷さん。好対称ではあった。
 
「中核派は、地方都市出が多い」と言われていた。私たちは、急速に崩れゆく地方都市の生活様式と、アメリカ的生活様式、その独特な矛盾と融合の中で、時代のアイデンティティーを求めていた世代なのだと今、思う。10・8以来の激闘は、「若者文化」を花開かせ、そして新しい生活様式への模索を浮き彫りにしていた。「私のプライド」がフィットする。
 その模索の中での「根性」と「信念」。瞬間、瞬間の政治的功罪は別として、中・長期的に見る限り、あまり褒められたものではない。
 

組織戦術論

 組合現場で奮闘する、ノンセクトや他党派と付き合って、革マルの組織戦術の一端が見えて来た。
 まず高校教師の中に、革マルは根を張っていた。これと思しき教え子達を育て上げ、拠点大学に送り込む。仮に法政大学に進んだ時は、「インナー(スパイ)」の役割を荷う。表に立つメンバーの他に、公安や中核派に認知されない人間を多数、温存する。卒業・中退の後、表のメンバーは動労書記に送り込まれる。認知されない人間は、他の戦略拠点に就職する。
 学校事務職になれば、教師に組織を伸ばせる。現業系の事務職に入れば、急速に組合の指導的地位に手が届く。こうして「革マル中の革マル」に組織され、訓化された組織・フラクションが出来上がる。
 
対する中核派はどうだろう。なけなしの学生を戦場に押し立て、彼らの進路を奪ってしまう。党の常任や専従しか道は無い。いやむしろ、敢えてそうして来たと思える節がある。労働運動など、「1点突破、全面展開」でいい。いつだったか『前進』の紙面にこのフレーズが載った時、私は驚いた。中核派とはこれを批判して、ブントと闘って来たのではなかったか……。革命軍戦略とは、ブント主義だったのか。
 
 対革マル戦の主戦場となった全逓。職場のカウンターの中を追い回す鉄パイプ。双方ともムチャクチャな乱戦をくり広げた。
 神奈川でも全逓は、行動隊の金城湯池だった。左翼各派は拠点化を競い合った。独立自尊で一本気な集配係達は、党派に結集するや否や、行動力において他の職場・産別を抜き去る。
 組合役員の話を聞いた。「中核派の主張には共感する。けれども中核派は、いい活動家を引き抜いては使い切り、最後には潰してしまう」。「活動家を中核派から引き離し、隔離しなければ、全逓の労働運動は潰れてしまう」。
 
 相模原で、横須賀で、地区労の隊列の中に、三浦半島教組の旗が翩翻とひるがえる。横須賀地区労は、社共分裂や総評の後退の中でも、反戦・反基地の大衆動員力を維持していた。その真ん中に立つ三浦教組。ここには中核派の影響力も伸びている。
 ある時、三浦教組を含む活動家の交流会の席に、私も加わった。会話を聞きながら、時に質問もした。第一印象は「普通の良い先生」の雰囲気だ。気負いが、無い。
 三浦教組では、教育実践に組合として取り組んでいた。いじめ・非行・「落ちこぼれ」。その1つ1つを丁寧に取り扱い、共に格闘する。その大衆的基盤の広さは、ここにあるのだろうか。目と鼻の先の横須賀には、知人も教え子もいる。横須賀の米軍基地との闘いは、ここに住む人たちの生活のための闘いでもある。三浦教組は、地区労の動員を水路に、動員要請をはるかに上回る動員を続けた。組合活動全般の中から、大衆性を持った活動家が、次々に生まれてくる。
 三浦教組の中で闘う中核派は、中央との確執を抱え悩みながら闘っている。この闘いをどう「党」に返したらいいのか。これは「中核派の本来の姿」なのか。それとも、中核的でない「あだ花」なのか。私も、同じ悩みだ。
 

路線主義の体現者

「革命軍戦略」の下、「三里塚Ⅱ期決戦勝利・革命的武装闘争」路線。80年代は、大衆運動的には、三里塚基軸路線1色だった。例外的に、杉並選挙や動労千葉、部落解放運動くらいのものか。在日に関わるものは、運動的には凍結されたままで、時折イデオロギー的管制高地を司っていた。
学生から編集局に移って来た男女各1人、彼らと話していて、「路線主義」の実像が見えて来た。横国大出身の彼は、よく勉強もしていた。入管体制の現状を延々と語る。話の後半には、路線的に「2重・三重の縛りをかけて」締めくくる。大衆運動的ブレとの闘いだ。第1章・当面の課題、第2章・三里塚、第3章・対革マル戦、第4章・党建設、を最後まで見事に語る。実践的には、三里塚と軍関連活動以外に、何もしてはならない、という党の立場を見事に表現していた。
 
入管戦線の表の顔のAが、高山さんの工作で飛ばされて、横国大君は高山院政の下で入管のキャップになった。たまたま2人でいた時、同じような論を彼は延々と論じた。私は、「入管体制って、在日にとっては日常生活上の事なんだよね。日常生活の中で在日と付き合う事なしに、共に闘うって事にはならないよね」と言った。
「えっ、そういう見方は初めて聞いた」と彼は驚いた。「刈谷さんはそこまで考えているんだ」。驚いたのは私の方だ。入管キャップが、「第2の7・7自己批判」を知らない。「地域入管闘」を知らない。
 この頃もう、反スタも主体性論争も宇野弘蔵も消えてしまっていた。「思想」といえば、「血債の思想」だけ。「思想性」など語る人もいない。たまに語るのは、許された人たちだけだ。革命論、統治形態論etc.など、聞いた事もない。それが「路線主義」の極致だった。
「ふまえ、踏みにじる」という言葉が心中に湧く。革命軍の勝利するその日まで、凍結は解除されないのだろうか。