29      「勝共の謀略」事件

 87年7月、広島大の構内で教官(総合科学部長)が殺害され、マスコミは連日、事件の真犯人捜しに夢中だった。
『前進』に、勝共連合(統一教会=原理研)犯人説が載った。たぶん直後の会議で、水谷さんが苦笑しながら釈明した。「中国・四国地方委員会からの強い要請を断り切れなかった」と言う。
大学全体が興奮状態の中、勝共が「犯人は中核派」という大キャンペーンに乗り出した。「中核派ならやりかねない!」という空気に追い詰められて、中核派も「勝共=犯人」説で反攻に出た。「9割方、勝共だ」という意思一致がうまく進まない。『前進』の権威で説得したい、そんな事だった。何人かの編集局員が「それは無謀だ」と批判したと思う。
結局犯人は、助手の私的犯行とされた。『前進』はデマと知りつつ、勝共犯人説を公認してしまった事になる。けれど、より根本的な事は「火付け、殺人の中核派」というキャンペーンに、中核派の拠点校で負けてしまった事だ。対革マルも対権力も「無制限・無制約」、「中核派はそんなチャチな事はしない」と笑い飛ばせない、という主体の側の疑心暗鬼こそ、「犯人=勝共」説の底にある。この危機をどう克服するのか。「ボタンのかけ違え」は、最初に戻る以外にないのではないか。
 

「原理」の凶暴さ

 もう1つの問題は、またもや「決戦」主義が、脇腹を衝かれて立ち往生した、という事だ。1985年、政府が提出した「国家秘密法=スパイ防止法」案は、マスコミ・野党の猛反発で廃案に追い込まれていた。けれども法成立への衝動は高まっている。政府の別動隊として、スパイ防止法制定の「国民運動」を買って出たのが勝共だ。
この間の動きを見ておこう。86年、「天皇在位60年式典」に勝共は正式参加している。昭和天皇の死(Xデー)への準備は、すでに始まっていると見ていい。
87年、勝共は北朝鮮を標的とした、スパイ防止法制定運動の全国展開を猛然と開始した。国立大では、事務局長の権限が拡大され、教授会の力が弱められていた。青学・上智をはじめ、文部省のバックを受けた勝共派教官達が、教授会・理事会を支配する事態が進む。黒ヘル・民青そして教官達の、勝共の大学支配や自治会をめぐる抗争が展開されていた。
89年「勝共議員連盟」の集いには、国会議員232人が参加。90年の総選挙には、大阪3区から、自民党公認で立候補している。
勝共の手法はデマと奸計の全面展開だ。権力をも籠絡し、動員しようとする民間反革命だ。広大中核派は、これに1対1対応して、やられてしまったのだ。大衆運動の場で、他流試合の場で……。
 
勝共とは何か。「韓国生まれの反共謀略集団」は、キーワードだ。日本の植民地統治と「死のローラー」を経験した朝鮮戦争、この絶望的体験の淵から生まれた「反共原理」の特性を、しっかり捉える事が大切だと思う。その破滅願望とメシア志向の激しさ、何よりもそれをつなぐ「神とサタンの世界戦争」への能動的な志向……。世界を焼き尽くす神の業火、死の淵から現世の救済が訪れる……。
「韓国生まれ」から目をそらしてはいけない。勝共は、愛国主義や日本の核武装化を主張する。天皇制の反動的復活の先兵でもある。同時に内部では、朝鮮侵略の歴史に血の債務を要求する。
この内と外の落差こそ、勝共の勝共たる由縁だ。平和の名による寄付金の私物化も、霊感商法という強迫・詐欺も、彼らの極端な禁欲生活によって浄化される。
「原理講論」は、イブ(女性)とサタンの性交による「血統の汚れ」を、人間の、特に女性の原罪と見なしている。性交はただ「血統を浄めるため」だけでなければならない。性や結婚という人の世の喜怒哀楽の葛藤から目を避けて、純血教育(運動)や、神の御心に身を委ねる合同結婚式と「ホーム」の生活。ここに「新保守主義」「グローバリズム」と呼応する、いわゆる極端な「キリスト教原理主義」との類似点・共通性を感じるのは、私だけか。
 
勝共とのオルグ合戦が展開されたと聞いた。どちらを選ぶか、悩む学生もいたという。その中身を私は知らない。けれども両者の争点に、互いの「血債」論があったろう事は想像できる。ここで果たして、「血債主義」は有効に闘えたか、それを知りたい。自らの「原罪」をはらすため、あえて韓国人男性との結婚を選ぶ女性に、何を言ったらいいのか?
もう1つ欠いてならないのは、このいわゆる「原理主義」と、根強い保守・反動の、「連続と不連続」の関係だ。統一教会のスパイ防止法や純血教育運動の本が、保守の財界やマスコミで珍重されている事を見落とせない。他方、後日の事になるけれど、勝共議連は急速に影が薄くなる。「韓国生まれ」の特性ゆえだ。勝共の天皇制は、文鮮明にひざまずく天皇だ。けれども、勝共を必要とする風土は少しずつ広がっている。
 

中曽根の「右ウィング」

私は今、改めて思う。勝共の台頭と大学支配との闘いは、中核派が全国の大学で復権し、その指導性を発揮する決定的なチャンスだったはずだ。私たちは、この決戦性を「決戦」として捉える事が出来ずに自滅してしまったのだ。その責任と誤りは、どこにあったのだろう。
その大学支配の実態を知り得たのは、私たち10・8世代だ。カンパで、情報で、日頃教官達と交流していたのは私たちだ。見て見ぬふりをして来た私たちOBこそ、まず責任を問われるべきだろう。あえて言えば、法政大OBこそ最大の戦犯だ。そしてまた、勝共との闘いは、「大人たちの闘い」でなければならなかった。
出来合いの思想や路線に寄りかかるのでなく、たとえ中央方針が不在でも、現場から捉え返す「思想性」や「戦略観」の欠如こそ、この時期最大の壁となった。確かにこの時期、学生戦線は、85年の痛手を引きずったままで退潮の中にある。「1人の学生を獲得するために、百人の反戦を消耗する」状況だ。問題は、「1人の学生よりも、千人の学生の闘いを支える指針を」という視座の確保ではなかったろうか。
田中角栄の「数の政治」は、1田中派の数だけではない。「本籍・田中派、現住所・△△派」という議員を多数配置していた。「本籍・中核派、現住所・△△派」を大量に抱え、統一戦線戦術を駆使することも、1つの途ではなかったか?

最後に、勝共との闘いは、中曽根・構造改革路線との1大対決軸だったという事だ。中曽根が公言した「左右のウィングに手を伸ばす」戦略の、「右」とは御用右翼の事ではない。まさしく勝共の事を中曽根は言っていたのだ。「左ウィング論」に矮小化した認識こそ、過ちの元凶だ。

結論はやはり、革命軍戦略にある。「革命軍万才運動」を頂点とした、大衆運動での「待機主義」「召還路線」、その克服なしに、開かれた運動などあり得なかったのではないか。