31      80年代の諸問題

松尾真の失脚

 89年、学生戦線の人事が変わった。SOB(学生組織委員会)の議長から松尾真が外れる。全学連委員長も獄中の鎌田君から変わる。人事の一新。編集局の会議で、清水さんのレターが読み上げられた。松尾の業績を讃える長文だ。理由は「療養のため」だったっけ。けれども転属先が書いていない。「失脚?」という囁きが広がるが、理由も何も分からない。
 
 私は個人として、松尾が大嫌いだ。初対面の労働者に、のっけから「お前」呼ばわり。機先を制して優位に立とうとする言動、他人の弱点を見定めようとするねめ回すような目つき。全身から表す人間性への嫌悪の情……。猜疑心の塊で、心を開く事を恐れる奴。
 確かに彼は有能だった。『前進』の原稿は定時に、1行の誤差も無くピタリと収める。敵性資料を読み込んで、レッテルを貼り、切り捨てる。その切れ味と粘っこさは抜群だ。難癖を付ければ、論理に深みが無い事くらいだ。答は読まなくとも分かっている。
 学生指導は「管理技術」そのものだ。学生が昼間出払っているうちに、彼はしっかり休憩と睡眠をとる。ヘトヘトになって戻った学生をこっぴどく非難して思考を奪う。そこにバシバシ注入する。学生たちは、自己解体の甘美な思いを味わうわけだ。嫌な奴は叩き出せばいい。偽悪趣味の「怪物性」も、<鬼面人を驚かす>。若者たちはこれでイチコロだ。10歳も差のある、権威ある指導者と学生の関係は、「畏怖」よくて「畏敬」と言えようか。敬愛とは言えない。カリスマの直系の弟子達は、選ばれた民として他者を見下す。私は、新興宗教の折伏・調教の現場に立ち会っているような気がしてくる。
 こんな人間を最高幹部に据える中核派そのものに、ようやく閉じかけた古傷が痛みだす。
 
 SOB議長としての松尾時代はそのまま、80年代の中核派の革命軍戦略であったのだろうか。革命軍の追撃砲の1発1発が、数千、数万の人民を、直接中核派に結集させる。85年の2つの蜂起戦も、万余の大結集を呼び起こすはずだった。地道な大衆運動などいらない。学生が大量に結集すれば、情勢も一変するという見方だ。何という妄想。清水=松尾が相補完してこの妄想を「現実」としたのだ。
あの自民党本部の放火・炎上への評価が、私と逆だったのかと思い至る。あの成功がいけなかったのだ。90年、全学連大会には、「30歳の学生たちを含めて50人程度。松尾と共に、大学戦争も敗退した。革マルの前に、もはや為す術も無い。
松尾と梶さんが中心となった革命軍への募兵運動という大衆運動、それはつまり大衆運動からの召還主義、待機主義の戦略化だ。いったい私たちは、いつの時代に、どの社会で戦っていたのか?松尾真が悄然として消えて行く。結局彼もトカゲのしっぽに過ぎなかった。ちっ居?除名?
 

空港ゲリラと航空労働者

 88年9月、成田空港そのものにロケット弾が飛んだ。軍報(速報)が出た。
 何故だったろう。私は軍報第2報の筆者と話していた。筆者はどう書こうかと悩んでいた。「空港と、空港に絡まるその一切を革命軍は攻撃する」――切り口上はまあいい。しかしロケット弾は、標的からそう遠くない所で炸裂していた。近くの飛行機は、まだ乗客を乗せる段階ではない。革命軍も人の犠牲は避けているはずだ。しかし万が一の事もある。
 私もその事を危惧していた。「万一」の事があれば、三里塚闘争は決定的な危機に追い詰められる。筆者もそう思っているようだ。私は、知人の話を紹介した。三里塚闘争に共鳴する知人は、出来るだけ成田を使わないよう心を配っていた。筆者も飛び付いた。軍報第2部には、「心ある人々は、成田空港の利用を避けている」という1文が入った。
 
 その頃私は、航空関係労組の役員と会っていた。私は「三里塚闘争は、航空労働者を敵視しない」と保証していた。空港関連のゲリラ戦の中で、しかし私は、彼らとの接点を強めたかった。動労千葉のジェット燃料輸阻止闘争の話を、私は詳しく話した。そして、航空氏らの闘いを詳しく聞いた。
 パイロットは管理職であり、同時に「労働者」だ。客室乗務員は「寿退職」の規制を打ち破り、永年勤続の権利を闘いとっていた。
 ロケット弾のしばらく後、会う機会が出来た。旧知の女性が「一緒に行きたい」と言うので同行した。私は改めて、航空労働者に被害は出さない、と断定した。途端に女性が叫び出した。「死ねばいいのよ、あんな奴ら!」。仰天して、「この人は関係者だぞ」と何度も抑えようとした。けれど女性は激昂していった。「殺せばいいのよ!」。叫び続ける彼女を力ずくで連れ出した。彼女は、私の言い方に激しく怒り、憤怒の余り、頭が真っ白になっていた。
もう2度と、航空氏と会う事は出来ない。彼女があまりにも特異な人だったからか、それとも軍報が誤っていたのか、多分、両方だ。うーん、もしかしたら、私の方があまりに非・党的なのか……?
 湾岸戦争以来、交通・港湾などの20団体・労組の主催する大規模な反戦集会、その中央に航空労組連絡会の旗が翻る。けれども私は近付けない。
 

労組交流センターの結成

 89年、総評が解散し、「連合」に飲み込まれた。右翼労戦統一だ。共産党系の組合を排除し、産別単位で分裂が進む。全労連、そして全労協に分断されてしまった。中核派は、この労働組合運動の危機に乗り遅れまいと、労組連から労組交流センターを結成し、新たな「ナショナルセンター」を模索していた。党の指導系列も、中野さんが主催する交流センターの会議が、一定の位置を得る。2元的ではなくとも、「1.元的」と言えようか。ようやく、遅まきながら、「労働者の党」への光が見え始めた。
 交流センターへの参加を呼びかける、組合回りも活発に行われたようだ。元・富士通の常任さんは、「反応が無いんだよな」とぼやいていた。「どこの誰かも分からない人間が行っても、相手にもしてもらえない」。しばらくしての話、「『実は元・富士通』と言ったら、途端に親しくなった」。
当たり前の事が、今、分かったのか、と言いたくなる。けれども、そこまで渇き切っていたのだ。しかしまだ、労働者出身の、学生出身幹部への卑屈さはぬぐえない。軍令と序列化――「大会」がないから、互いの姿が見えない。
 

ゲリラに反対

「刈谷さん、中野さんはいつも『ゲリラなんかやめちまえ』と言っているんだよ。『テロもやめちまえ』だよ」。長く動労千葉に出入りしている若手のDC君が言い出した。出払って他の誰もいない編集局の部屋で、2人だけで話していた時の事。
 動労千葉は、いくつかの中核派を代表する組合の中でも、抜きん出ていた。中央の方針(「路線」)として、「三里塚Ⅱ期決戦勝利=革命的武装闘争」が打ち出されている中では、いくつか例外的に大衆運動の展開を位置づけられ、いわば許されているうちの1つだ。
 80年代の末から、党内での中野さんの地位も急速に上がっていく。この時はその途中だったと思う。その中野さんの言葉だ。DC君の言葉に、私は一瞬凍りついた。いつもと違って何も意見を言う事が出来なかった。同じ言葉を私が吐いたら、吊るし上げどころでは収まるまい。
 私はDC君に、「もっと多く話してくれ」と頼んだ。動労千葉の組合員の前だけではないという。労組交流センターの中心活動家の会合でも、中野さんは同じ言葉をくり返しているのだという。
 党内では11・29浅草橋戦闘の被告を中心に、このゲリラに沈黙する中野さんへの憤懣が渦巻いていた。労組の指導者としては、あまりに当然なこの沈黙への「党員」の怒り、私はこの「党」の本部の中で悶えていた。DC君の話を聞き終えても、私は何の感想も意見も言えなかった。けれども、心の中で何かがはじけた。
 

自作出版事件

 88年か?編集局の○○が、無断で家を借り引き籠るという事件が起きた。置き手紙があり、『資本論への疑問』という本を出したいためだとあった。居場所はすぐ分かり、即刻連れ戻された。
 日を改めて仕事明けの土日、別の場所で全員合宿が行われた。水谷さんが経過を報告し「全員の問題として検討したい」と提案した。「共に考える」というポーズは新鮮だった。
「経済学者」の藤掛さんに、ゲラを渡したが読まずに、「くだらない」と切り捨てられた、という経過をも述べた。編集局に戻すという意味合いに聞こえた。
 おもな発言者は「経済」の島崎、Fさん、委員長君、そして私だった。島崎は「宇野経が分かっていない」となで切った。第1人者の自分を差し置いてふざけるな、という気負いだ。
 本人の弁明も許された。「剰余価値の搾取論はおかしい。労働力商品論でなく、貸借関係で論じるべきだ」というのが骨旨だった。Fさんは「獄中のメンバーの闘いが分かっているのか」とくり返し断じた。「女性労働者の怒りを知れ、隠れて貯金した事が許せない」とも。
常々、理論的討議や思想の不在を感じていた私は、嫌になった。割って入って発言した。「見出しと前文しか読んでいないが、いくつか答えて欲しい」。
イ)   宇野経についてどう思うか。どの程度学んだか。
ロ)   冒頭の商品とは、歴史的商品と論理上の商品をめぐって議論があるが、どう思うか。
ハ)   「剰余価値の搾取を否定して」というが、そうすると全体としてどう変わるのか。単なる用語の付け替えか。概念を替えると、どう認識が変わるのか、変わったのか……など。
 
所を得たり、と答えがあった。
イ)   宇野経はやった事もない。
ロ)   冒頭は、「商品」でなく「資本による生産」だ。
 アァ……と思った。理論を語るに、これでは……。以前、所有制度の歴史を語り合って、「領有権などと言うが、そんなものは所有制にあるもんか」と反発された事もあった。その結果、会話が途切れた。会話が下手すぎるのか、学び方がおかしいのか……みんな……。
 
 Fさんが割り込んで、再び、同志としての「モラル」を追及した。委員長君は、「党の方針に従え」と喚く。私は、「被告」に弁明の機会を与えようと、何度か発言=質問したが、他のメンバーに踏みにじられて終った。流れは決まった。水谷さんは、黙ってやるに任せている。吊るし上げと短期日の役務――処分は意外と軽かった。もちろん、「出版」などあり得ない。労対担当さんが、「うんちくのある質問だったけどね…」と感想を言ってくれた。