錯 乱
 80年代に入ってからのこと。本社の1員が、警察に「保護」される事件が起こった。
 彼は出社後、数時間もたった後に、山の中で、革マルの包囲網を発見した。立ち木に登って「革マルだ。110番を!」と、村人にくり返し叫んだ。警察が駆けつけるまで木にしがみついていた。
 警察から解放されて後も、彼は、自分が包囲・襲撃される事態だったと言う認識を変えられない。けれどまた、「ドロボーだ!」と叫ぶべきところを「110番を!」と叫んだことには非難が集中した。「俺が殺されてもいいんか!」と彼は血相を変えて反論する。
 
長期の下獄の後、拘禁症状がありありとしていた。神経が痛んでいる。まともな現状認識ができないのはやむを得ない、休養こそが必要なのだ。
下獄体験は、「類に生き類に死す」という安直な理念を木っ端微塵にする。自由を奪われ、断絶と屈従にあえぎ、懲罰に怯える日々なのだ。「学習の機会」はその付け足しに過ぎない。「英雄視」は、安逸な日々を送る人々の自己欺瞞の側面が強い。
 

軍事空港論の終り

 沖縄取材の中から、「巨大空港と抗担性」についての記事をものにした。0年の初期だったと思う。沖縄県評や、平和運動のリーダーの話を聞いていた。巨大空港の軍事的必要性、それはジャンボ機のためでなく、滑走路が何ヵ所破壊されても、まだ戦闘機が使える長さという事にある、と彼は力説した。これが「抗担性」だ。平和運動のために軍事研究は必須だ。
 当時のサブ・キャップは、編集局の軍事研究担当でもあった。水谷さんは潜っている。協議の末、この話を大々的に取り上げた。実質は、現闘が展開する「三里塚軍事空港」論の、その中身を批判するものだ 。 C130(ジャンボ輸送機)のためではない。しかしそれは、記事では言えない。記事について、現闘からも「党」中央からも、反響は何1つ無かった。
しかし直後から、「三里塚軍事空港」論は消滅した。
 突然、「アジアのハブ空港としての三里塚空港」粉砕論が始まる。日帝の存立そのものを断て、という訳の分からない議論が展開される事になる。
「中核派にとっての三里塚闘争の理由」が無くなってしまった。私の意図は、「軍事空港」の否定ではなく、その中身だった。デマで農民を管理する現闘・岸の面子、それ以外この転換は考えられない。こっそりと、記事の本意を聞く人々もいた。反対同盟農民や同志、読者には改めて申し訳ない。
 

 うんころじー

 革マル批判は私の担当ではない。1度だけ、沖縄闘争の連載でコラムを書いただけだ。『解放』紙上で、「国を愛する」「郷土を愛する」という言葉がこっそり挿入されていた。『前進』は得たりとばかり、「帝国主義への屈服」と大論文を何回も載せた。けれど喚けば喚くほど、中核派の「愛国心」批判の空虚さが目に付いた。ホームランを打っているつもりが、かすってもいない。
 コラムの中で私は、「国」の言葉の持つ多様な意味を並べた。「革マルはこの多様さを隠れ蓑にして、愛国心論をこそっと持ち込もうとしている」と断じた。これでワンヒットではないか。
 
 『解放』紙上で、「うんころじー」の大特集が続く。革マルの幹部が次々と、「うんころじーに学んで」と書いている。「己の腐敗を切開し……」だ。いつまでも、いつまでも「うんころじー」が続いた。革マルが、全党を挙げて「うんころじー」の大運動にのめり込んでいる。
 私は奮い立った。「黒田哲学」がうめいている。今こそチャンスだ。「クソに溺れた犬は撃て」。けれども『前進』は、素知らぬ顔で通り過ぎるだけだった。
「うんころじー」とは何か。「肥溜めの中へ浸かれ。泥とクソにまみれよ」と言うに尽きる。言い換えれば、「実存の深淵に降り立て」となる。黒田哲学は実存主義に投降し、こっそりそれを密輸して、崩壊を補強しようとしている。ま、実存主義者が聞いたら怒るかもしれない。「実存主義とはそんなに浅いものではない」。
 
 革マルをよく知る人は言う。「革マルとは、ある意味で、カルト・『神学的集団』だ。実践や現実認識の破綻では、ビクともしない」。そしてまた、「革マルとは、ある意味で修行僧のような集団だ。世俗を蔑視する、ストイックなニヒリストでもある」。黒田寛一が、終世独身だった事は衆知の通り。組織としても、結婚を「ブルジョア的腐敗」として忌み嫌う。一時、組織上の序列でも、「独身」の条件が付いていたと聞く。
 革共同の第2次分裂は、「地区党か産別党か」の対立だと一般に言われている。けれど、中核派の公史では実践的に踏み込むか、サークル的理論討議に明け暮れるかの対立だったとしている。
 革マルは、「プロレタリア的人間」へと自己完成する事にこだわり、実践を相対的に「下位」のものとする事で、分裂していったのだ。
 革マルの、革マル的特性とは、擬似人間革命にある。その擬似革命性ゆえに、東大安田講堂での裏切りを「哲学的純化・矮小化」と、白色テロによって乗り切ろうとした。
 革マルの「純化」はいわば「聖なる者」への純化である。けれど、黒田哲学もまた本来、「社会主義運動」である。聖化が進むほど、その補完として俗なるものの比重は大きくなる。現実に革マル組織が「成功」し、実践の世界に全般的に直面した事が、この矛盾をもはや堪え難いものにしたのに違いない。
それに人は、いつまでも「書生」ではいられない。大人になるという事は、俗世間で生きる事だ。「等身大」の自分を逃れる事が出来なくなる。それが「クソ壺にまみれよ」ではないのか。
 私たちは今、改めて黒田哲学を拾い上げ、止揚し乗り越えていくべき時ではないだろうか。
 戦後の主体性論争の歴史を今、私は語れない。田中吉六、梅本克己、武谷三男(物理学者)、梯明秀(経済哲学)、鶴見俊輔……。 黒田哲学は、それらの人々の血のにじむ悪戦苦闘の上にある。中核派は、この哲学を原典中の原典として誕生した。黒田哲学を乗り越える事は、中核派の「党存立の課題」のはずだ。
 鉄パイプと「政治」による、「黒田哲学への勝利宣言」とは、いったい何なのだろう。「マルクス主義と実存主義」の葛藤の歴史を改めて学び直したい。出来る事ならば……。
 

「形態変化」論

 革マルが、「帝国主義の形態が変わった」と言い出した。これを捉えて『前進』は、「帝国主義論の否定、転向の証拠」として、くり返し非難する。「変わったって!? 変わったって!? 変わっていないぞ」と。これには参った。変わったに決まっている。
 かつて中核派は、「1930年代危機」の研究の中で、ニューディール政策、ナチスの経済政策を分析して、世界史的な社会主義への移行期――「過渡期とその変容」論を展開した。
あれからまた20年たっている。世界は余りに大きく変わっている。現実の変化に踏み込んで、革マル的な「変化」論と対決するべきではないのか?現実よりも、革マルとの論戦が優先する、しかもレーニンの世界に閉じ籠もって反撃する、政治局の革マルへのコンプレックスは、それ程のものなのか?