35      革命軍戦略の敗北

1人、また1人、ガサで逮捕者が無ければまた1人。地下からの浮上が始まっていた。この時代、非公然メンバーと見られれば、逮捕されていた。非公然のドライバー達は、免許証の更新時、江東運転免許センターなどで、「転び公妨」によって逮捕され続けた。警察官が自分で転び、「突き飛ばされた」とデッチあげる。釈放されて、再び地下に帰って行く。そんな中で浮上が進む。
前進社内の広間には、帰って来たメンバーが集い、私たちもそこに集まっていた。懐かしい顔を見つけて、近況などを話し合った。前進社内とはいえ、私たちは互いの秘密に近寄らないようにしていた。大勢の輪の中で、どうしてもギクシャクした会話になった。
それでも地下生活の実態は、おぼろげながらに浮かび上がって来た。惨たんたる逃避行であった。厳冬のキャンプ地で、管理人の目を盗んでバンガローに潜り込む。隠れ家を失った末の姿は哀れだった。辛苦を乗り越えて来た人々の英雄性には心打たれながらも、「革命軍戦略の完全なる敗北」は、覆いようが無かった。
 
そうであるとすれば、天皇決戦での「全党員がゲリラ戦士に」という初期の大方針は、敗北を糊塗するものに過ぎない。そして91年以来の、「革命軍戦略の勝利の地平の下に」とする路線転換とは、デマの塗り重ねに過ぎない。
あの91年・新年号論文のヌエ性、胡散臭さの正体は「敗北の隠蔽」であったのだ。“権力や他の全てが知るが、党員だけが知らない党機密”。私自身、あまりに迂闊だった。想像力の欠落・鈍化、こんな私に何が出来るのだろう。
 
 埼玉の先生は、教え子や父母達の、膨大な名簿を出していた。その人たちにガサが入る。彼はもう立てまい。「子どもの心と体」という、優れた教育実践をして来た人だ。教組の旗を振り、大結集・共闘の上に立つべき人。こんな人を弾よけにし、コマとして使い捨てる。誰だ、その責任者は!
 

「建党・建軍」論

 80年代、非公然部分の組織建設を教訓化する大塩論文の「建党・建軍」論は、公然・非公然の双方にとって、「あるべき組織」についての指標とされた。
 最初私は、「日常性全般を対象化」する大塩論文に、いたく心を動かされた。方針や認識の「垂れ流し」を排し実情に踏まえよ、とする主張は、私が中核派に結集して以来、抱えて来た問題意識と合致するものだった。「ようやくここまで来た」……そう思った。
 しかし本社の「日常」を考え、地区の「実情」を踏まえて、論文とつき合わせる時、「何か違う」という思いが強くなった。毎年、新年号に出るこの論文を、私は斜めに読み過ごす事が多くなった。いつもの『前進』と同じに、私は他人の「5倍」の速さで読み捨てた。
 
問題は、「自立した共産主義者の結集体」としての「党建設」論を、その根底で否定しきるものではないか、という事にあった。「各級指導部」による被指導部の「全1的掌握」が全てであり、その逆、あるいは横の斜めの「交通」は、全く否定されきっている。「指導部」が、自身を高めるために努力するのは当然だけれど、「被指導部」として指導部を育てる(指導部を指導する)、という視線はかけらも無い。これでは、人民・シンパに学ぶなどという事も絵空事になる。生活への視線の欠落した「指導部」の下で、「全1的指導」がどんな悲劇を生むか。「左翼の名をかぶせた究極の家父長主義的組織論」。そういう思いが強まっていた。
本社生活では、「指導と被指導」の間に、大きな「すき間」があるからこそ、わずかに息がつける。被指導部が、「指導部」を逆指導する余地が残るからこそ、もっている。
本多さんや清水さん達の時代と違い、中核派は今や、自然発生的な「年功序列」が崩れつつある。論功行賞や抜擢人事で、「全1的指導」を持ち込んだ時の軋み、破壊性――編集局で、事務局で、私は痛烈に体験してきた。
 
 浮上組の中に、1つのグループがあった。彼らの行動は常に一緒だった。まさしく「共同体」そのものだ。コーヒー1杯を飲むのにも、指導部があれこれ言い、メンバーは抗う事なく従順だった。結束の強さは余人の関与を許さないほどだ。
 違和感がムクムクと湧いて来る。「これではヤクザ以下ではないか」。これが、「転向者を1人として出す事の無かったグループ」の姿だったのか。大塩論文の描いた組織建設の見本が、これだったのか。
 
私は思う。そもそも、「地下に学ぶ」こと自体が逆転している。公然組織の中でこそ、「あるべき関係」を目指すべきなのだ。それを非公然に返していくべきだ。公然組織もまた、日々社会から学ぶ。もちろん「切迫した環境の下での凝縮された問題意識の醸成」こそ生命線ではある。
こんな論文を載せようとすること自体、とんでもない思想なのだ。
 
浮上して来た1人とロケット弾戦闘について話していた。私が「土木作業員の死」(4章)について話した時、「そんな事は聞いていない。悪質な手配師と聞いている」と返ってきた。私は絶句してつぶやく。「やっぱり。軍も地区も、そう伝えられていたんだ」。「革命的武装闘争」を統括する1つ1つの課題が、これほど歪められた年月。
数々のロケット弾が、大人数のすぐ脇に落ちたことも話した。「細心の注意を払ってはいた」と言う言葉で、わずかに救われた思いもあった。
 

先制的過ぎた

 1991年、江戸川への本社移転が秘密裏に進められた。池袋から十数分、準副都心の地を売り払い、下町のはずれに移った。新聞記事にもなり、数倍の広さと巨額の資金を得たと評された。
 全国から「仕事のできそうな人間」が動員され、長期間泊まり込みで工事を進めた。巨大な空き倉庫をそのままに、大改築を自力でやり遂げようという壮大なプランだった。
 1日の作業が終わると、雑談や情報交換に花が咲く。各地の実情は、お互いに知らない事ばかりだった。こんな時、「編集局の1員」として、私は別格の扱いと歓迎を受ける。「中央の公式情報」それ自体、地区には届いていない。長い情報統制の体質は、幾重もの段階で「統制」のフィルターを通して変形していく。「伝言ゲーム」そのものだ。何が「公式的」なのかも分からなくなっている。
 この日は最大の関心事、「路線転換と革命軍戦略の関係」になった。「ありていに言えば、革命軍を解散する事、武装闘争をやめる事」と私は話した。長大な路線論文はいつも、「何がポイントか」を分からないように書かれている。4ページにもわたる論文のたった1行だけに、「今回のポイント」が隠されている。私は「前進の読み方」を説明しなければならなかった。
 学生の1人が戸惑ったように言う。「僕はテロとゲリラで、中核派に結集したんです。どうしたらいいんですか」。「うーん、例えば『スウィング戦略』というのもある。ゲリラを止めた事で、権力が三里塚の土地収用に走ったら、激しいゲリラを再開するという趣旨だ」。納得できない、という顔だ。それはそうだ。
「結果として、先制的内戦戦略というのは、“先制的”過ぎたという事だと思う。頼りにすべき『人民の海』が、まだ小さな沼に過ぎないうちに始めた事、沼地を干からびさせてしまった事。だから、百歩も2百歩も退いて人民の海に戻ろう、そこから始めようって言う事だね」。みんな押し黙ってしまった。
私は、フランス・パルチザンやフィリピン新人民軍のエピソードを続けた。その民衆性、倫理性についても言及した。答は、やはり無かった。「そんな話初めてだ」。
私は彼らに、「典型的な裏切り者」と思われたのかもしれない。それもやむを得ない。公式見解を有り体な形で言えば、「転向」そのものなのだから。「情勢は来るものではなく作るもの」――その原点を否定した時、「革命軍戦略」の全否定となるからだ。
 

戦争の経営

 要町の旧・前進社。巨大な空間だけが残っている。昼は解体工事を見やり、夜となると寂しいほど静かだ。部屋の1角だけに灯をともし、ひと時の安らぎがある。数年ぶりの1人ぼっち。ようやく1人、誰に気兼ねせず考える時間を得た。「先制的内戦」とは何だったのだろう。あれこれと思いをめぐらせる。戦争陣形は?兵站は?とりあえず戦争の経営について考えてみよう。
 中核派の組織員は、とりあえず2千。表と裏の常任・専従の数は?本社、三里塚……。とりあえず4百~5百。4~人に1人が専従か。頭が重すぎる。専従の活動費・生活費・部品代・地代・医療・狭義の軍費――1人当たり、月30万円弱。やはり重すぎる。即刻行き詰まるのは見えているはずだ。そうだ、「前進社第2ビル」の、億を軽く超える借金はどうなった?引っ越しで手に入った金は、どこに?党勢の広がりは?……こんな力量で、革命軍戦略を本気で考えていた事を、どう説明できるのだろう。「蜂起は組織の規模に規定される」だっけ?今更こんなことを言われても、余りにもしらじらしい。
 
答えは、あの「国家論」や、「ボナパルティズム論」の解体にありそうだ。現代日本を戦前と同一視し、その戦前も暗黒1色と捉える。治安警察・警察国家観か。機動隊に軍事的に勝てば、その旗の下に巨万の人民が立ち上がる。それだけ?「ロシア革命を機とした予防反革命」とは、それだけなのか?いや、革マルという現代のファシスト打倒・1掃がある。民間反革命は、革マルと共産党だけ?
 
革命軍を守る闘いはあっても、その人をまた守る闘いが無い。「レーニン的オーソドキシー」も、「革命党の堅実で全面的な発展」(1974年本多論文)も、革命軍戦略の消滅の後に打ち出された言葉だ。ゴミ箱から拾い直した、と言うのが正しい。しかもまた、内容こそ違え、同じ形の「路線主義」。
革命軍戦略の全体構想と、その結果を見つめ直さなければ、もう動けない。私のリアリズムからして、「まさかそこまでは」が裏切られる連続だった。まさか、まさか。私は、自分のリアリズムで、同志や友人と話そうと努めて来た。けれど、「党」との差は埋まらない。私自身が壊れて行く。
 
私は、最悪のデマゴーグになってしまう。いや、すでにそうかもしれない。多分……。とすれば、私は結構「有能なデマゴーグ」なのかもしれない。