91年春、私は荒本選挙に、先遣隊として派遣された。東大阪市荒本、部落解放同盟・荒本支部、その市議選挙だ。候補は、後の全国連委員長の瀬川博さん、私たちは、「共闘」「市民の会」として加わる。私が、改革すべき中身を発見し、そして崩れて行った半年間だ。少し長くなるけれど、まとめておきたい。
 

36      半年間の始まり

荒本への到着のその日、簡単な説明を受けた後、私たち先遣隊はひとまず宿舎に入った。夕方、瀬川支部長など「ムラ」の人と、部落青年戦闘同志会の人々が、歓迎の宴を持ってくれた。

 ムラの中だ。私は横浜・寿の街を思い出しながら、不思議と心が温かくなるのを感じた。快い空気を味わいながら、私はしたたかに酔った。散会直後、私は路上に座り込みそのまま寝入ってしまった。多分、ムラの人だろう誰かに起こされて、ようやく宿舎に帰った。「編集局員が酔っ払った」「共闘がムラで酔いつぶれた」。皆に笑われてさんざんな始まりだった。

 数日後、瀬川さんと話す機会があった。真っ先にこの件を笑われて頭をかいた。「革マルに襲われたらどないする?」と言われて「ムラの中やから、ワシは安全や。やられるとしたら別の人間や」と答えた。これが瀬川さんと最初の会話になった。
 

セクハラ

 歓迎会の雰囲気は、瀬川さんの河内音頭で彩られた。「ようやく荒本に触れられる」――そんな思いが選対のみんなに有ったと思う。本社では、私の世代の男ばかり、しかも学生出身者ばかりだったけれど、ここでは皆若かった。女性も半数に近い。自己紹介の後1人1人、カラオケのマイクを握った。皆、好んで大阪の唄を唄った。
私はこれが嫌だった。「お国自慢を唄え」。戦争中の、南ベトナム解放戦線の民族政策を思い出す。「京(キン)族」を主体とした解放戦線は、山岳に住む諸民族との交流をここから始めていた。中国、フィリピンも同じだし、日本でも同じだ。互いにルーツを語れ、だ。差別の克服は、自分を知り互いを知れ、ではないか。
私は、故郷の八木節を唄う事にした。実はカラオケも初めて、唄うのも10年ぶり。記憶を頼りにアドリブも入れた。セリフが出て来ない。ままよ。「上州は生糸の産地、女達は手に職を持つ。カカア天下が生まれるのは世の習い」までは良かった。
続けて、「けれども、ベッドの中では可愛い花嫁さん」とやってしまった。瀬川さん達は面白がってくれた。「おもろい奴が本社にもおる」。
 翌日、居合わせた女性たちに責められた。同年輩の女性は笑いつつも、「私も、怒っています」。ア、ア……。彼女たちの怒りの根底とは、杉並などで、指導部による深刻なセクハラが、いくつもあったということ。「みんな揉み消された」。そんな話、初めて聞いた。
 
 後日の解散の日、その2人の女性に喫茶店に呼び出された。「許さないからね」。「はい……」。話が転じて、旅行をして帰りたい、ついては金を貸せ、という。私が旧友からカンパを送ってもらっていた事を、みんな知っていた。若い世代にカンパ源は乏しい。みんなピーピーだ。「しゃあないな」と渡す。「返さないからね」。「お礼も言わないからね」。
 
 選挙戦の最中、居合わせた選対に、瀬川さんが一席設けてくれた。「支持者」のスナックのママさんは、暴力団から瀬川さんを守った女傑でもあった。歌も素敵だった。おにぎりを求めたら、「明日の息子の分しか残っていない」と言う。けれどもどうしても、ママのおにぎりを食べたかった。同志会の諌めも何のその、息子のおにぎりをもらった。「おいしい」。こんなおいしいものは初めてだ。
 

沈黙

 荒本では、数回の市議選の勝利の蓄積があった。支持する可能性のある人々の名簿を渡されて、戸別訪問に入る。私は、荒本に隣接する一般民地区を担当した。学区は同じ支部員さん達の旧友も多く住む。指導として、「荒本への差別の中心地区」だ、という認識を与えられた。
 最初の1週間、私はひたすら聞き役に回った。多くの人が、前回や前々回の担当者の近況を尋ねて来た。そして自分の人生や、地域の実情について話してくれた。1軒が終わるたびに、聞いた事をそのままの表現で、数倍の時間をかけてレポートを書いた。
宿舎でも全国から集まった人々の輪に入りながら、自分からは何も言わなかった。「えらく存在感の無い奴やな」と言われても、何も言い返さなかった。
 1週間後、私は覚えたての河内弁でしゃべり出した。「刈谷さん、その『……さ』は余分やで」。揶揄と指導を受けながら、恥も外聞もなく河内弁に徹してみた。東大阪の空気が、私の血管の中に沁み込んでいく、そんな気がした。十数年の大衆運動のブランク――大人たちの中での初めての運動、マイナスからの出発が始まった。
 

堅実論文の学習会

 学習会は運動の生命線だ。本多書記長の『革命党の堅実で全面的な発展を』論文が、基礎に据えられた。本多書記長の遺稿とも言えるこの論文は、74年8月の「総反攻」宣言の前に発表され、様々な波紋を生んでいた。私自身は、「一層のゲバ戦にのめり込むためのアピール」と読んだ。血みどろの戦いの先に、どんな地平が拓けるか。その地平を胸に、「いざ戦争」だ。
 「ルビコン」を越え、再び越えてローマの地に戻る。学習会では、そういう思いで挑んだ。オッチャンは、班単独で学習会をやり、それを選対本部へフィードバックしようと目論んでいた。戸別訪問のメンバーと、本部員の1人2役で、風通しを良くしようと頑張っている。
 

「運動型」と御用聞き

選対本部は、「運動型選挙」と「御用聞き型」を併せて提起していた。住民生活を掘り起こし、様々な要求や課題に手を貸そう。荒本支部に学べ、という事だったと思う。
 メンバーは選挙の中で、生き生きと個性を発揮していた。感応力と行動力は、実に素晴らしいものがあった。私はこの人たちの中に、新しい中核派の可能性をも見た。
そんなある日、「杉並のおばちゃん」が「ああ、気持ち良かった」と帰って来た。担当地区のママさんバレーに加わって来たと涼しげに言う。「えっ」。仰天した。私に出来る芸当ではない。おばちゃんは、量販店「トイザらス」の開店反対運動をも掘り起こしていた。戸別訪問で署名集めを手伝った。「これが票になる」。彼女は元教師、経験値の差は無限大だ。
 元商船大生は、「ヤクザの事務所に行って来た」と報告する。借金取り立てに苦しむ人々がいた。「瀬川博の名刺を持って談判したら、相手がビビッた」そうだ。肝が据わっている。
 

班会議の議論

 選挙運動は2本立てで進んだ。1つは、荒本のムラの中での運動。これは青年部が中心に進めた。ムラの中でも、全員が支部員さんではない。しかしこのムラの票こそが、集票の中心になる。私たち「共闘」は、「平和を守る市民の会」として、「反戦平和の瀬川」を掲げ、市内全域を担当する。
最初の班会議。キャップの「オッチャン」が提起する。「さて、ワシらが行くと市民が聞く。市民の会は、過激派やないか。どう答える?」。何人かが発言する。「確かに1部、過激派の人もいるけれど、市民の会は平和を守る人すべてが集まっています」。杉並でのマニュアル通りだ。
 このヌエ性に違和感がもたげた。「ちゃう思う」。私は発言した。「これは荒本選挙や、ムラの人の選挙なんよ。荒本と瀬川さんの実績を問う選挙や。荒本の統制に従うなら、誰でもええ、や」。オッチャンがまとめた。「せやせや、正しくそらす、いう事やな」。ストンと落ちる結論になった。
 
 班会議では、しばしばオッチャンと議論になった。2人とも譲らなくなった時、私は班のメンバー全員の発言を求める事にした。そして、再びオッチャンと延々とやり合った。最後にまた、1人1人の意見を聞く。
 「刈谷のおっさんのような見方は、知らなかった。おもろいな、思う。せやけど、ワシはオッチャンに賛成や」。結論はいつも、孤立するばかりだった。「刈谷さん、せっかくやけど悪いな」という慰めが救いではあった。
 
その日の班会議は、私の担当地区の点検だった。国保減免申請を独りでやった人の事がテーマになった。私はその人に、窓口でのやり合いの仕方を教えた。結果として、減免は半額にとどまった。「何でや、一緒に行けば全額免除やないか。何で瀬川の名刺を使わん」とオッチャンが批判する。私は釈明した。「いや、本人があくまで1人で行くゆうた」。論議は平行線に終わった。
私はこう主張し続けた。「たとえ半額に減らされても、自分で勝ち取る事で自信になる。その人が、人から人へ、私の知らない所で広めてくれる事で充分だ」。改良闘争の原則を私は言ったつもりだ。ただそれが、選挙とどうつながるか、自信はない。
 

PKOへの賛否

 市議会での、瀬川さんの発言録を借りた。4年間の発言録を全部読んで、驚いた。瀬川さんの発言の過半は、ムラの改善についてだった。次に保育所増設。平和については、1割程度だったろうか。テーマごとの発言の行数を数えて、表にしてみた。これを基に、「保育所の運動は共産党」だと切り捨てる「指導」に噛みついた。政治力学上、共産党に引きずられての保育所問題への関与だったとしても、事実は事実だ。会議の中でも報告して、「これが『平和の瀬川』の中味や。ちゃんと踏まえてオルグせにゃあかん」。
市民の会は、市内全域を対象に、全戸にビラをくり返し入れた。PKO自衛隊派兵反対が全てだった。これに合わせて、各メンバーが担当する地域版のニュースを作る事になった。私は、自分のオルグ記録を読み返してみた。名簿の6割はPKOを支持していた。反対は4割以下に過ぎない。しかし賛成派の中にも、大事な事を言っていることに気がついた。「日本はかつて、アジアの人々に迷惑をかけた。自分の事ばかり言っていないで、お返しをするべきだ」。
PKO、百人に聞きました」というタイトルで、賛否双方の主な言葉を並べた。町名、男女を付けた。もちろんど真ん中に、「瀬川ひろしはPKOに反対です」という垂れ幕を付けた。
戸別訪問で、「これがあんたの言葉や、どや?」と話すと、話題が盛り上がった。選対では「賛成論まで載せるんか?」と反発や批判もあった。しかし相手が編集局員である事もあり、黙ってしまった。私のやり方への理解も少しは得られた。面白がる人も増えた。私も『前進』では、望んでもやれないこの手法に、充実感があった。“当たり前の新聞”そんな『前進』を作れないものか?
 
 1ヵ月後、2号目の作成に挑んだ時、体の急変が起こった。疲れと暑さの中で、2号以降を断念した。