37      ムラの中で

朝の散歩

 瀬川さんが朝の散歩を日課にしている、という話を耳にした。私は時間帯を見て、待ち伏せする事にした。「オゥ!こないだの酔っぱらいか」。軽口を叩きながら、同行を許してくれた。毎朝同じ事をしていると、瀬川さんも私を待ってくれるようになった。
 私は秘密にしていたが、選対の耳にはすぐ入る。「刈谷さん、やめぇ」と言う声がいくつもあった。でも私は無視した。「取材や」という口実もつけた。
 歩きながら、パラパラといろんな話をしてもらえた。解同本部との闘い、興国闘争の事。在日朝鮮人差別を糾弾する部落民の闘いは、心を動かした。同時にそれが、ムラの中の在日の仲間を守る闘いだと知って、ストンと落ちた。瀬川さんは、自分の言葉で語る事の出来る人だ、と言う事も確信出来た。
 散歩の日課は、ムラの喫茶店のモーニングで終わる。トーストや卵をほおばりながら、ムラの人やママさんとの会話を聞いていた。ある時、瀬川さんが「刈谷、お前ふんふん頷いとるが、話が分かるんか?」と聞いた。「うーん半々や」。
 別の日には、瀬川さんがママさんに責められていた。「支部長さん、昨日のあれは差別やで」。「ほうかな、差別か?」。「そや、差別や」。形勢が悪くなって、私に振って来た。「刈谷、お前、差別や思うか?」。「わしゃ知らん」。バツ悪そうに頭をかく笑顔が、本当に可愛い。
「刈谷、お前はほんまにエエとこの子やな」。瀬川さんに言われた。私も瀬川さんを「下町育ちのボンボン」と秘かに命名した。
 別れの日、私は最後に訊ねた。「わしら共闘は『荒本は部落や、部落や』ゆうてきた。これでええんかいな?」。「ええんやないか」。これが答えだった。
 支援が去りムラも日常に戻って行く。誰もが「支部長さん」「ヒロっさん」と呼ぶ中で、私は1人「瀬川さん」で押し通した。
 

宿舎にて

 「共闘」のメンバーは、ムラの宿舎に分宿する事になった。「ムラの人には、しっかり挨拶せよ。但し、深く交わろうとはするな」という指示があった。支部長さんや同志会のメンバーのみ例外という事だ。そんなものかとあきらめる。
 私の部屋は、関西、名古屋などから来ていた。しばらく「様子見」の後、「刈谷さん、本社には『改革派』があるって言うけど……」と問う。面倒だと思う。「うん、でも天皇決戦で解体したと思ってる」。「うーん、やっぱりな」。吉羽改革は、東日本で止まっていた。
 私は逆に、各地の実情を聞いた。財政・動員・引き回し――想像以上に悪い。破綻を見せる編集局財政も、疲弊しきった地方のあがりを喰い尽くしての話だ。「戦争の重圧」はとめどない。
大阪のオッサンは、専従費の不足をパチンコで稼いでいた。そんな事も出来るのか。
 
 ムラに住んで、「改めて部落問題とは何か、という事が分からなくなった。分かっていなかった、という事が分かった」という話があった。「刈谷さん、分かる事で良いから言ってくれ」。
 私も荒本に来てから、時々図書館に通っていた。大学の先輩が荒本に住み込んでいたから、直にその理論も聞いていた。共産党系の全解連は既に、「解散して普通の自治会へ」を方針にしていた。けれども一向に解散が進んでいないらしい。東大阪でも、蛇草(はぐさ)地区が、全解連の拠点としてある。「差別は無くなった」という主張は、全解連の現場でも、事実上拒否され続けている。
 荒本は「都市型部落」だ。その課題は、場面場面で紹介されている。「もう1つ、田舎の部落問題という原型を知るべきだと思う」。私は、父母の故郷の長野の部落問題を話した。前橋でも、差別と糾弾の歴史が続いていた。「田舎では、集落の事を部落と言う。だから田舎の事を話す時、ワシは一般民の集落を部落と言う。被差別部落の事は、とりあえず『川向う』という差別の隠語で話したい」。
 かつて荒本派のオルグのために、私たちは長野の被差別部落に戸別ビラ入れをした。たまたま、私が動員されたのは上田市だった。集落から見上げる段丘の上に、父の故郷があった。従兄の名を言うと、「学校の先生」と答えが返る。
しばらくの後、「刈谷のおっさん、あんたの話は聞けば聞くほど分からなくなる。要は何なんや?」。
「みんな家に帰って、親父や友人と酒を飲んだらええ。自分の足下に宝の山がある言うやろ」。忙し過ぎる任務を拒否して、頭を空っぽにして街をふらつこう。「それがワシらの『党改革』やないか?」。
 

都市型部落

「部落差別て、ほんまにあるんか?」。信頼が深まる中で、私は瀬川さんに、初歩的な疑問をぶつけてみた。張り倒されるか?瀬川さんは、「荒本がある事がその証明やろ」と受けた。
荒本自体は、古くからの小さな被差別地域だが、今のムラの人たちの多くは、西日本各地からの人が多い。瀬川さん自身、父親は他所の人だ。都会に働きに出た人々が差別に苦しみ、居場所を求めて荒本に移り住み、荒本は膨れ上がった。瀬川さんの言葉は、その事を指している。
「荒本から出て行く人がいる。どないや?」という問いには、「それは逃げや」と応えた。荒本に住むこと自体、「部落民宣言」をしているようなもの。その苦しみから逃れようと出て行っても、結局は変わらない。「ムラに生きる」のが、解放闘争の原点だ。
 荒本には、在日朝鮮人・韓国人の他、多くの「下層」の人々が住んでいる。部落解放同盟の「底辺人民共闘」も、「組織内問題」と考えると、胸に落ちる。
 

周辺地区

 「周辺地区は差別の元凶」と私は教えられた。古くから、荒本を虐げてきた側の部落が隣接する。少し離れた文化住宅地域は、同じ学区で同窓生も多い。自営や町工場、下請け企業の労働者など、貧しい東大阪でも、最も貧しい地域だ。荒本の子ども達は、歯に衣着せぬ同級生や、その家庭から、最初に差別の洗礼を受けて来たという。
 「周辺地区住民の差別」との闘いは、解放運動のもっとも生々しい領域だった。解放運動の闘いで、ムラのアパートに人々が移り住む中で、共産党を筆頭に「逆差別だ」というキャンペーンが、広く染み渡っていた。「逆差別」論の扇動との闘いは死活的だ。荒本も「ワシらは闘って、取って来た。お前ら闘いもせんで、ウダウダ言うな」と切り返していた。
周辺地区の町内会は古くから、地付きの大百姓の系譜に占められていた。この頃ようやく世代交代が始まり、他方でよそ者の中・大企業の管理職の台頭が始まったばかりだ。
 
旧知の人が「終わったら田舎に帰る」と言い出した。「おれはもしかしたら部落民かもしれない」。後日に「実は舟衆だった」と聞いた。海の民にもまた身分差別があったのだ。けれども解放同盟は水平社以来「エタ・非人」の「エタ」の団結体だ。彼はまた新しい領域を自ら切り開かなければならない。もちろん解同の「底辺人民共闘」の一環となるだろう。江戸時代の身分差別も、身分・地域により、あるいは解消し、あるいは形を変えて続いているという。実生活に即して考えなければならない。