39      思い出の人々

袋ごと戦略

 「30票保証する」と言う人がいた。豪邸の2階に、20人が泊まり込んでいる。通いを合わせれば「30は行く」。どうやら、人夫請けが稼業らしい。横浜・寿に出入りしていた私は、暴力的な棒心(ぼうしん・人夫頭)の姿を思い浮かべた。豪快なタイプだ。「30」は大きい。見返りに何を求められるか知れないが、賭けてみるしかない。「袋ごとの獲得」と心の中で念じる。1本釣りだけでは駄目だ。実力者を獲得して、集団丸ごとを囲い込む。それも1つの在り方だ。
荒本の事、瀬川さんの事、棒心さんは自らよく語った。初めて聞く事ばかりだった。信頼が高まった。
 ある日、夫が留守の時、妻が険しい形相でまくし立てた。「わしゃ、アイツの出自を知っとる」。仰天する私に「アイツは絶対許せん、殺しても飽き足りん」。
激しい家庭内暴力があった。外面の良さと内面の落差があまりにも大きかった。私は、こう応えるしかなかった。「奥さん、あんたの亭主は男として最低なやっちゃ、許せん……せやけど荒本にとっては、必要な人や」。恨めしげな妻を残して辞した。「袋ごと、袋ごと」と念じながら、緊急レポートを書いて、ムラの人の中から妻の担当者を送って欲しいと要請した。
 
 「私は△△から移って来た」という女性がいた。当時から、瀬川さんを支援していたという。地名だけは知っていた。社会党か共産党の活動家だったらしい。夫は左官、その夫が仕事中に重傷を負い、貧窮と介護で疲れ切っていた。国保減免の話もあった。
 選挙の翌日、お礼と別れの挨拶に行った。勝利を喜びながら、彼女がふっと口にした。「刈谷さん、『解放』って何やろな」。絶句した。ああ、この人もまた、部落の人だったのだ。「釈迦に説法」。この人は、何度も自ら部落民であることを「△△から」と言っていた。それを私が知らずに、気付かずにいたのだ。
 
「イバラキから来た」と言う人に、私は「群馬出身です」と応じてしまった。私は関西について、何も知らなかったのだ。
 

恋人が来たヨ

 郵政官舎には、支持者(候補)がたくさんいた。大体は主婦としか会えなかったけれど、時には夫もいた。主婦の1人とは特によく話した。パートで働いていて、身分の不安定さや賃金の低さを嘆いていた。この人も、保育所増設運動に深く関わっていた。
 夏の暑い盛り、薄手の白いTシャツで応対されるとまぶしい。下着のまま話している感じがする。私は選対に帰って、若い女性数人に聞きまくった。「下着のシャツと、Tシャツとどう違うん?」。いろんな話があったけれど、結論は分からない。参った。
 選挙の終盤に銀輪隊が結成された。「瀬川博」の幟をたなびかせ、宿舎の内外を回ってもらった。「4・28不当処分撤回!」「パートの権利の向上を」。シュプレヒコールが、官舎にこだました。
 
 アパートの1室。玄関の上がり框に腰かけて、私たちは何回も長時間おしゃべりした。軽い身体障害者の女性で、30代半ばだったろうか。10代は暗い記憶しかないと言う。20を越えて、珍しい事や面白い事で一杯になったと言う。「生きてるって楽しい」。障害者の事、保育所の事、そして戦争の事、話題は尽きなかった。彼女のユニークな視点に、しばしば感動した。
 ある日、おしゃべりに夢中になっていると、夫が帰って来た。一瞬ギクリとして、腰が浮きそうになる。でも、軽く挨拶して彼女とのおしゃべりは続いた。
 東京に帰る前日、挨拶に行くと、応対に出て来たのは夫だった。ニコリと微笑んで夫は中に声をかけた。「おーい、恋人が来てるよ」。
別れを惜しんで、長いおしゃべりになった。「今度、仕事のついでに荒本に寄ってみるわ」。私はムラの喫茶店を紹介した。「コーヒーを飲んで、世間話をしてみたら?」。怖いもの知らずの女性になっていた。
 

結婚は別?

 最初の注文は、「分別問題をしっかりやって」だった。狭い路地と木造長屋、「文化住宅」の台所はいくつものゴミ袋が占領していた。「ひと昔前なら、ゴミは川に流して良かったけれど、ここは都会や。川や空気を守らにゃいかん思う」。
 唐突な話に私は面食らった。「行政への要求」を描いていた私は、いきなり市民としてのモラルを突き付けられて、「これは使えねえ」と思った。
 彼女は、戦後初期の労働争議の経験を話してくれた。面白い。「しゃーけどなぁ、学生のオルグが運動に入ったらおかしゅうなった」と言う。「どんどん戦術を拡大する。みんなが付いて行けんようになって終わりや。その学生はな、大争議を率いたちゅうて、出世していくんや。『争議屋』ゆう言葉を知っとるか?」。ズシンと来た。共産党の事だけではないように感じた。
 夫と2人で自営業をしている彼女は、地域の実情にも詳しかった。私は疑問を抱くたびに、彼女にぶつけて話を聞いた。彼女の批判的分析にすがって、地域の絵図を描いていった。
 
ある時、彼女がしみじみと言った。「しゃーけどな、私は自分の子を部落の人らと結婚させとうない」。突然の言葉にうろたえた。「うーん、そうかもしれんな、そうやな。せやけど、そん言葉を荒本の人らが聞いたら悲しむやろな」。そう応えるのが精一杯だった。「ハッ」とした顔で、私の顔を見た。しばらくは2人でうな垂れた。
 永年のタブーを口に出してから、彼女の顔は次第に穏やかになっていった。「本音」よりも、もっと深い本音が動き出していた。別れの日、彼女は言った。「今度、水道局や清掃の人が来たら、いろいろ話してみるわ」。
 

岡さん

 最初会った時、岡さんは「椅子の皮張り職人」だと自己紹介した。市民の会でも発言したと言う。仕事をしている様子も無い。70代後半の人だ。資料にはA・B・Cのランク付け以外に、何も無い。「一体どんな人だ」。一から聞き直すしかない。
旧制中学にいたらしい。軍事教練が嫌になって郷里(東京)から逃げ出して、転々としたという。
 戦後初の選挙の時は、東京で共産党を応援した。1946年4月の衆院選だ。中国に逃れ反戦活動を闘った野坂、「獄中非転向」の「徳球」には、保守政党の後援会が総ぐるみで応援したという。
 岡さんは策士だった。いろんな選挙に首を突っ込んで、奇策が当たったという。人を見る、人々を観る心と視線のある人だったのだ。
 流れ流れて、荒本周辺の低所得者地域に生きていた。皮張りとは部落産業でもあった。「何でも面白がって生きる」人――そう命名した。
 岡さんには、東京に帰ってもよく会いに行った。親戚の人に引き取られていた。ここでは私は、本名を名乗った。話題の豊富な人で、「刈谷さんは、どんな話を振っても応じてくれる」と喜んでくれた。しばらく行かないと、文句を言われた。
 中核派の事を話して、機密文書の保管を頼んだら即、受け入れてくれもした。非公然の会議の場所にもなった。私は父を早くに亡くしたから、父親のような気もした。
 福祉の「いのちの電話」から、週1回電話をくれて、おしゃべりを楽しんでいた。毎回メモをとって、次は続きを話すのだという。「でもね、『返り』が悪くってね」。
 最後に伺った時は、四十九日も終わっていた。お神酒を頂きながら、命名し直した。
「世俗を楽しんだ、世捨て人」。  合掌。
 

熊野の夜

投票日の夕方、選対の解散集会がもたれた。基調報告には、くだんの本部長が復活していた。そして財源論までも。
開票結果を待ちに皆が出て行った後、私は1人、広間の畳に寝転がって動かなかった。同じ班の女性が「はぐれ鳥」と言って笑った。「オモロナイ選挙やった」とふて腐れて応えた。
荒本での半年、私たち選対は、ついに最後まで、ムラの人々との交流を許されなかった。毎晩のように写真家さんの指導で、空手クラブをやった。そこで解放会館に立ち入り、青年部の人たちと挨拶する関係になったのが全て、と言える。
「党の動員」が、ムラの人々との接触で何を生み出すか。確かに私にも、あまりに分かり過ぎる。
後日のこと。解同全国連が結成され茨城県連はまるごと全国連に結集した。この時私たちは茨城に緊急動員されていた。ムラの中で、「部落民」と「一般民」という言葉を、平気で口にする本社メンバー、それを訂正できない指導部。うんざりして私が言うまで続く。「ここでは、ムラの人か、同盟員さんと言う。俺たちは『共闘』だ。さっきから俺はそう言ってるだろう?」。
狭山闘争の後景化から久しい。しかしそれ以上に、「日常生活」の欠如、大衆運動それ自体からの召還が、いびつな「理論」と体質を生んでいる。党の動員を徹底管理して、ムラの人々と触れさせない事、それしかないという現実を認めるしかない。いつまでこんな状態が続くのか?
 
選対が散る中で数日間、私は1人残ってレポートを書き続けた。オルグ名簿の1人1人に、簡潔なコメントを付けた。事務局のメンバーも、パソコン入力作業を引き受けてくれた。
「国保の瀬川」への移行に伴って、「市民の会」は凍結されるという。事務局要員)足りない、二者択一だという。東大阪地区党は、全く別個に動いていて、「市民の会」をカバーできない。国保ではない、多くの支持者への対応は、今後どうなるのか。
 
解放同盟とともに歩む「共闘会議」の非力さが気に掛かる。荒本の突出を支える「地区労」の不在が、どんな影響を及ぼすか?「党の健全で全面的な発展」なくして村の人と「日常をともにする」ことはできない。ここにも「内戦」の大きな歪がある。これをどう考えたら良いのか?
けれども、選挙という「祭り」も終わった。人々は日常の生活に帰って行く。私もこれが潮時だ。

ともかく相次ぐ会議では、スッテンテンに「浮いてもうた」。私は心中に決めた。もっともっと、日和見主義になろう。故郷の大反動・中曽根のように、「風見鶏」に徹しよう。「風見鶏はいらない、私が風見鶏だ[1]」。

 
心身ともに疲れ切っている。熊野古道を歩いてみたい。それが叶わないなら、せめて1泊、山中で過ごそう。


[1] 風見鶏。アメリカ「ウェザーマン派」 (Weatherman)。、70年代に活動した急進的学生運動の1つ。ボブ・ディランの曲から付けられた。国会議事堂、刑務所、マスコミ、大企業などといった体制側に爆弾を仕掛け数多くの爆破事件を引き起こした。ベトナム戦争の終結時に解散。