43      理論への渇望

カンボジアPKO論

92年9月、戦後初の、と言える、自衛隊・陸上部隊のカンボジア派遣。前年4月には、海自がペルシャ湾に派遣されている。それは日本の反戦運動にとって新たな試金石となった。日本人・明石康が、UNTAC(国連カンボジア暫定機構)の事務総長に就いた。
『前進』は、「日帝の独自の軍事大国化」「侵略戦争」と毎号くり返した。しかし連日のニュースの洪水の中、「平和のための派兵」論に、明らかに分が悪い。切り返せていない。
清水さんからのブレティンによって『前進』は息を吹き返した。「戦前の満州国のような植民地国家を建設しようとしている。カンボジアの、日本による再植民地化」――「これでいける」。
 
 私に論文の役割が回って来た。カンボジアとは何か、ポルポト派とは何か。探しあぐねてようやく、ポルポト派の生い立ちを見つけ出した。米国防報告は、詳細で膨大なものだった。そして井川清氏のカンボジア和平の分析を見つけた。これで行けそうだ。
まずカンボジア和平とは、国際政治としては「平和」を意図するものだ。大局的には、米ソ対立の結末を受けて「過去のトゲ」を抜き去るもの。その脈絡から、中国・ベトナム戦争にも終止符を打つ。米中のポト派支援の歴史は「国際政治」上も余りに不評を買っている。不毛なポト派支援を止めて、カンボジアはベトナムの属国化でけりをつける、とすれば「再植民地化」論は空論だ。米中は、ベトナムへの侵略を居直って、対越和平に臨んでいる。
 
 ポルポト派の大虐殺は、擁護すべきものは1つとしてない。ただ、ポト派の出生と歪曲には、小国カンボジアの悲哀の歴史が伴っている。
カンボジアの民衆にとっては、この和平は待ち焦がれた「平和」の到来だ。内戦の下で、「平和」を求める僧侶達のデモが多発していた。「平和」そのものに反対する事は出来ない。
 問題は日本だ。国連とは何か、が分からない。明石康をどう捉えるかに私は苦悶した。ようやく「ジャパニーズ・プロブレム」のひと言を新聞記事の中に見い出した。カンボジア問題は「日本問題[1]」。これだ、これに違いない。けれどもその趣旨が全く出て来ない。
 日本はまだ、本格派兵の準備が出来ていない。ブレティンの言う「日帝の侵略派兵と、その戦略的無準備性」ゆえのあがきだ。
 私たちはベトナムに「血債」を負う。中核派(中央)は、解放戦線の闘いを無視していた。中核派の「アメリカのベトナム失陥」論は、ベトナム革命への評価から逃げている。ここで「ベトナムによる属国化」を浮き彫りにすれば、政治的表現としてバランスは悪くなる。世界認識としての「戦略的無準備性」は、私たちの方だった。どうしよう?
大局観を明らかにし、この無準備性下での反戦闘争の課題と思想を説く。これが本来の課題だ。
結果は無様だった。『前進』紙上の私の論文は、私の混乱を鮮やかに映し出した。しかし情勢認識としては、私の方が相対的には正しい事が明らかになった[2]
 

ポル・ポト派

ポル・ポト派(クメール・ルージュ,カンボジア共産党)によるカンボジア人民の大虐殺、そして社会の徹底的破壊はなぜ生まれたのか。ポト派による大量虐殺は10万弱。飢餓による死者は100万余。人口は700万人位だったろうか。
 
私は、ポト派はやはり、マルクス=レーニン主義的共産主義の一亜種として、あるいはその崩壊的逸脱として向い合いたい。
 カンボジアの共産主義は、フランス植民地支配に対決する民族解放の党として生まれた。第1次インドシナ戦争では、ベトナムを中心とするインドシナ共産党の下にある。ポル・ポトによる粛清を、私は3つの契機で考える。
 第1に、カンボジアにおける「プロレタリアートの不在」だ。レーニン、トロツキー、そしてスターリン。彼らの差異はおいて、共通するのは、植民地の民族自決におけるプロレタリアートの闘いを議論の中心に据えている事だ。しかし、フランス植民地のインドシナ、特にカンボジアに近代制大工業など存在しない。「革命的プロレタリアート」など生まれようがない。中国革命が異彩を放つ。
第2に、「国際主義」の歪みを生んだ歴史的背景。宗主国のフランス共産党が一貫して、植民地支配を擁護したこと。また、インドシナ共産党以来、カンボジアは常に、ベトナムの随伴者として翻弄されたこと。ベトナム民族解放戦線の勝利を保証した「ホーチミン・ルート」は、独立国カンボジアの主権を踏みにじり、その領土の奥深く展開された。
私は、この事実の是非を語る事は出来ない。しかし事実は事実だ。米軍によるカンボジアへの空爆では、数十万人が殺され、農業インフラも徹底的に破壊された。そして「撤退の為の増派」によるカンボジア侵攻は、カンボジアからすれば、ベトナム戦争の「巻き添え」でもある。
 私たちのベトナム反戦闘争も、とどのつまり、ベトナム止まりだった事を改めて思い知る。ポル・ポト派が、反ベトナムの極度の民族排外主義や、「原始共産主義」、極端な農業集産主義に陥る素地は、充分過ぎるほどあったのだ。
 第3に、中国の文化大革命[3]という文化・文明への憎悪と破壊の運動を、共産主義革命の見本としたことだ。確かに、『共産党宣言』を字義通りに読めば、そんなものかもしれない。「貧困の平等」や、文化・文明への憎悪は、一面において、あるいは文学的表現とする限り、私の心にも響く。スターリン下の大粛清も、社会主義建設の生きた「参考」になろう。
率直なところ私は、「共産党」の結成そのものが、過ちの原因だと思う。民族独立と社会正義を柱とした「社会主義」で充分ではないか。その中身は、中国・インドあるいはインドネシアから学べばいい。生まれたばかりの小国カンボジアを守り続けたシアヌーク体制と、その多元的自主外交も学ぶべきものは大きい。現実に即して模索するしかない。
ベトナム戦争の後始末は、米帝の「正義の介入」を暗黙裡に認め、米帝が南の傀儡政権に与えた軍事・経済援助の負債をベトナムが継承し返済するなどの中身になった。
 

サパティスタの綱領

 メキシコの辺地で、サパティスタが蜂起した。『前進』でイランさんが、『コミューン』で私が書いた。読者からの批判の手紙を受けて、小会議が招集された。私とイランさん、島崎と水谷さん。水谷さんはこの頃は、「現場の同志や読者の声を全て受け止める」立場だった。
 「サパティスタの綱領が書いていない。これは闘う人々を無視するものだ」という批判だった。『前進』には、これが無かったのだ。
 イランさんは、「あの綱領は、綱領になっていない」と断じた。私と島崎は、「いやー。優れた綱領だと思うけど……」。穏やかな言い方だったと思う。「何が欠けてる?」と言う質問に、イランさんは黙り込んでしまった。話が下手な人だ。
 綱領は簡潔なもので、外国資本の抑制を謳い、少数民族の利益に立って、女性政策にも触れていた。しかし、政府の打倒・帝国主義の打倒とは書いていない。多分、それが不満だったのだろう。
多数派の「メキシコ人」は、[5]先住民とスペイン系の混血の民だ。「メキシコ人とは何か」という「メキシコ革命」が、現在進行形だ。
 


[1] 日本問題。日本の課題。アメリカが大枠を示し、軍事力を揃える。あとは日本の金と裁量でやれ、ということか。
[2]正しいその後、米越の関係正常化が進む。ベトナムは国際社会に復帰し「改革・開放」「ドイ・モイ」が始まる。アメリカは湾岸戦争・イラク戦争のためにも、ベトナム戦争の傷を癒すことが不可欠だったということか?今ベトナムはBRICs4国に続くVISTA5国の筆頭。
[3] 文化大革命。各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は、数百万人から一千万人以上ともいわれている。また「マルクス主義」に基づいて、宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。
[4] 生きた参考。正しくは、レーニンの「対農民戦争」それ自体もある。「農民の団結=反革命」論は根深い。
[5]メキシコ革命。たとえばメキシコの公用語はスペイン語。諸民族間の庶民の共通語をどうするか。近代日本の「隆盛」の基礎として、共通語の強制と軍事教練による所作の規律が上げられる。「口語体」運動の意味も改めて見直したい。メキシコは、明治以来最初に互いに対等な貿易関係を結んだ国でもある。身近な存在として受け入れることから始めたい。