人権論争

Oさんと東峰君は、救対活動の教訓の中から、人権感覚を学ぶべきだとくり返し主張した。獄中の爆取被告の内藤同志は、元クリスチャンだという。それもあって彼の故郷のクリスチャン達が、内藤さんを守る会を自立的に作り上げ家族を守り、活発な運動を広げていた。2人はこの中で学んだらしい。「中核派には人権観念が無い」。
 人権論争の中で「死刑廃止」運動への関わりも論議に出された。かつて私は、東アジア反日武装戦線の公判に派遣された事がある。しかしすぐ派遣取りやめとなった。
 死刑廃止運動への共感を唱えるOさんや東峰君、それに対し「ふざけるな!」と恫喝する水谷さん。動揺の色を見せるFさん。私もしばらくは沈黙だ。「人権問題」そのものが、私には初めてと言っていい。
 水谷さんの論拠は2つあったと思う。1つは、あの闘争そのものを支持できない。それはいい。もう1つは「死刑廃止」そのものに反対だという事だ。中核派は「革マル3頭目の処刑」を目標としている。それと整合性が取れない。「戦犯ヒロヒトの革命的処刑」も同じだ。
 私は考えあぐねた末に発言した。「戦時と平時を分けて考えたらどうか」。革マルとの殺し合いの戦場は措こう。「暴力反対」論者だって、犯罪現場では実力で闘う。「非暴力直接行動」の思想を取り込めばいい。天皇ヒロヒトも、より本格的な内戦の場に引き出せばいい。どんな平和主義者でも、ムッソリーニの処刑・絞殺を非難はすまい。むしろ永山則夫氏[1]を「死刑反対」で救い出すべきだ。確かに自己矛盾はある。それは、自分で悩めばいい。
 木で鼻を括るような議論だけれど、少しは援護射撃になったろうか。
 

人権と内藤裁判

 「刈谷さん、ちょっと」。編集局員ではあるが、独立した部署のOさんに呼ばれて『破防法研究』編集部の小部屋に入った。「お金いくらある?全額貸して」。内藤裁判の弁護士費用が足りないという。水谷さんに請求するか、救対が出すのが筋だと思うけれど、とにかく貸した。何度かそういう事が続いた。
 「意見は言うな。私を応援しようと思うな」と釘を刺して、Oさんは経緯を語り始めた。爆取と闘う内藤裁判、彼女は今、救対や「党」を排除して自力で闘っている。傍聴からも救対を締め出している。「私1人でやっている」。
 編集局長がドアを開けて、無言で去る。「ほら、何を話してるか覗きに来たでしょ。スパイ活動よ」。何を言い出すのか分からなくなった。どうやら、何も聞かずに帰った方が身のためらしい。
 内藤裁判で、Oさんと弁護団は「無実の証人」[2]の出廷を求めている。しかし「党」は、「仮に内藤同志が死刑になったとしても、証人は出さない」と厳しいらしい。うーん。非公然の党中枢の生き死にに関与しているという事か。私は想像した。
 対立の結果、「党」は弁護費用を一切出さないと決めているらしい。彼女は時折、長期に姿を消して、自力で働いて金を作って帰って来る。この時も、百万を超える借金が残っているという。「うーん」。彼女が助けを求めたPOSBは、「分かった」と請け負って談判に行った。しかし帰って来た時は、彼女の説得役になっていた。
 結局私は、彼女の求めのままに、「見ざる聞かざる」を決め込んだ。話は聞く、金を貸す、それだけだ。内藤裁判は、無実=無罪の判決を勝ち取った。しばらくして彼女の姿は消えた、と後日聞いた。
 

「証人威迫」について

 何が争点だったのか、それが私の中で分かって来たのは、本社を出てからだ。彼女の言葉を考え続けた後だ。
 Oさんは戦士たちを「犯人」という言葉で表現していた。また、「証人威迫」を厳しく弾劾していた。これは「党」と、内藤裁判を支えるクリスチャン達の立場の相違をよく表現している。
 藤井裁判や垣端裁判での、勝利の記憶は新しい。私も動員された藤井裁判の目撃証人実験。私たちは、証人の記憶の正誤をデータで示していった。たった百人余の証人実験だったけれど、それは日本裁判史上初の実験だ。目撃証人の信頼度は、1回たりとも検証されていなかったのだ。ましてや有罪認定の「正答率」を検証された事も無い。藤井裁判はそこをついて、無実勝利を勝ち取った。それは内藤裁判でも共通な土俵だ。
 その上で「党」は、「無実の証人を除く、あらゆる手段」で無罪を勝ち取ろうとしていた。裁判闘争での動員も、その手段だ。法廷は獄中被告と交感できる大切な場所だ。しかし一般人の目撃証人が出廷する日に、普段を倍する傍聴者を動員したらどうなるか?廊下に溢れる「赤い暴力団」の間をすり抜け、満室の傍聴者の視線を背に受けた証人はどうなるか?
 クリスチャンの人たちはこれを「証人威迫」として、拒絶したのだ。証人に語らせ、事実を明らかにして無罪を勝ち取ろう。そのためになら、「過激派の仲間」と言われても本望だ。でっち上げ弾圧に苦しむ家族を支え、無実の社会運動を創り出す。裁判の公正を実現して行こう。
仮に被告が犯人であるならば、「確信犯」として獄に耐えるべきだ。自分たちもまたクリスチャンとして、「社会の獄」と闘っているのだから。
問題は、「党」が小手先の技術で裁判を捉え、裁判それ自体を社会改革の課題に据えていない事だ。内戦勝利こそ全て、クリスチャンは利用するだけ、という了見の狭さだ。中核派の司法への認識、それは「司法=治安警察」論だけだ。一体全体、我々が「無罪」を勝ち取れる司法とは、今、何なのか。その捉え返しが無い。
 ようやく見えてきた。「先制的内戦戦略」とは、戦後をそして今を見据えていない。変革の社会綱領を2次的なものに見下した、暴力的暴力の思想なのではないのか?
 

スキャンダラスな人々

 91年に亡くなった横浜・紅葉坂教会の岸本羊一牧師の遺稿集『スキャンダラスな人々』が、私たちに配布されたのは、多分翌年の秋だ。日本に於けるクリスチャンは、新しい価値観や生活観を生み出すものだったと言っていたと思う。
神への思い、自分への思いは、世俗の中で日々葛藤の連続だ。世間では、スキャンダルばかり引き起こす奴らと罵られる。であればこそ、日本のクリスチャンは「スキャンダラスな人々」に自ら成るべきだ、そんな趣旨だったと思う。組織におもねず、権威に従わず、自立した個人であろう。だからこそ「人権」に固執しよう、と。
 私たちの、あるいはまた、反日武装戦線の闘いに彼らは反対だ。決して同調し得ない。けれども弾圧には、彼らが身をもって対決し擁護する。その根底にそうしたものがある。それに学べ、と2人は言う。
 Oさんや東峰君の主張が、私にもようやく少し見えてきた。マルクス主義と人権論、その方法論は水と油だ。マルクスは「個」や「自我」をどう捉えていたのだろう。よく分からない。けれどマルクスは、それらを「ブルジョア革命の課題」と見なしていた。そしてブルジョア革命を推進し、その上に社会主義を展望していた。多分、ブルジョア的諸権利は、ブルジョアに学べば事足りたのだ。このへんはむしろエンゲルスに学ぶべきらしい。私は当面、2足のわらじを履く事にしよう。股裂き状態に、私が堪え切れればいいのだ。


[1] 永山則夫。『氷の上の魂』の著者。68年、          東京のホテルでガードマン射殺など連続射殺事件を起こした。97年処刑。
[2] 無実の証人。警察が「革命軍」と認定した裁判では、無実・無罪を勝ち取るには、数倍・いく層もの無実の証拠を要求される。それに対決して多くの無罪判決が勝ち取られてきた。非公然メンバーの場合は、同じ非公然活動家のアリバイ証言が不可欠となる場合が多い。