阪神・淡路大震災と企業組合

以下は、知人への手紙をそのまま引き写しておきたい。
私が最終的に中核派から離脱した事件だ。中核派の「社会的無能性」と「反社会性・無道義性」の問題としておこう。
 
 95年の阪神大震災に際して、「新社会党」でK氏の弟子である、W氏を藤掛さんに紹介し、さまざまな活動に協力してもらいました。震災関連では、一時、彼の果たした役割はずいぶん大きい物でした()
その後、W氏は「企業組合」(96)の展開に大きく関わりました。被災者運動代表のHsさんを中心にした、「被災者が食うための」企業組合です。
 
企業組合は事あるごとに内紛をくり返しましたが、その原因は常に現地担当者の側にあったと言って過言ではありません。W氏は、最初の担当者・Ikの専横振りと身勝手さへの企業組合の女性たちの怒りを「Ik問題」として、「関西の党」にくり返しレポートし、最後的に責任体制を変更させました。「神戸の靴産業の生きる道」として始まった「セラピーシューズ(健康靴)」では、協力業者を探し出し、マスコミを引き入れて活路を開きました。地元の福祉活動家のNさんは、その人脈と名望をフルに使って企画を打ち出し、「市場」を開拓しました。
しかし、「党の担当者(Ikとその後任のFj)による引き回し」は収まらず、9712月、「企業組合」は、女性4人の代表格のFさんと在日のSさんを追放するにいたります。きっかけは、企業組合の財政的破綻にあったことも大きい。けれども、見方によっては、企業組合が「一時期・一定の成功」を収めた故の問題、でもあるようです。少しの成功ですぐ傲慢になり、「自分の成功」に酔い他人を見下す、ということです。
 
「高山・入管闘」も、「階級的でなく民族性に固執するSさん」(担当者の上級指導部のMi)の追放に同意します。関西も東京の「党」も、W氏との面談すら拒否するようになっていました。「取れる物だけ取ったら不要」ということでしょうか。
私はすでに活動を停止していましたが、W氏にとっての「中核派」は私です。W氏に「取り持ち」を依頼され、藤掛氏の後任の東京の担当者のSaを引き出して、事態を説明しました。3人で、お2人を追放する総会を傍聴しました。お2人のIk・Fjへの怒りの言葉を聞きました。
 
この過程で、Ikの「お客へのセクハラ問題」などが発覚しました。「またか!」とうんざりしながらW氏らは「Ikを企業組合から外せ」と要求しました。けれども関西の党は「はずしたらIkが潰れる、常任を守る」(Fj)と拒み続けます。「セクハラ」の原因ともなった資格外のIkの「全身を診る医療行為」にも居直りを続けました。
W氏とN氏は「もはやこれまで」と、企業組合との協力関係を打ち切ると決断します。Sa氏も、「俺も支援を降りる」と明言しました。この席で、協力業者へも「関係を再検討する、事実上打ち切る」よう提案することが話し合われました。業者との関係や「市場」は、W氏やN氏が自ら勝ち取ってきた信頼関係・地位で保証してきたものだからです。Sa氏もここまでは同調しました。然し後には……。
 
○民事訴訟
99年3月に、「企業組合」が、業者を「損害賠償」で訴えるにいたりました。「訴状」の大半は、W氏らを「組合破壊分子」「妨害活動」として罵る言葉に埋めつくされていました。内容上は私もSa氏も被告=業者側になります。
私は業者側=W氏らの立場に立ち、「訴えるならW・刈谷を」と主張しました。「協力業者を訴えるなど、恩を仇で返すに等しい」。訴訟の進行は逐一、政治局(天田・中野・Sa氏あて)にレポートしました。藤掛氏を通して、「何かあったらすぐ報告しろ」という指示も受けていました。彼らも訴訟以外の何事かが起ることを危惧していたようです。
関西の決定を承認しつつ私の報告を求めるという天田さんらの2股の対応の背景には、当時激化していた国労臨時大会での「檀上占拠」をめぐる東西対立の火に油を注ぐことへの危惧がありそうです。「天田・Sa vs. 関西・ Mi」の人物構図がそのまま当てはまるからです。
98年2月、天田さんとの最後の会談で、私は「党の最終決定」を突きつけられ、また「関西地区党への不当な工作」の罪により、「謹慎処分」されました。私は、「党の正義の是非はおいて、社会正義の問題は残る」というのが全てでした。
1審では「一介の業者」さんが、弁護士の挑発に乗って、あらぬことを口走りました。「悪質な業者と可哀想な被災者」という構図が、裁判官の「良心」をくすぐったのでしょう。控訴審では、私もしぶしぶ、被告側証人に立つことを決意しました。「問題は東西の『党』の対立にある」、それでけりがつく。
私とSa氏の名前が被告側の証言に現れた時点で和解がなりました。関西も敗訴を覚悟したのでしょう。和解に乗り出しました。業者さんも「これ以上訳の分からない連中と争うと、仕事が身に付かない」と「社会の勉強代」として和解を求めました。
1審では、「8百万円」の賠償請求が2百万円の判決2002年の控訴審では「百万円」で和解しました。
 
「百万円を即刻払いたい。けれど当座の金が無い」ということで、私が労金から借金して工面しました。本来、私()が支払うべきものと思いますが、私に財力がないことが、こんな中途半端な対応になってしまいました。痛恨の極みです。
直後に、天田さんや中野さんらの4人に当てて報告書を送り、「“通報の権利と義務”の終わり、今後のいかなる指導も拒否する」と通告して、私の「中核派」としての「身分」も最終的に終わりました。
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自分の至らなさで保護者に叱られた子どもが、すねて、喚いて、駄々をこねる。妻に見捨てられた元夫が、ストーカーとなり「無心」する。そんな気もする。