レーニン的オーソドキシー

 ある時、ふっと分かって来た。本社生活での最後の数年間、私は「レーニン的オーソドキシー」の立場から議論してきたつもりだった。けれども批判してきたその1つ1つは、清水さんや水谷さんのブレティンやテーゼを筆者たちが忠実に引き写したものだった。
私は「オーソドキシー」を素直に、「70年」を準備した「古典的」で「原則的」な大衆闘争への回帰、と理解してしまった。しかし、これこそが「誤り」だったのだ。「古典的」な党活動や、大衆運動の核心に、「レーニン的手法」という魔法の小槌が欠けていた。
 
今、思い出した。私が編集局に移って間もなくのこと。月刊『武装』で、この「レーニン的手法」についての論文が連載されていた。党内闘争、対権力闘争での「レーニン的手法」こそ宝なのだ。レーニンは、党内闘争に勝ち抜くためには手段を選ばなかった。党内民主主義について論ずる時の、諸々の論点の差異は、ただ勝つためという1点で矛盾しない。労農同盟論も、「農民に土地を」のスローガンも、「権力奪取への執念」として見習え。やはり、「信念的信念」こそが鍵だったのだ。
 
うーむ。空港公団の家族の死も、神社仏閣の焼き討ちも、レーニンがやった事そのものだったという事か。レーニンがやった事に比べれば、まだ甘いという事か。
これが「3・14」への、清水さんの総括の核心だったのかもしれない。“本多さんは甘い”それを克服せよ、だろうか。レーニンから何を学ぶべきか、という視点が、全く逆だったという事か‥。参った、参った。
 

白井朗さんの除名

 01年、中核派の「第6回全国大会」で、政治局員の白井朗さんの除名の特別決議がなされたと聞いた。私も久しぶりに『前進』を読んだ。
白井さんが、「多少、多く本を読んだからといって」、「全責任をとる同志に敬愛の念を持たずに」、本を出そうとした。自己批判から逃げて、権力に投降した……。そんなところだろうか。
投降の「証拠」に、「自首して氏名を名乗った」ことがある。けれどもホテルでの出火だ。ここには白井さんの社会への責任という革命家としての姿勢・進退が溢れている。清水さんは人を跳ねても、自分が安全圏に逃げ去るまで数時間、被害者を放置するのを常とするのだろうか?
救援連絡センターから駆け付けた弁護士の選任を拒否して、「ブルジョア弁護士」に頼った、という。中核派のI弁護士を断ったという事か。ブルジョア弁護士とは、北陸の中核派の弁護をしてくれる人の事だ、と後に白井さんに聞いた。
 
「革共同は、分派闘争を否定した事が無い。革共同は、常に分派闘争の歴史だ」、ともある。
 「分派闘争」……なるほど、その通りだと思う。ここに「上からの」を加えれば、スッキリする。中核派は常に、上からの分派闘争の歴史だ。私は、「下からの分派闘争」を知らない。沢山問題は、「鉄パイプ」の後に知らされた。関西支社を占拠し、地方委員を囚にして中央と交渉しようとした……という外形的事実だけが知らされた。田川さんの時も同じだ。
唯一、女性解放問題での「革共同への袂別状」が読み上げられた記憶があるだけだ。
 
 本多さんの時代は、まあそれで良かったのかもしれない。当時の「常任会議」の出席者の多くは20代半ば、この年代の5歳、10歳の差はそのまま、理論・政治力で雲泥の差だ。社会経験などゼロに近い若者たち。疑問や反対が出ても、バシバシ叩けばそれで済む。専制的指導も大らかにやれたはずだ。
 唐突な路線転換、上からの軍令的転換、――転換の理由、その構想、清水さん、あなたは1度でも合意の為の説得をした事があるだろうか。
 筆者たちにも聞いてみたい。あなた自身は1度でも「上から」でない分派闘争をした事があるのか?あなたは、「上からの分派闘争」の前に、予めあなた自身の内に、それに備える中身を準備した事があるか?あなたが単なる茶坊主でなく、単なる出世主義者でない事を、確信を持って言えるのか?
 
白井さんとの再会
白井朗さんの『20世紀の民族と革命』(99年刊)と、2つのパンフを読んだ。1度会ってみたい、直接話してみたい。どう転ぶかは会ってからの事でいい。白井さんと会うために動いた途端、全身に震えがやってきた。下腹部からのキリキリした痛みが止まらない。「反革命」の汚名、「権力への投降、スパイ」のレッテル、そしてテロルへの脅威。
私は震えの中で悟った。「私はもう、中核派ではない。私は今、歩み出したのだ」。
 
 白井さんと会えたのは、1週間も後だったろうか。いろんな話をした。白井さんが、民族本の出版をめぐって清水さんと激しく対立した時、敗れて「自己批判」を書いた時、そして天田さんの手紙に引き寄せられて留守にしたアパートを襲われた時……。水谷さんの不可解な言動も、理論戦線の冬眠も、それで辻褄が合う。
その時私は、何も知らずに白井派の旗を掲げて最後の闘いをしていた。私はとんだドン・キホーテだったわけだ。とんだお笑い草だ。
 

2つのテロ

 02年12月、白井さんへの中核派によるテロがあった翌日、私はタクシーの同僚たちと朝食会をしていた。「白井さんがやられた」という電話が入った。やり取りを聞いていた同僚が「新聞に出ているって、大事件なんだ」と怪訝そうだ。私は「脱藩の浪士が藩の追っ手を受けている」とだけ答えて、席を立った。
 病院のベッドに横たわる、白井さんの痛々しい姿に目を覆う。けれど為すべき事も山とある。私は為すべき事を為すだけだ。[1]
 「鳩」が帰って来た。本社のメンバーがシンパたちに、白井せん滅を語っている。けれど直後には、本社も支社もかん口令が敷かれている。良いも悪いも質問すら許されない。「軍報」が出る気配も無い。なるほど、これが清水=中野体制か。
 もう1羽の鳩は、約束の時間に大分遅れてやって来た。私と会っている事を責められて、大分脅かされたらしい。彼の使命は、私に自己批判文を書かせて、逃亡させる事だ。私は健保と生命保険の話をした。「これさえあれば食うには困らない」。
「内ゲバには出ないんじゃ」と言う彼に、私は健保の仕組みを説明する。「謝った方がいいよ」と何度も説得されたけど、私は私だ。「もう会えないかもね」と恨みがましい彼の顔。犯人が中核派である事を疑う者は誰もいない。
 白井さんと角田さんへのテロ、その構想は何なのだろうか、私は考え続けた。共通するのは「中枢防衛」、そして共に元・中核派。共に「党内テロ」の延長線上にある。
 まず角田さんへのテロ。中核=宮崎関係を清算せよとする角田さん。宮崎スパイ問題を暴露した角田さん。宮崎が提供したのは金だけではあるまい。中枢そのものが、宮崎の掌中に有ったと見たらいい。いつか恐るべき事実が明るみにされるかもしれない。結論は待とう。宮崎学と中核派の問題だ。
 
 白井さんへのテロは、清水さんの「本の出版は俺に対する権力闘争だ」という言葉に象徴される。そして何ともグロテスクな発想の『清水著作選』(97年7月)
亡くなった陶山さんの遺稿集ならいい。それをも差し置いて、生きて現役の清水さんの『著作選』なんて誰だって笑ってしまう。あなたは本多さんや黒寛ではない。
 
 どうやら、文化人類学にいう「劇場国家論」が当てはまりそうだ。中核派の中で、清水さんの神格化運動が起こっているのだ。
「全責任を負う唯1無2の革命家」、彼はちまたでは「単ゲバだけの粗暴な人」とみなされている。野島さんはつぶれた。陶山さんは事実上、除名されたまま亡くなった。見渡せば茶坊主か不満分子。今やこの清水さん1人に、全ての難問がのしかかる。
全ての矛盾と混乱・怒りに応える、快刀乱麻の快刀であって欲しい、理論も政治も傑出した人であって欲しい。党の中堅の中から、神格化を求める声が集中しているのではないか。しかしまた、神格化そのものへの疑惑も生まれる。無理を承知の神格化なのだ。
 
この時、白井さんの「出版企画」は、「王様は裸だ」と言うに等しい。白井さんはまず、生ける神様に畏敬の念を示し、『清水著作選』の企画を提案し、しかる後に恐る恐る『20世紀の民族と革命』プランの可否を伺えば良かったのだ。
この当時の白井さんは、ようやく「政治局」に復帰して間もない。10年近く、「軍事小委員会」の専制的指導から隔絶され、革マル『解放』すらも届いていなかったという。松尾問題すら、知らされていない。党内の情況認識の欠如も、むべなるかな、とも言えようか。
 
右手に万邦無比な『著作選』、左手に党内テロの剣。清水=弁慶の仁王立ち。


[1] 清水=中野体制。2つのテロの特徴。、①鉄パイプを使わない。白井さんは「宅配便」に自宅に踏み込まれ、両手・両足を骨折。角田さんは、砂入りバッグ?で襲われた。②犯行声明を出さない。質問も許さない。統一戦線の会議では「中核派の犯行ではない」とシラを切る。③「不特定の犯人」への弾劾声明の署名者に、撤回を要求して脅迫的「説得」をする。