厭戦と抗命

 対革マル戦の初期、革マルとの調停に田川さん、陶山さんの2人が動いたと、ちまたで言われる。田川さんは除名され、陶山さんは白色テロの後遺症を癒せぬままに世を去った。陶山さんが、対権力のゲリラに反対していた事は私も聞いた。対革マル戦の調停も多分……と想う。
 しかしこの時点、すでに「政治局」は、事実上存在しない。本多さん・清水さん・野島さんらの「○○小委員会」が、実権を掌握していた。ここには、「大衆運動主義との闘い」がリンクされている。「党」の戦略は、戦争激化論だ。調停などあり得ない。本多さんの「上からの分派闘争」、それはまず、権力掌握から始まっている。
 
戦争の激化を阻んだ力、窮極的に停戦へと導いた力、それは各級・各レベルの条件闘争、あるいは面従腹背の力、そして「時代の流れ」だ。さらに、続々と出る指名手配によって、戦闘主力が奪われていく。内ゲバに嫌気がさし、軍令主義に反発し、多くの人が辞めていった。
「辞める」という形での反対意見、今私は、それを貴重な態度表明として改めて見直したい。各県委員会の運動を創立し、広範な統一行動を体現して来た人々が解任され、あるいは辞めていったのはいつ頃だったろう。
 軍への志願者などもういない。私の転属と同時に地下に移行した爆取さん、彼もブースカブースカ言いながら渋々従った。私も彼も、もし職場があったなら、転属など受け入れはしなかったろう。
 
実は私自身、「革命軍」だ。初期の革命軍は、正規とパートタイムの兵士で構成されていた。盗聴器の設置は特殊任務だ。私も軍令で軍の兵士になった。
約束の期間を過ぎて、私は復帰を申し出た。自分の為すべき事の数倍はやった。それでいいじゃないか、と私は思う。永久の地下生活なんてご免だ。「会議で言ってみろ、全員で判断する」という回答に、私は浮き足立つ。私1人が戻る事、戻りたいという事、それが問われる。
私は「家庭生活を守りたい」という事を理由にしていた。そこに批判の矢が突き刺さる。「軍と家庭、革命と家族、家を変革する事と何が矛盾するか。革命的立場こそ鍵だ」と批判された。この時点、それは私たちの思想性の核でもある。けれども、私は切り返した。「ブルジョア的家族関係は、解体すべきものではない。家族のちゅう帯を内から見直す事だ」。女性たちも多い、みんなこの問題で葛藤している。本当はこんな形で議論したくはない。
「それほど言うのなら自由意思に任せよう」。ようやく納得が得られた。私はホッとした。けれど残る人たちが、私のように主張できずに残されているのなら……断腸の思いではある。軍から復帰したという罪を、私は負い続けなければならない。
 α隊(行動隊)の役割が、私にくり返しも回って来る。「穴があいた」と「要請」される。私は何度も断る。けれどもくり返しの「要請」に折れる。そんな事のくり返しだ。
反戦のα隊要員が、たびたびの動員に音をあげているのだ。社防、集会のα隊、そして大学戦争、さらに三里塚のゲリラ戦。「もう有給も無い、首になっちゃうよ」。「首になるまでやれと言うのか、冗談じゃない」。金も無い、時間も無い。生活も職場の課題も、もう待てない。自分たちは労働者として闘いたい。
反戦はこの「内戦」を「やっぱり内ゲバの延長」と腹の中で思っている。「付き合いきれない」が本音の所だ。「抗命」という形で、労働者は主張している。クシの歯が抜けるような動員が続く。けれども作戦は変わらない。「無能な」中堅指導部は、股裂きに苦しむ。そして「有能な」手配師が、昇格の階段を昇って行く。虚偽と力と面従腹背で、自らの組織の温存を謀り、力を発揮する事も横行する。
 
戦争指導としては、大学戦争をもっと絞るしかなかったのだ。そして.倍の兵力を集中して、守りきる。ここでは学生運動中心論が尾を引いた。「戦争としての戦争」は、「対峙段階」で終わらせる。「あと一撃」論を粉砕した後は、中枢防衛こそが要だった。3・14さえなかったら。本多さんその人が「非合法軍事」と、度し難い公然主義生活の自己分裂を凝視し得たなら……
 

「非公然の党」という虚構

破防法の団体適用を覚悟した対権力の武装闘争、それを支える「非公然・非合法の党」について。
破防法とは「3人以上の集結」を犯罪とするものだ。80年代、中核派はどこまで本気に党の非公然かを進めたろうか?「本気」だったのすら疑わしい。
 
角田さんが中核派に通報・提供した2つのスパイ問題の答えは、角田さんへの「テロ」だった。
清水さんのアジトまで提供した宮崎学事件、関西の党の全貌をつかまれた事件。この2つについての組織的総括。責任追及はなされない。「全党・全人民」への責任も、だ。
 
大衆集会での「指揮系統」。集会での最大の課題の1つは「撤収・解散」だった。屋外集会でも、司令部→地区責任者→班→メンバーへの軍令の伝達が行われた。この系列は、「党の系列」そのものだった。新しいメンバーも、彼・彼女がどの系列に属するかが一目りょうぜんだった。公安警察が囲み注視する中での「軍事優先」は、「非公然性」を踏みにじって平然と行われ続けた。
権力に割れていないメンバーがどれほどいたか?
公安の「能力の低さ」を置いて、確信を持って「割れていない人」の数と質こそが、破防法の団体適用への備えだったはずだ。それがゼロだ。「中央集会への参加者の数」こそ「決戦の総括の軸」であったこと、「参加の頻度」こそが「党員性の証し」だったという事実。
 
「非合法の党」は「職業革命家の党」だという言説が80年代にまことしやかに語られた。今では公然生活を営む労働者党員を切り捨てて、職革だけ生き延びれば良いということだったろうか?けれども「職革」は前進社などの公然事務所に陣取っている。いざと言う時には彼らが真っ先に捕まるだろう。団体適用を前に、でっち上げ逮捕が大々的に展開されることは自明ではないか?
結局、「非合法・非公然の党」へのまじめな取り組みは一切無かったというべきではないか?権力への甘え、という以外に無い。これではオウムの武装闘争と変わらない。
 
「内戦」に協賛した「党員」は、無条件に「戦士」になるべきだろうか?
 
私は思う。どこにいても、や「内ゲバ」から、私たちは自由ではありえない。どんな運動・集団も、つまらぬ内紛でせっかくの蓄積を無にすることは、避けられない。それをどこまで抑えることが出来るかが、問われ続ける。そのためにこそ、口を閉ざしてはならない、と。[1]
 
「戦争を知らない世代」がほとんどになった。「殺し合い」がどんなものか、「臨戦態勢」がどんなに破壊的作用をもたらすか、私たちの体験を総括することで、生きた「反戦論」を作り出したい。ほとんどの戦争の死者や犠牲者は、「戦場」ではなく「銃後」で生まれるものだ。「臨戦態勢の中での視野狭窄(きょうさく)」。味方の吊るし上げと、自損事故、そして後ろから飛んでくる石ころで怪我をする。


[1] 内ゲバ。民主主義とは、果てしない抗争から生まれた。むき出しの主張と利害の抗争、策略と取引の場だ。であればこそ、少数派の拒否権・離脱権を含む。「離合集散、割れても末に会わんとぞ思う」。そのために幾重ものルールがある。