51      分岐点=三里塚の分裂とテロル

三里塚テロルへの自己批判

私が83年三里塚「3・8分裂」の意味について改めて思い知ったのは、前進社を出てからだ。
まず、第4インターへのテロルの自己批判を私として、はっきりしたい。
 
「348氏の声明」を以下、再確認しよう。
84年3月7日 前田俊彦、福富節男、近藤悠子、吉川勇一氏の四氏が記者会見を行い、348氏の連名による4項目からなる声明を発表した。この声明は、三里塚飄鰻亭の前田俊彦氏の呼びかけに端を発している。
声 明
一、一月九、十日におこされた三里塚闘争にかかわる活動家への暴力による襲撃事件にわれわれは衝撃を受け、このような事件の再発を深く憂慮する。
一、万人の自由と平等をめざし、平和を希求するわれわれは、物的利益主眼の権力政治に反対するとともに、運動内部での排他的なイデオロギーによる支配にも反対する。
一、運動上の意見や方針の相違を、物理的暴力、とくに肉体的な抹殺や、それを背景とした脅迫によって解決しようとするような行為は、運動の基本原則とまったく無縁であり、人民の運動の荒廃のみか、広く民衆一般の政治不信を広げるものと憂慮するわれわれは、このような行為が2度と起こされぬよう、強く要望する。
一、今回の不幸な事件を契機に、対立する2つの反対同盟の農民が、話し合いをもち、万人の共感を得られるはずの三里塚闘争の大義において一致されるよう、心から希求する。
 
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中核派は、最も鋭く対立していた第四インターに暴力的テロルを加えた。第四インターを「反革命」と規定して83年1月そして7月に第四インター系の8人の活動家を襲い、頭蓋骨骨折、両手足骨折、片足切断などの重傷を負わせた。その後も活動家や一坪共有地運動に対して「次はおまえの番だぞ」と脅迫を続けた。
 × × ×  
ここで語られている事は間違いの無い事実であり、当時私が知っていた事だ。私自身は積極的にこのテロを協賛したことは無いけれど、中核派の1員として、編集局の1員として、「批判」もせずに従っていたことだ。
 
これに加えて、「熱田派」農民に対して同様な「弾劾・脅迫」があったこと、さらに味方の「北原派」支援すらも天神峰から排除したことも語られている。多分、これも事実だろう。
中核派は、民衆にとっての希望の星でもある三里塚を、「内ゲバ」の泥沼に落としこめることで、破壊してしまった。三里塚と中核派を、「革マルと同じ」にしてしまった。
 

「攻勢的な分裂」方針

「中核派は分裂を積極的に進めた」と言われている。それが事実だと思える。
三里塚闘争は、確かに中核派を中心に闘われてきた。けれどまた、諸党派の競合で多彩な闘いを生み出してきた。岩山鉄塔も青年行動隊と「連帯する会」の発案だ。何よりも、78年「開港阻止」の管制塔占拠という偉大な闘いは「連帯する会」の闘いだ。その後の「組織破防法」適用を巡る大弾圧で苦しみ、混乱したとしても、それは第1義的には「温かい目で」見つめるべきものだったはずだ。
仮に又、第4インターが「中央丸ごと反革命に転落した」としても、第1義的には、当該の党内闘争に託すべきものだ。
「3・8分裂」は、それに逆行するおぞましい思いに満ちたものだったと言える。あれこれの「裏切り・動揺」をあげつらい、主導権を奪い返そうとする無様な思想だったと言うべきだ。
 
「三里塚2期決戦勝利=革命的武装闘争」が「先制的内戦戦略」に純化・格上げされる中で、中核派は、もろもろの対応能力を自ら放棄してしまったように思える。「テロとゲリラ」万能観が、まともな政治・思想を排除して満展開して行くその結節環として、「3・8分裂」とテロルがあったように思える。
 
反対同盟自体の葛藤と分裂について中核派は、「熱田派」の「裏切り」をあげつらった。けれど、その10年後、「熱田派」は総体として、依然として「反対同盟」であり続けた。
仮に反対同盟の分裂自体が避けられない物だったとしても、その対応は余りにお粗末だ。「三里塚大地のまつり」に反対したこともその1つだ。熱田さん自身、中核派と北原さんの硬直した「独裁」に嫌気が差して離れたと聞く。
分裂後の「熱田派」農家への「弾劾行動」は、「支援」の枠を超えたものだった。
仮に、「脱落」した農民であっても、長年の闘いで傷つき疲れ切った農家・農民を労わり、守るのが「支援の道」であるはずだ。
その農家に長年係わり、その農家にこだわり続けてきた現闘や諸支援団体にとって「弾劾」などあるはずも無い。この板挟みで崩壊した現闘メンバーもあると聞く。
 
「3・8」は中核派と三里塚闘争の終焉への分岐点だったと今、改めて思う。三里塚「3・8分裂」と第4インターへのテロによって、中核派は「革マルと同じ」と忌み嫌われる党派になってしまった。三里塚に賭けた「希望」は消え去った。
 

革命的独裁という「利権屋」

中核派から離れた後、89年に法政大学で、黒ヘル・ノンセクト200人による、松尾追放運動が爆発していた事実を初めて知った。
2文連予算から1千万円を中核派に渡せという松尾の要求に、隷従を続けて来た黒ヘルがぶち切れた。「利権屋=松尾を追放せよ」。それは松尾(中核派)の言う「革命的独裁」の犯罪性を顕著にし、革命軍戦略の公然面での、全面的崩壊を顕わにした。
 
松尾の「革命的独裁」
 ここでは趣旨に反して1度だけ、見聞していない事実を確認したい。2チャンネルからの引用だけれど(http://www.josephandleon.co.jp/joe/eki-matsuo-seiji.htm)、中川文人氏の語っている内容と一致するので……。[以下、無断引用]
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松尾氏の目に、1978年当時の法大学生運動はどう映ったのだろうか。彼の書いたビラの文章をみてみよう。 ……われわれは率直に反省、自己批判する。こういうインチキを黙認しているわれわれ自身の腐敗が法大学生運動を腐らせてきたのである。階級闘争は数の問題ではない。なによりも革命的戦闘精神、魂の問題である。……
 松尾氏は同盟と全共闘=黒が「馴れ合っている」姿が、 どうしても許せなかったようだ。そして、彼は宣言をする。
 「わが法大学生運動は……いま、最も鋭い革命的飛躍を求められているのである。このとき、一切の右翼日和見主義者は害毒を流すのみであり、容赦なく粉砕されなければならない。」

 そして、松尾氏は法大学生運動=同盟を「立て直おそう」と 黒その他諸派への潰しオルグ=「イデオロギー闘争」に着手する。 徹底的に討論して自らの誤りを認めさせ、「前進」を有料購読させたうえで同盟の運動方針に従わせるというものである。
 彼にとっては階級闘争の一環でもあるので非常にシビアである。

……階級闘争は情け容赦ない。選択は2つにひとつなのである。」
 階級闘争が情け容赦ないのか、それとも松尾氏が情け容赦ないのか。この間、学館黒ヘルの実名批判ビラが何枚もだされた。ビラにかかれた人物はつぎつぎと白ヘルの拠点である自治会室の1室に呼び出され,松尾氏と討論することになる。

 それだけでなく討論の内容がビラになって公開される。ついに耐えきれず自己批判書を書かされて自らの手で配付させられるものや、サークル団体の執行部を辞任させられるものが出てきた。
 
[続いて、ネット「われら少数派」の『法大学生運動史』]
中川 松尾さんがね、『ボルシェビキ』って個人機関紙を作って、Tさんを徹底的に攻撃する。で、Tさん1派と目される人間を1人1人呼びつけて、かたっぱしから自己批判を取っていく。
 で、2週間くらい経ってからかな、ついにTさんも自己批判。で、Tさんを含めて3人が放逐されて、Tさんの反乱はあえなく鎮圧されます。
外山 あー。
中川 もう1つ、これは絶対に引けないなと思ったのは松尾さんのやり方。あまりにもバカっぽいんだ。
 だってさ、「イデ闘(イデオロギー闘争)を申し込む」って云ってイデ闘をガンガンやるんだけど、結局、最後は「おまえはカクマルだー。カクマルじゃないなら自己批判しろー」だからね。あれには呆れたよ。カクマル規定された1人なんて、「中川、教えてくれ。革マルって何の略なんだ?」って奴よ。そんなのが革マルのわけないじゃん()。あんなのイデ闘でもなんでもない。ただの言葉遊びだ。
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松尾の名誉のために、中川氏の評価も引用しよう。彼は松尾追放運動の張本人だ。
中川 ああ、でも、松尾さんとの出会いはやっぱり大きいね。松尾さんを見て、「日本人でも共産主義者になれる」「日本人でもKGBの大佐になれる」って確信が持てた。
外山 松尾さんの影響ってでかいんだね。
中川 でかいよ。ジョー・マジャールもそうなんだけど、我々の世代って、なんだかんだみんな松尾さんが大好きなんだよね。あんなひどい目に遭ったのに。
外山 なんでだろう?
中川 ジョーは「ストックホルム症候群」だと云っているけどね()。誘拐された人が誘拐犯に好意を持っちゃうってやつ。でも、それだけじゃないと思うよ。88年の事件[1]が起きる前からあの人、人気者だったから。善人か悪人かっていわれれば、そりゃもちろん悪人だけど、悪人って魅力的じゃん。
外山 善人はつまらない、と。
 
松尾の「名言集」もある
中川 「中川よ。おれが全学連委員長をやっている時は、全国から問題意識のある奴が結集してきた。が、最近は問題のある奴しか寄ってこない」ってやつね。
 
[学館人質論]
中川 ‥(人質論について)上のほうは分かっていたと思うよ、少なくとも黒ヘルがそう考えてるってことは。だけど現場の人間はそこまで考えてなかったと思う。
彼らの意識といえば、私は中核派だ、法大は中核派の拠点だ、だから中核派に逆らう奴は排除しなければならない、って程度だから。ああ、でも「戦わない学館なんていらないんだ」「うちは別に自主管理の学館じゃなくてもいいんだ」「対カクマル戦を考えれば、当局管理のほうがむしろいいんだ」なんてことはよく云ってたよ。
中川 学館が人質にとられているから、結局、最後は我々が譲る。で、中核はやりたい放題。「云うことをきかないと、おまえらの命よりも大切な学館を潰すぞ、それでもいいのか」と、彼らは無理難題をふっかけてくる。我々が白ヘルを憎む最大の理由はこれだね。彼らへの憎悪の根は深いよ。白対黒の対立は政治的対立のレベルを超えてたね。
……解説はいらない。
 


[1] 年の事件。前記の要求事件。松尾追放運動の端緒。このHPは『ポスト学生運動史』(彩流社)で出版された