被ばく検査が緒に就いたかと思ったら、4月からの作業員の多くが、所在不明か名簿にすら見つからないという。
 
下請け・孫請け・ひ孫請けの構造が浮きあがってくる。
やくざ絡みや町金絡みの話もちらちらと語られている。
 
ここでは、私自身の経験と、友人の経験を紹介するにとどめたい。
 
①私の原発体験
  多分1972年のこと。これも確か、東海(第一)原発のことだと思う。
 
 私は横浜の非破壊検査の会社で働いていた。
 
突然、部長に、「原発に出張に行け」と指示された。
4人1組で一か月ほど、第2次冷却水?の細管の超音波検査だという。
入社してまだ1年ほど、それに直前に出張を断ったこともあり、私は受けた。
 
部長が言う。「お前は入社5年、民間の資格の1級、ということにしておくから」
「えっ。だって‥」
「そういうことにしておけ。経歴書もそう書いておくから」
「はあ? 分かりました」
 
下請けというのはこんなものだ。お国というものはこんなものだ。と納得した。
 
もともと原発の作業は、地元への見返りとして位置付けられたものだったはずだけれど、宇宙服のような作業服(防護服)と胸に着ける線量計が着実に値を示すのを繰り返すのは気味のいいものではない。
結局地元でいやがって、遠く横浜まで発注が来たのだという。
 
出張手当、危険手当、宿泊手当てなど余禄も大きかった。
 
②私の前歴
 当時私は二つの裁判を抱えていた。逮捕暦は20余回。公安も会社に通っている。
 原発の敷地内外の幾重にも張り巡らせた鉄条網やフェンス。
出入りに際しては厳重な人物確認もある。
原発は、「テロ」に対する警備も厳戒だ。
当時の反対運動のひとつの論拠には、「地域全体の警察支配」という項目もあった。
 
こんな私を平気で受け入れる原発・東電とは‥
 
戦争と複雑に絡み合う原発。
こんなことで、軍拡や戦争協力をして大丈夫なのか、と素朴に思ったものだ。
 
 
続きはコメントで。
 
関連記事は{1章 横浜時代}の「非破壊検査技師」「原発労働者」など。