荒川スパイ問題でも、半年後・数年後に振り返ってみれば、(どちらにせよ)大変な事件だったことが分かるだろう。
 
① 確かに今この時点で判断し、行動しなければならないのは事実だ。
 そこでは、「有罪論」にしろ、「無罪」・「推定無罪」にせよ、さまざまな判断と行動規範が入り乱れる。
 判断基準には、「荒川氏と中央と、どちらが信に値するか?」「どちらが(自分にとって)信じられるか?」という問題は大きい。
 荒川氏への信頼を通して中核派に近づき、離れずにいた人々は、どちらにせよ総崩れになるのは必然の流れだ。とはいえ、事態の進み方により、その中身は全く別なものにもなる。
 
 ②それはそうなのだけれど、時とともに「事実」が変わることも、私たちは繰り返し経験してきた。
 乏しい資料や判断基準、そして何よりも貧しい経験値が、時間とともにさらけ出される。
 そうして「成長」するのだと…。
 
 そんな時に、私たちはどういう判断をするべきだろうか?
 「決めたこと」「終わったこと」として蓋をするのか?
 「間違っていた」と土下座し、長々と自己批判文を書き、読むことを強制するべきなのか?
 それとも、もう一度素朴な事実を洗いなおすことをすべきなのだろうか?
 
 日々の問題でも、「内戦」でも、私たちに「総括する」という土壌があまりに欠けているという思いが強い。
 
 神ならぬ身の過ちは不可避だ。
 そんな当たり前の人間の「総括」とは何だろう?
 誤りも重ねるし、総括もまた新たな誤りの基だったりする。
 
 ③中身のある総括とは何だろう?
 
 一般論にとどめよう。
 大事な問題は、半年後、数年後に少なくとも数度、もう一度反すうすることを習慣にすることではないか?
 「あの時は押し切ったけれど、やっぱりあんたが正しかった」ということの繰り返しができるという習慣・体質を、個人レベルでも組織レベルでも身に付けることではないのだろうか?
 
  事件(や決戦の規模が)が大きければ大きいほど、それに比して「中央集権」が知りうる量は少ないのが当たり前の前提だ。
 
 膨大な資料と(水溶紙の)報告の山に囲まれて、中央・上級指導部のもつ情報量は、現場の数百倍にも上るかもしれない。けれど、「すべてを知り、何も識らない」のが「中央の定め」だということも(不条理ではあるが)識るべきだ。
 何層もの(イデオロギーと政治判断と官僚機構の)フィルターを通して得られた情報の空虚さを思う時、さらにそう思う。
 
 ④居酒屋での議論(会話)やポツンと漏れた一言をもっと大事にする(しっかり位置づける)風土なしに「近代の超克」はおぼつかない。(明治以来の)正規の「会議」と雑談(談合)の2元化を、私たちなりに組み立てなおすことなしに、「総括(まとめて振り返り、捉える)」ことはできそうにない。
 
 ⑤結論
 荒川スパイ問題も、その大きさ、深刻さを考えれば、一度きりの「軍事裁判」で終わりにするのは余りに空しい。
 ㋑ただちに資料を公表しろ。
 ㋺ということと並んで、「より公正、より開かれた場で」すぐに、
 ㋩そしてまた半年後・数年後に「再審」する。もちろん、「検察側」も審問の対象だ。
 
 そうでもしないと、中核派自体が、内外の「信」を失うだけだ。
 明日は無い…。
 
 
 (補)久しぶりに『パルタイ』(倉橋由美子)を読んだ。60年安保のさなかに24歳の女性によって書かれた短編は、今もその輝きを失ってはいない。