私も、「一本化」に期待した口だ。
さらにいえば、「一本化」が無視された時点で、「細川支持」に舵を切った。
 
とはいえ、かなり腰の引けた「期待・支持」だった。
 
理由は簡単だ。
①私自身が動けない諸般の事情が続いていること。
 仮に動けたとして、「細川支持への集中」運動を有効に働きかけることが非常に困難に思えたこと。
②運動はもちろん、メディアなどでも「まず原発」という視点が語られて、おおいに共感するのだけれど、「世論の」実情からはあまりに程遠いという実感だ。ベースとなる「世論」は、「期待・思い」はとりあえず別として、あまりに冷え切っている。
③「細川への一本化」は、その内容がどのようなものになるか次第で、一定の新鮮でアクティブな層を揺り動かすだろう。1人で数十の票を動かす活力に満ちた大衆(または大衆的活動家)が奮い立つ中身になれば、保革の枠組みを超えた力が発揮される。しかし、宇都宮・共産党が無条件に拒絶した時点で、可能性は消滅した。‥‥消滅した。
 一本化をめざす人氏や運動はあまりに脆弱で、双方の接着剤・緩衝材としては、あまりに存在感がなかったというしかない。双方にとって、「利益は無く、失うものばかり」。深い溝を埋めるには、それを飛び超えるそれなりの広がりをもった熱気と期待が求められていたけれど、あまりに遠かった。