だいぶ前に、本多さん虐殺の真相がアップされていることが判明した。
 とりあえず、転載する。
  私が聞いたこととほぼ合致する。

  運動の中から正面から語られなかったのが残念だ。
  これもまた、もうひとつの「50年史」といえる。


2007年12月31日 (月)

2007

【取材メモ】本多延嘉・中核派書記長「暗殺事件」

〝事件取材〟を長くやっていると、まったく別件の思い掛けない話が飛び込んでくる。都内でも有名な地上げ物件の取材をするため、関係者に会っていた際のことだ。この人は地上げについては肝心なことは何も言わなかったが、何故か急に、俺は学生の頃、中核派だったんだ、と話し始めた。71年11月の「渋谷暴動」(沖縄返還協定批准阻止闘争)で逮捕されたこともあったようだ。この時は、機動隊に攻撃を仕掛ける部隊に配属されたという。
「たまたま、俺は寝過ごして、〝早朝召集〟に遅れてしまったことがある。これは後から知ったことだが、革マルがその時、死んでいる。地下に潜っていた当時の仲間と30年ぶりに最近会ったよ」
周知のように、中核派と革マル派は長期にわたる「内ゲバ」を繰り広げ、その死傷者は1000人に及ぶとされている(現在、両派は公式に表明していないが、実質上、内ゲバを停止した模様)。そうした内ゲバの中でも、「暗殺」と位置付けられているのが、75年3月14日に埼玉県川口市でおきた中核派・本多延嘉書記長に対するテロである。「犯行声明」を出した革マル派が、最初から本多書記長の殺人を目的としていたことは明らかで、このテロは革マル派が組織の総力をあげて実行したものであるとされる。
「革マルは警察を装って本多さんが交通事故にあった、と夫人に電話した。当然、夫人は防衛上の観点から前進社(中核派の公然拠点)などに事実確認の電話をしている。ところが、夫人の電話はすべて革マルのアジトに繋がるように工作してあったのだ。本多さんの身の回りの物を持って出掛けた夫人を、革マルの別動隊が数時間にわたって追尾した結果、本多さんのアジトがわれてしまった」(前同)
この時、本多書記長の所在を知らされていたのは、夫人と極く限られた中核派最高幹部だけだったという。