06年の3.14に反対して独立した九州地方委員会。
本社からの懲罰隊との折衝の末、支社を明け渡して反戦共同行動の事務所に拠った。
 
もともと西日本は与田系(与田の指導体制)だったが、残る中四国委員会の執行部が本社の素早い動きでクビを挿げ替えられてひとまず収まったのに対比して、九州の頑張りは(内容を措いて)ひとつのあるべき姿でもあった。
 
関西派と中央派の対峙と「中野体制」への移行の中で、「内ゲバとしての内ゲバ」にならない分裂のありようが、ようやく生まれたことに意義があるともいえそうだ。
 
残念ながら平田さんは逝去。HPの更新もままならない。