末端での話。
 
 課題別だけれど共産党や他党派との新旧の左翼連合も一つの選択に入っている。
 小さな町や職場末端で旗を揚げようとすれば、どうしてもそうなる。

 運動の名義的な代表になってくれる人たちは、元がどうであれ保守や日共も含めた人的ネットワークを持っているから、(指導を放置すると)「ずぶずぶ」の統一戦線=共同行動になっていく。

 日共も今は日共主導であれば地域での「トロツキスト」との共同行動を認める方向にあるから流れとしては「末端共闘」が広がっていきそうだ。

 中核派も「労働運動路線」として、同じ方向にあるといえる。地方や末端で「反戦・平和」や「脱原発」の旗を揚げようとすれば、いまや避けて通れる道ではない。

 「党と労働運動の一体化」は色んな意味で議論の的ではある。
 もともとの「一体化」論は「党物神化」への反省とされているし、その意味で、こうした選択が許されるのもおかげさまと言うところ。
 福島現地や11月集会を個別に提起すれば人によっては目を輝かせて飛びついてくる。
やはり、孤立した小さな運動だけでは持続しないということもある。


 ただ現実はまた少し違う。
 「ずぶずぶ化」を恐れてか、それと並行して「一本釣り」や囲い込みに走ると白けた空気が生まれてくる。
 『前進』の学習会を組織すると日共を頭ごなしに断罪することになるし、「そんなつもりじゃなかった」というシンパや大衆がおかしな党派性を発揮しだしてくる。
 党派性を発揮しようとするとせっかくの運動がおじゃんになりそうだ。
 
 「一体化」とは、「党が労組に」なのか「労組が党に一体化」するのか??
 難しい問題だ。

 普段の共闘ではじっさい、共産党からパクった議論や、反中核か非中核の人士の議論を使う。だから日共と中核の違いも無くなってしまうから、ある日突然日共批判を始めても違和感ばかりが大きくなる。

 何が中核派らしい独自の議論なのか?何が中核派的議論の仕方なのか??何が中核派的な共同行動論なのか??やればやるほど分からなくなる。

 脱原発も格差反対もいわば「後追い的議論」だ。

 「たとえ豊かさを失っても」とか「生活や文化の見直し」とかもある意味では「黒ヘル的」な見識になるのだろうけれど、対抗的に単発的に言っても「はい、はい、はい」と言われるだけだ。思い付きで無い、広く深い見識を育てなければ信用されそうもない。