改めて「血債主義」批判について検討してみた。
ここでの清水さんの結論は、①党絶対化の立場の自己批判と転換
②血債主義との闘いへの転換
といえそうだ。
ではその中身は何かと言うと、よく分からない「一体化」論と、血債主義との組織・人事での闘いだ。ただ、「イデオロギー闘争」だけの限界というけれど、AかBかの二者択一以外に、より深いイデオロギー闘争(理論闘争)の中身がまったく見えない。あるいは限られた政治局員などでの議論と押しつけ、イデオロギーの強要以外に何も見えないということだ。
あえていえば、血債主義であれ労働運動主義であれ、それぞれ色んな課題や場面を想定して複層的な議論をしたという形跡は見えない。それは今に至るも同じだ。
党と左翼世界総体を舞台にした公開の場での豊かな理論闘争・路線=総路線=綱領的・戦略的云々が欲しい。
「私は明らかに、党絶対化の立場に立ち、党を労働組合より上に置くという立場に立っていた。労働者自己解放闘争の立場から労働者階級の労働組合的決起を共産主義運動と一体にとらえる立場を踏みはずしていたということである。」(清水議長の自己批判から)
その少し前で清水さんは血債主義派との闘いについて語っている。
私はこのような血債主義派・糾弾主義派について、その誤りは一定認識し、批判もしてきたつもりであった。だが、彼らを組織的に打倒し、中央・地方の指導部から一掃していくことが火急の絶対必須のことであることをつかみきれなかった。
自分は、端的に言えば、彼らをイデオロギー闘争の対象としてしまい、組織内討論をとおして変革できるとしてしまい、彼らを、5月テーゼ路線を現実の階級闘争のなかで妨害し、敵対しているものとしてつかみとることができず、結局その存在を容認してしまった。
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50年史の巻頭論文
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