1月に書いて、未完のまま「非公表」にしていたものを、書き足せないままアップすることにした。
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 風刺画とテロをめぐるニュースと論議が進んできた。

 当初はフランス式言論の自由一般が語られた。
 構図としては、「マフラー論議」がそのまま蒸し返されていたのだと思う。

 さらにそれに対置するものとして、「アラブやムスリムの視点」そして欧州へのムスリムの広がりと疎外が語られた。

 続いて今は、フランス式の「二重基準」が見えてきた。
 ナチスに対する一定の規制、そしてテロへの共感への規制。
 コメンテイターの尋問・逮捕事件は(少なくとも)読売・サンケイには報じられなかったと思うが、同じ「カリカチュア」への正反対の対応には改めて驚いた。

 改めて少しフランスの勉強をしてみたらまた少し見えてきた。

 フランスもまた、「アルジェリア戦争」の歴史を抹殺し続けてきたということ。
 近年少し変化があるようだけれど、大局的には変わらない。
 直訳すると「事変」であり、「戦争」ではなかった、そうな。
 そして「フランスはアルジェリアで良いこともした」論がやはり主流だということ。

 振り返れば、あのベトナム戦争だ。
 とくに第一次インドシナ戦争でディエンビエンフーでの敗退を引き継いで、フランスはアルジェリアで侵略戦争を続け、そして敗退した。
 アルジェリアの独立を認めざるを得ない時点で、現地フランス軍が「コロニー(植民者)による別の独立」をめざし、本国との対峙のもとで時を経て、いざフランス本国に侵攻する(スペインの内乱)のような事態に陥った。

 その時再び出てきたのがあのドゴール。
 極反動的な政治家にして、「計画経済」や社会政策も試行する、左右両極の間に立ち内戦を抑え込んだ「ザ・フランス」
 1960年を挿んだこの期間は、黒田寛一(当時は革共同)の著作にもあった。
 本多さんの「ボナパルティズム論」も、このドゴール(ゴーリズム)をも射程に入れたものだったはずだ。

 さらにさかのぼれば、第2次大戦での新独「ペタン政府」。法的・「民主主義的に」振り返る限り、ペタン政府こそフランス正統政府だったし、ドゴールの臨時政府など、何らの正統性も実態も無いものだった。フランス国は実態として、独仏伊の敗戦国だったことを改めて振り返る必要がありそうだ。
 「フランスの自由」論議は、重層的な諸問題から逃げ、隠ぺいして成り立つ「フランス人の平和」のための議論だということが浮かび上がる。

 そう振り返ってみると、「フランスの自由」とは、1789年のフランス革命の伝統だけでなく(今も強大なカソリックの影響…)、ゴーリズムに集約される(植民地や国内少数民族への)同化主義が開き直り的に語られてきたものだということになる。「栄光のフランス」を集約環とした「フランス人のためのフランス」論だと言えそうだ

 フランス左翼にとってもなかなかやっかいなタブーを議論にするためにもやはり歴史を生き生きと踏まえなければと思う。片言隻句をただ対置するだけでも無く…。


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 サイード氏らによる「オリエンタリズムとは何か」が語りだされて久しいが、私自身にとっては、すでにフィリピンの歴史に学んだ民族解放にかけた思想史でとうに語られていたものでもある。本としても分厚く豊かだった。

 フィリピンでもフランス共産党の影響下で「共産主義者」や民族解放闘争が生まれたことは間違いなさそうだ。
 新人民軍を生んだ第二次共産党も、抗日ゲリラを闘った共産党の腐敗をのりこえて再結成された。思想的影響の系譜は、「フランス受けするインテリの思想」を批判しつつも、やはり偉大な先人として尊重する態度が(とくに指導的部分に)色濃かったようだ。
 私もまた、こういう態度を尊重し、守りたいと思う。
 魯迅や孫文を敬愛するように。

 乗り越えるべき先人の全体像をしっかりととらえて、「打倒対象」とする。
 思想や理論の歴史はそうありたいと願う。