イスラム国の人質に端を発する日々の中、私自身半ば「平常心」を失った日々を送っている。

「問題をどう立てればいいのか」がほぼすべてと言って良いのだけれど、「何故」そういう設問になるのかがきれいにすっきりと語れないもどかしさがある。

 なぜかというに、
 ①かつての人質事件での「自己責任論」の大合唱に身構えながら、いかに切り返すかと緊張しながら考えてきたこと。
 ②政治過程として、「集団的自衛権」などの政治反動との対決の切迫性。
 ③それとは別の次元で、広範な世論(職場や地域での会話や諸問題)が一斉に噴き出しそうな気配。
 などが同時的に沸いてきそうだからだ。
 ④同じことかもしれないけれど、「日常の煩雑な諸事件と感慨」がある。病気や事故、近親者との関わりは、何が起ころうと揺るがせにできないし、あえていえばそういう視点から照射しなければ、解けない事どもも少なくない。

 言いかえれば真正面からの論議を(誰にどこでどういう形で)すればいいのかと、周りにいる「普通の人」との会話と日常をどう調整していくのかで私自身のキャパシティ(容量)を超えた問題をどう整理するのかという問題でもある。

 おいおいその辺を整理することにして、しばらくは私の身辺での事件や感慨を振り返ってみたい。「熱く熱く」と「クールにクールに」の並行作業が難しい。