本書によれば、91年の5月テーゼに反発して秋山さんが「やけのやんぱち」でゲリラ戦を総発動させて力尽き、自身の罪状を告白した年であり、平行して地下からの浮上が大量に進んだときだ。清水さんの「左ブレ」が元の「右ブレ」に戻る。権力に対してもそういうシグナルを送り続けた時期だ。白井さんが偽りの「政治局会議」におびき出されて自宅を襲撃された年でもある。90年代半ばを「亀井=中野会談」をキーワードに振り返ってみたい。

 

会談の意味

桜 「たかだか千葉機関区の少数派の1組合」に担当大臣が乗り出す。しかも元公安、浅間山荘の亀井だ。会談の設定そのものに「政府・公安と中核派のすり合わせ」が意図されていたと言われて普通はおかしくない。

 そう思う。否定する材料がない限り、断定していい。考えれば考えるほど、スルーできない。

 中野=亀井会談の94年とは、年末に本社が移転した時期であり、私の本社生活の最後の1年にあたる。職場で生活し、組合で活動して分かったこともある。警察や会社側との付き合いは実に色んな形いろんな場面である。小さな職場でもガラス張りと並んで「非合法・非公然」の領域はある。

 あえていえば、「武装闘争の党」であれ「非非の党」何であれ、国家とのシグナルの交換やホットラインは事実上あったしあっていい。「一時停戦」や「部分停戦」のために「取引」や「ボス交」はあるものだと腹をくくることも必要な気がする。双方が相手への妄想や誤解で攻撃しあったら、とんでもない事態を生むこともあるからだ。「権力」や「体制」は必ずしも一枚岩ではないし、「誤認による無益な犠牲」も少なくないからだ。ただ、「当面どこまで〈法やルール〉を守るかの暗黙の?」シグナルはできるだけ公開であることが望ましい。

(参考までに1      鉄壁防御の要塞)

 ただそうであればあるほど、一定の規模と時間をかけて、(少なくとも執行部(政治局))では、それがどういう事態を生み、その対策にどれほどの力を注ぎ込むかを真剣に議論しておくことが不可欠だ。それを運動全体の新たな社会認識・政治認識にまで高めていくという努力が必要なのだと思う。それなしには「取り込まれる」。力関係があまりに偏っているからこそ、「転向」「党としての転向」でしかない。多くの場合は「即転向」というべきではないとしても、だ。

 

90年代とは?

 さて、では90年代の半ばとは組織的にはどんな時代だったのだろう?

梅 91年の5月テーゼでの「転換」を経て、気持ちは大衆運動に向かっていた時期だ。現場の要請などを受けて、色んな地域や産別の闘う人々との交流を深めなおしていた時。地域や産別の「絵地図」を描き、その中に中核派の存在が多少は入ってくる。そんな時にゲリラが起き、「軍報(実行声明)」がでると「まだこんなことをやってるのかよ」と思った。「中核派は変わっていないんだね」と言われて、色んな努力が無に帰すという思いが強かった。まして「対革マル」のせん滅戦などあると、もう最悪だった。「何を考えてるんだ」と怒鳴り込みたい思いがあった。「左派」を自称する人たちが今でも胸を張ろうとしていることには違和感が強い。

海 90年天皇決戦にはもう「党のガラス張り化」はどんどん進んでいて、労働者は自宅に住み、会議もそこで開かれた。94年の前進社の新社屋移転は色んな転換を一気に進めた時でもある。本社への出入りが最寄のバス停からの徒歩で良くなり、タクシー代が浮いた。本社からの帰りも同じで、車に乗って延々走ってわけの分からないところに放り出されることもなくなった。時には張り込み中の公安に逝く手を阻まれることもあったけれど、気にしない。時間的にも金銭的にも「もうだめ」「転換」という実感から生まれた変化だったと思う。

竹 地区常任の活動費も行き詰まってきた。地方では「遅配・減配」が相次いでいた。「県委員」でない「専従」の「活動費」が「無給」になり、やがて90年代後半には「常任」も減俸から(県からは)無給になった。人によっては自分が握る地区財政から自分の金をひねり出してもいたようだし、地区によっては労働者からの新しい「基金」で糊口をしのいだ場合もある。
 本社メンバーも結婚して近くに住んで自転車で通うことも生まれた。もちろん本社からバイトに出たりもする。人によって色んなバイトに関わり出した。これも「天田改革」だね。(この項つづく)