前同 転載します。

中野フラクについて

「荒川スパイ事件」は前記「中野フラク」絡みでもあるが、しかしまた「党の革命」以降のいわば「新地平」での事件でもある。貴ブログでの「両氏」との対峙も、両氏の「新地平」への無知・無理解への対応から導かれる「バイアス」にひきづられる側面には注意を喚起したい。
今回は「中野フラク」について少々。

このフラクが、政治局副議長に率いられたものである以上、少なくとも「公認」ないし「半公認」のフラクション(党員の半恒常的集合)であったことは前提だ。時期が異なるが、清水議長が主催する現場労働者の「諮問機関」が事実上「政治局」の上に立つ非公式機関になったことと対応する。

そのフラクの主たるメンバーに栗×氏はいた。各産別の指導部の一部と編集局などから選抜して構成され、政治局や政治組織小委員会(POSB)などの「党機関」を介さずに本社と交流センター・産別の現場に直接影響力を及ぼす陣形があったことは多くの人にとって当時も周知のことだ。
このフラクに荒川氏もいた。そして交流センター事務所から転落して死亡した荒木氏もいた。

『資料蒐集』がアップした「抜き書き」は資料価値としてはあまりにひどいが、抜き書きした本人か両氏が書き加えた[ ]部分には彼らの本音か思いが問わず語りに浮き彫りになる。以下引用する。

〔この種の権力への「情報提供」と「お金」の魔力、そして「階級闘争に絶望した」後の中野路線は本質的に矛盾はなく両立するのだと思う。〕

〔さらに「自己批判を深めよ」というような尋問・追及だったのかどうか、荒川の筆は自分をそういう裏切り・スパイ行為に及ばせた党内事情の歴史的詳述へと向かっていく。この領域においては、党の内情暴露的な様相を呈して、書いている荒川のある種の「高揚感」のようなものまで伝わってくる。〕

 〔荒川は、中野顧問の名代であるかのごとく、中野顧問の政策、行動、アイデア、などを紹介し解説し、その指導力に賛辞を送っている。そしてそれらを最もよく理解している者としての自分を誇らしく売り込んでいる。「どうだ」と言わんばかりである。
「新指導路線」を公調の担当者が庁内で説明したことを得意になって自分に報告した旨を荒川は書いているが、明らかに荒川自身が「それを伝授したのは俺だ」と得意になっている。〕

最後の「公調の担当者」云々はシロ説に立てばまったくの中央の作文だ。しかし「中野顧問の名代」云々は自称=エセ「左派」の共通認識でもありそうだ。とりあえず、「荒川憎し」の背景が浮き彫りになった。

両氏が鬼の首を取ったように荒川事件に飛びつき、あわせてあえて栗×事件を持ち出した理由はこのへんにあろう。
『敗北』本でほんの言い訳程度に語られる「高杉スパイ問題」に比べて分量ほかに極端な差があるのも、両氏がスパイ問題をそれ自体として語るより、「政略」ゆえに関わっている証左といっていい。
荒木氏についても触れておきたいが『争論』や『狂おしく』の記事を参照して欲しい。(労働者派)





ブログ注

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.偲ぶ会の記事
  622日、荒木淳d(本名廣海晶)が亡くなった。
  722日には交流Cによる「お別れ会」がもたれた。
  『前進』85日号に、教労委員会の追悼文と、お別れ会の記事。
『労働運動・8月号』で公表された田中氏(労組交流センター共同代表)と教労部会の二本柳氏の追悼の辞は、心に響くものがある。荒木dの人となりを伝え、在りし日の彼の姿を彷彿とさせる。