突破力




 かつては郊外の里山だったものを造成した分譲地はまだ空き地が目立つ。このところの東京周辺の宅地造成は驚くものがある。「戦争」が始まるまではこういう光景を見ることもなかったし、関心もなかった。それが、このところ必要に迫られて頻繁にお目にかかるようになった。こういう光景を見るにつけ、思い出されるのは敗戦でソウルから引き揚げて移り住んだ母親の郷里ののどかな山村の風景である。山があり、したがって川があり、こどもにとっては遊ぶ場所にこと欠かない自由な世界だった。ここにだってかつてはそういう世界があったにちがいない。
 あらためて周囲を見回す。周辺の取り付け道路は整備が終わり、一部見晴らしがきかないところもあるが、高いところに陣取れば周囲はほぼ360度見渡すことができる。いい場所を選んでいる、と男は思った。ドライバーは視野が広い大口径の双眼鏡で下の道路を見渡している。
 4月の暖かさを増した陽光が差し込み、汗ばむほど車内は温かい。

 こどもたちはみな裸。すっぽんぽんである。上流ゆえに両岸は切り立った崖になっており、川は眼下を蛇行している。ところどころに小さな砂州があり、こどもたちはそこに服を脱ぎ捨てて水遊びをしている。橋の上からなんということもなしにそうした光景を眺めていた視野に、つるんとした白い尻が飛び込んできた。その尻がポカッと浮き出た瞬間にのっぺりした裂け目が見えた。もぐりそこなって、尻だけが水面に浮かび上がったのである。いらい、ほんの一瞬だけかいま見たその裂け目は、男の潜在意識のかなり深いところに定着することになった。いまの妻との結婚にしても、その深淵を探ってみたいという動機がなければしていなかったかもしれない。だから、気を許して寝物語でその「白い尻」のことを問わず語りに話してしまった。あれは失敗だった。男としては、話すべきでことでなかった、と男は思う。
 同級生である妻は、卒業後に私立の女子校に就職した。70年代に入り内ゲバが激化すると、公安が学校に干渉を始め、周囲の妻を見る目が極端によそよそしいものになり、居づらくなった。理事長に離職を促されたときには、すでに保護者のあいだで問題になっており、自分の力ではなんともしようがないと校長がいうまでになっていた。同僚で彼女をかばうものはひとりもいなかった。妻は自分で小さな商社の事務員の仕事を探してきたが、こちらのほうは1年ともたずに辞めざるをえなかった。男は、組織に所属する弁護士を通して、弁護士事務所の事務員として働く場を用意した。

 敵対する党首を暗殺した日からあと、それでなくとも会う機会が限られていた逢瀬にさらなる制約が加わることになった。何カ月ぶりに会ったときに、男ははじめて妻のほうから迫られた。それまでは、そういうことをしなかった妻が、自分のほうから求め、あられもないほどの大声を上げ、腰を激しく使った。思い切り放出した。気だるい充足感とえもいわれぬ解放感があった。男は、深層で追い求めてきたあの白い尻の裂け目の深淵が、そこにあったことをこのときにはじめて知った。つぎの逢瀬でも妻は同じように激しく求めてきた。が、男は必死の思いでこらえ、かろうじて放出寸前に陰茎を抜いた。怒張した陽物は湯気を立てていた。直前でいきなり抜かれてしまった妻の深淵からも湯気が立っていた。物憂げなかすれ声で「心配しなくてもいいのよ。」と妻が声をかけてきた。男の抜茎を排卵日を恐れてのことだと誤解してのものいいである。目の前にいる女と結婚したことを、男は悔いた。師が実践しているように、有能な秘書をじっくり時間をかけて探せばよかったのだ。同じとはいわないまでも、男がやろうとしていることを理解するだけの能力の持主を待てばよかったのだ。そうしなかった結果がこのていたらくであり、すべてはあの「白い尻とほの見えた裂け目」がしからしめていることを呪詛した。
 前の逢瀬でことが済んだあとのことだった。「みんな志なかばで死んでしまうのね。」という妻が思わずつぶやいたことばが強力な制動力として働いていた。後ろめたさでもある。この間に死んでいった仲間を妻は知らない。妻がいう「みんな」とは、彼女が知っているごく限られた古い仲間である。しかし、この間に死んだのは20代前半の若い学生だった。いずれもあの割れ目の深淵を知ることなしに逝ってしまった。妻がいうとおり「将来社会の萌芽形態」をみることなしに、そういう意味では「志なかば」で。

 「きたようです。」運転席からの声で男はわれに返った。柄にもなく感傷的になっている自分がおかしかった。がらにもなくみょうな気分になっている己を振り切った。
 南北に通っている新しい道路の上手から姿を見せたグレーのライトバンが目に入った。車はゆっくりと下りてきて、眼下を通り過ぎ、しばらく進んだところで止まり、助手席からひとりの男が下りてきて左手をかざして造成地をながめている。「まちがいありません。」ふだんは融通が利かない男だと思うが、こういうときは頼もしく思える。左手をかざしたときは尾行は見当たらないというシグナル。右手をかざしたときは要注意のシグナルであると事前に決められている。その間、車はスイッチバックを始め、男が乗り込むのを待ってもときた道を引き返し、男がいる位置から見ると30度ほど前で止まった。すべて指示どおりに動いているのを確認し、双眼鏡を納めながら
「ではいきましょう。」
 車はゆっくりと坂道を下り、ライトバンを追い越したところで停止した。
 助手席から先ほど手をかざして眺めていた男が下りてくる。黒っぽいサラリーマン風の服にネクタイを締めている。上着の左胸のあたりをしきりに気にしながら前後を確認し、ドア越しに運転席に目顔で合図を送る。運転席のドアが開き、ドライバーが出てくる。その男が近づいてくるのを確認し、こちらのドライバーも外に出る。近づいてきた男は内ポケットから紙片を取り出しドライバーに手渡す。ドアを開け、戻ってきたドライバーはトランスミッションの上にある備え付けの灰皿のふたを開け、ライターで火を付ける。紙片がすぐに燃え上がり、灰になった。それを確認したドライバーがいう。
「移ってください。」
 その声を待って男はドアを開け、外に出た。
 ふたりの男が近づいてきて、両側から挟むようにうしろで待つ車にいざなう。ひとりが先に後部座先に乗り、男はそれにつづく。内懐から伸縮式の警棒を取り出し、床に置く。もうひとりの男が周囲を見回してから男の隣に割り込むように入ってきた。ドアを閉めロックし、同じように警棒を内懐から取り出して床に置いた。
「いきます。」
 車はゆっくりと発進した。




 6月にジャカルタで開かれた国際学連(IUS)執行委のおりとは状況が大きく変わっていた。前年の61年8月にはソ連が核実験を再開。4月に入ってアメリカが実験を再開し、このままいけばイギリスとフランスも追随し、世界中が核実験競争の渦に巻き込まれる様相を見せていた。そうしたなかで8月にレニングラードでIUSの第七回大会が予定されていた。
 革共同政治局はこの大会に向けて3つのことを決めた。ひとつは同じ時期に開催が予定されている東京の原水禁世界大会に対し全学連が米ソ両国の核事件に抗議する大衆行動を展開すること。これに呼応してモスクワの赤い広場でも示威行動をおこなうこと。レニングラードの大会ではソ連核実験擁護の執行委案を批判すること、である。
 難題は赤い広場でおこなう示威行動の中身だった。類例がないことだっただけにことは慎重を期す必要があり、計画が綿密に練られた。政治局からは鈴木が英語に堪能であることから選ばれた。全学連を代表して根本と高木がゆくことに決まったが、高木は別に行動することになった。IUS書記局に常駐している石井と連携して後方支援をするためである。念のためにということでロシア語を話せる学生が物色され、Kが追加された。デモをするのは3人。高木は石井とともに拘束されるであろう3人の救済に当たることに決まった。

 モスクワに着いた鈴木はホテルで外国人記者を捜した。デモといったところで赤旗に「全学連」と白布を縫いつけただけのものを持って歩くだけのことである。ほかの国なら取り締まりの対象にはならないだろうが、この国ではそうはならない。すぐさま、KGBが駆けつけてきて拘引されること必至であり、何歩歩けるかが勝負になることが予測された。それだけに、カギは、その様子を写真に撮らせて世界中に配信させることにあった。赤地に白なら、白黒写真でもハッキリと写る。漢字の「全学連」の意味がわからなくてもいい。そういう示威行動がモスクワの赤の広場でおこなわれたことを世界中が知ることが大事なのだ。事前の打ち合わせでは日本の通信社を候補に挙げたものもいた。が、本多は言下に「それはダメだ。」と切り捨てた。日本の通信社では発信力がない。APやロイターでないことには受け取るほうに相手にされないという。そう本多に主張されると異論を挟むものはいなかった。
 ロビーには所在なげに雑談しているそれらしい人間がいる。Kがいかにもヤンキーらしい陽気な人間と話を交わしている。親指と人差し指で輪をつくり、「脈あり」のサインを送っている。ふたりのところに近づくと、Kが「APの記者だそうです。」といった。ここで話すのはまずい。どこにKGBが聞き耳を立てているかわからない。握手を交わし、「ゼンガクレン」の代表としてきていることをいってから、「夏のモスクワは美しいとは聞いていたがきょうはまさにそういう天気だ。ついては時間があれば少し外の空気を吸ってみないか。」といってみた。それだけで察してもらえるとは思わなかったが、相手の男ほうは乗ってくれた。「ゼンガクレン」がきいたことはしきりに「ゼンガクレン」を繰り返すことでわかった。アメリカ人にしてみれば、この極東の敗戦国を騒がせている「ゼンガクレン」とはそもなにものなのか興味津々なのだ。
 歩きなら単刀直入に用件を話した。男はしきりに「ひじょうにおもしろい(very interesting)」を連発し、ぜひとも乗るという。細部の打ち合わせは彼らの部屋でおこなった。カメラマンには写真を撮ったらすぐに現場を離れてほしいと念を押した。配信するさいにはビラをまいたことにしてほしいこと伝え、案文を渡した。話は筆談でおこなった。その雰囲気に彼らも飲み込まれようで秘密を共有する共犯者の気分になった。打ち合わせは短時間で済んだ。

 予想したとおり、旗を広げ、ものの数歩も歩き出したところで制服が駆け寄ってきた。鈴木は目でカメラマンの姿を追った。フラッシュがたかれ、指で丸をつくりながらカメラを持った男の後ずさりしていく姿が目に入った。「勝った!」と思った。
 へたをすると十年、ひょっとすると二十年は拘留されることを覚悟しての行動だった。が、結果は意外なものだった。1週間の拘留ののち、「わが社会主義共和国連邦」の「平和を求める気高い理念」の名をもって3人とも釈放された。レニングラードに送られ、そこで待つ高木と石井に合流した。大会では、執行委員会のソ連核実験擁護提案に抗議し、凱旋帰国した。事前の計画は予想した以上の幸運に恵まれ、写真は全世界に配信された。




 60年闘争のカギとなる国会突入を前にしてのことである。ブントの労対責任者として黒田に電話した。動労青年部の部隊を登場させてもらえまいかと依頼するのが用件だった。結果は拒否された。が、電話で筆名を名のった鈴木に対して「森だけではわからんよ、マルクス主義芸術理論家森茂と名のりなさいよ。」と黒田にいわれた。ひとをくすぐらせるものいいである。このひとことで鈴木は黒田の掌に落ちた。モスクワから帰国すると、いっときの凱旋気分は党内のもめごとで吹き飛んだ。わけがわからいうちに議長派と書記長派に分裂し、組織は割れた。弟がそれにからんでいることは明らかだった。が、鈴木は黒田をとった。ブントからは数多くの活動家が革共同に合流したが、黒田に従ったのは鈴木をのぞけば根本ひとりだった。年功と知名度から書記長の椅子を与えられ、結党宣言を議長にかわって書いた。が、その椅子は荷が重かった。生来が書斎肌の鈴木は動く政治は得手でない。つまるところ、半分自分から身を引く形でその椅子を譲ることになった。それでも理論家として得手な分野で動けたうちは居場所があった。しかし、それができたのも68年まで。運動の激化にともない自前の印刷所をつくってからは、そこにしか居場所がなくなった。

 いままでの革マルにはいなかったタイプの活動家が出てきた。これが、男をめぐる一致した評価だった。とくに黒田の期待は大きいものだった。黒田が説く理論をなぞる「理論家」はいたが、彼が不得手とする経済学について進んで挑戦するものはいなかった。男は最高指導部のメンバーのひとりひとりの性格や得手不得手などをじっくり観察していた。そして、だれもが名のりでないのを見て、後退戦の先頭に立つことを買って出た。黒田が定めた党是に忠実に、他党派からは敵前逃亡と罵られ、下部から指弾されることにも怯まなかった。その突破力は党首の信頼をかちえるに十分なものだった。抜擢に次ぐ抜擢がおこなわれ、数年で先人を追い越し、実質的な指導権を確保した。気づくと、ことば遣いを含めた態度をもって鈴木の前で君臨していた。
 目の前では根本が踏み絵を突きつける。弟の情報を出せ、そうするのが「プロレタリア的人間の論理」のあるべき姿ではないかいう。この種の理屈をこねることが不得手なこの男にしては柄にもないことだった。膝詰めの談判はこれが二度目だった。その根本自身も踏み絵を迫られてのことである。つぎはないだろうことは、隣で腕組みをしながら黙って座っている男を見れば一目瞭然だった。鈴木がどう対応するかだけでなく、根本がどう振る舞うかも同時に監視しているのだ。
 振り返ってみると、革共同への合流が正しかったと確信できたのはあのあたりまでのことだったかもしれない、といまの鈴木は思う。こと芸術にかかわる理論については一家言があるという自負をくすぐられ、同様に理論家であると称する黒田とは波長が合うものだと錯覚したのがボタンの掛け違えだった。居場所はときの経過とともになくなっていた。気づけば上のほうで決められたことを活字にするだけの部署にいた。従業員として動員された学生を管理するだけの存在になっていた。かつては自分もそこにいた部署でなにが、どう議論されているのかわからないまま、ただひたすら活字を拾い、輪転機を回す作業に明け暮れる日々がつづいていた。
 少し考えさせてもらえまいかというのが精一杯の抵抗だった。しかし、それは抵抗といえるほどのものでないことはすぐに判明した。これまでの閲歴を考え、それに兄弟という事情を顧慮すれば、頭からは否定できないという手続の問題として42時間の猶予が形として与えられたものでしかなかった。いちど堕ちたからには世捨て人として生きるほかに術はない。問われるままに弟について知っていることをすべて話した。いちど話し始めると、いわなくてもいいことまで「自白」している自分に気づき、暗澹とした気分に陥った。救いはただひとつ。「心配は要りませんよ。必要なのは彼が持っている資料だけなんです。むろん、いきがかりから適当な教育的措置はしますけど。」という男の保証だけだった。
 男は約束を守った。
 本で読むイエズス会修道士はこういう男ではなかったのか、と鈴木は思った。だとすれば、勝負はやる前から決まったも同然然だった。「負けた。」と思った。
 弟が持っていた資料を奪ったことも、相手もやっていることであるからには非難されるいわれはない。しかし、男が書いた「軍報」の文体にはなじめない。というより、なんともいえないざらざらした違和感をおぼえた。その危惧はすぐに現実のものになった。〝ブクロ官僚一派への葬送の辞〟として書かれた論文がその危惧を裏付けた。「それを読む部外者を唖然たらしめるほど品が悪いものがある」と立花隆が指摘したものがそれだった。こういうお行儀が悪い文章を書かかせたら、男は天下一品であることを示した。




 なにをするのかについてはここにくる日までなにも教えてもらえなかった。前の日になってはじめて告げられた。そういうものだと疑問は感じなかった。
 二階にある事務所ではふたりの男が待っていた。キャップとおぼしい年かさの男が起ち上がり、「庶務課長の関口です。待っていました。」
 そういって握手を求められた。名を名のりながら握手を返すと、隣に立つ同年代の男が紹介された。
「きみと一緒に防衛を担当してもらうCくんです。」
 関口はくわしことはその男から聞くようにといったきり椅子に座り、机に向かってなにごともなかったかのように事務を執り始めた。それであいさつは終わりだった。入れ込んでいただけに拍子抜けした。その一方で、革命組織であるからには諸事につけこのように事務的であることが問われているのだとIは自分にいい聞かせた。
 校了には間があるためか工場で活字を拾っているひとの数はまばらだった。活字台にとりつき、活字を拾っている長身の男とCはなにやら話をしていた。話は簡単に済んだようでCは丁寧に頭を下げると戻ってきた。
「きりがいいところまで済ませるから休憩室で待っようにとのことです。」
 衝立で囲った休憩室で待つことになった。慣れているためかCはゆったりとソファに腰を落としている。が、慣れないIは緊張で落ち着かない。男が入ってきた。バネ仕掛けの人形のように直立不動の姿勢で起ち上がった。
「作業中だったもので待たせて済みませんね。区切りがいいところまでやっておかないと気持ちが悪いもんですからね。どうぞ楽にしてください。」
 Cが「工場長の鈴木さんです。」と男を紹介をし、ついで自分のことも簡単に紹介してくれた。男は被っていたタオルを無造作にとり、手をぬぐいながらもしっかりと相手を見て「鈴木です。」といった。反射的に差し出した右手を両手で包むように握られた。インキが爪のあいだにしみこんだその手は労働者の手をしていた。雲の上の存在として仰ぎ見ていたひとから面と向かって声をかけられ、吉本隆明に「若きマルクス主義理論家」として高く評価されたあの森茂に「一緒にがんばりましょう。」と両手で握手されたのである。党首がいう「プロレタリア的人間の論理」をこのひとは率先してやっている。そう思うとIは感激のあまり声がふるえた。

 ひと息つく暇もない緊張の毎日がつづいた。やることとおぼえなければならないことが多すぎた。着いたその日に見張りの不寝番をやらされた。息つく暇もなく、Cから数冊の地図帳を渡され、いくつかの課題を与えられた。行き先を示すコードの読み方と地図帳の使い方を頭にたたき込むことから始まり、S車と呼ばれる装甲を施した車の助手席に座り、ナビゲーターをやるという実地訓練もやらされた。OJTということばがいわれるようになった時期だった。ふつうの企業などでやられているとは思えないほど性急かつ激越な実務に就きながらの学習だった。
 Cはときおり激しく咳をした。顔色も悪い。まだ率直に尋ねられる関係にないので遠慮したが、どこかからだがよくないことは推察できた。ほかに代わるものがいないことから、気力で乗り切っているらしいことが伝わってきた。そう思って振り返ると、工場長を待つあいだもしきりに咳をしていたことを思い出す。工場長が吐いた「あなたを頼りにしていますからね。」ということばも気になった。単なるリップサービス以上の意味があってのことではないかと思った。とまれ、一日でも早くCに替わって車両班の責任をもてるようになることが自分に課せられた任務なのだと考えた。そう考えると、Cが必要と思われる以上に「教育」を急いでいることの意味も見えてきた。

 時間に追われる日々がひと月ほどつづいた。工場内の人間関係もうっすらとではあったが透けて見えるようになってきた。そういうある日、S車の点検を告げられた。理由は告げられなかったが、雰囲気から推してかなり重要なことであることが推察できた。段取りの打ち合わせを始めようとしたところでCが呼ばれた。できるところから先に始めていることを名のり出た。
 工場長は「わかりました。」といい、工場の隅にある倉庫に向かった。「火気厳禁」とある扉が開くと、印刷工場特有の揮発油の臭いが鼻をついた。
「これでいいと思います。」といって使いかけの溶剤を渡してくれた。
「揮発性が強いからくれぐれも火には気をつけてください。密閉したところで長いあいだ使うことはしないこと。それから気持ちが悪くなったら作業はやめてください。これは必ず守ってください。ウエスは棚にあるものを適当に使っていいです。」

 ガラスはすべて割れにくい風防ガラス、内側は視野を確保するために金網だが後部座席は鉄板で補強されている。要は運転者の視野を確保することなのだ。しかし、風防ガラスは傷つきやすいようで細かな傷に埃や油が付着していた。Cがいった点検とはこの汚れを取り除くことだと得心した。渡された溶剤を使って拭きにかかった。まっさらなウエスがすぐに油とほこりまみれになった。5つあるドアを全部開けておいても10分もすると気分が悪くなった。できる範囲で先にやっていますといったときにCが示した表情の意味が飲み込めた。あれだけ咳き込んでいるのだ。この作業はできることなら避けたかったにちがいないと思った。
 頃合いを見計らったわけではないだろうが、車の掃除が一段落しところでCが現れた。運転席に座り、ハンドルを手にして視野を確認する。
「いいと思います。」
「これはどうしますか。」
 使い終えたボロ布と溶剤を入れた段ボール箱を抱えてみせる。
「そうねえ。また使うかもしれないから荷台におくことにしましょうか。」




 車庫を出てものの5分もしなうちに大型トラックが現れ、先を塞ぐようにして止まった。
「きたか。」と思った。車を後退させようとしたところを間髪入れずうしろからトラックに退路をふさがれた。それでもCは脱出を試みようと車を前進させた。大型トラックをかわそうと急ハンドルを切ったものの縁石に乗り上げ脱輪した。後方から7、8人の男たちが得物を手に襲いかかってきた。Cはハンドルに覆い被さるようにしがみつきながら警報を鳴らしつづけている。
 男は時計を見た。9時10分を少し過ぎたところを針は指していた。周囲を見回すとまだ灯りがついている。すべてが想定の範囲内のことである。勝負はこの10分か15分、長くても20分を超えることはあるまいと確信した。
 運転席の窓にツルハシを打ち込まれ、たまらなくなったCが後部座席に待避してくる。時計を見る。5分は警笛を鳴らしつづけていたことになる。よく頑張った。助手席ではIが姿勢を低くしながら懸命に耐えている。いずれにしても耐えなければならないのはあと10分だ。それまで待てば敵は退散するはずである。条件を考えれば襲った側もそれ以上の時間はかけられない。
 後部に回った部隊の窓を打ち壊す音が響き、車が激しく揺すられた。壊せないと見てやけになって横転させようとしているものだと男は判断した。ここまでもったからには勝ったも同然だと思った。ツルハシが打ち込まれ、穴が穿たれた。激しい打撃を受けて鉄板を止めていた螺旋が緩み、風防ガラスとのあいだに隙ができたためだろうとみた。あとで対策を考えなければならないことだ。車の外では指揮官とおぼしい男の声がなにやら叫んでいる。と、穴から筒状のものが差し込まれ、床に落ちた。激しい煙と同時に花火のような火が噴きだした。2本目は差し込まれたまま猛烈な火を噴射し、天井に張られた化学繊維に引火した。と同時に荷台から火が吹き上がった。
 天井の張り物に火がついたまではわかる。が、荷台から上がった炎は?
 どうしてそうなったのか。その理由だけはわからなかった。
 熱さを感じる前に呼吸が苦しくなり、意識が薄れていくのをおぼえた。その瞬間、男は謀略だと思った。それにしてもなぜ? と不審に思いながら足元に視線を移した。両側からふたりの人間に覆い被さるような格好で庇護されている男の視線の先を、炎をともなった液体が這っていく。むき出しの床に螺旋止めした鉄板の隙間にその液体は吸い込まれるように流れ込み、あとを追って炎が落ち込んだ。
 男は死を意識した。多くのことが頭をよぎった。

 敵党首の暗殺は議長の至上命令として打ち出された。協議は紛糾した。積極的に反対を唱えるものこそいなかったが、予想される反撃を測りかね意見を集約するのに時間がかかった。相手の内情について熟知しているわけでない。そうであるのに、このたぐいの議論は無意味である。至上命題として命じながら党首は例によって会議に顔を出さない。議長不在の会議である。勢い、議論を主導する責任は男の肩にかかった。最終的な断を下す議長が不在のまま、議論はいたずらに時間を費やすことになった。最終的には党首に直筆の書簡を書いてもらい、その権威を借りて全員の意思を集約させた。綿密に検討した策戦は敵の弱みを突いたものであり、図に当たった。敵は首謀者の名を挙げて報復を宣言した。指名された3人のガードを固めるための作業に追われることになった。主要メンバーのガードを固めた分だけ被害は周縁に拡大した。それ相応の犠牲は想定の範囲内のことだったが、数の拡大は組織の動きを痩せさせた。中途半端な停戦工作も頓挫した。負のスパイラルに陥ったことを知らされた。乾坤一擲といえるなにかの策を講じる必要に迫られた。こういうときこそ攻めに転じないことには組織はもたない。そう判断して反撃に転じなければと考え、もうひとりの敵将の謀殺を指示した。その策戦が動き始めたときに、水本潔が水死したいう報知が届いた。
 1月6日ひとつの水死体が江戸川に浮かんだ。所轄の市川署は警察医立会のもとに死体の腐敗の状態から推して死後1週間から10日と判断した。同署では指紋を採取しようとしたが長時間水に浸かっていたための指がふやけており、採取用インクがのらず採取できなかった。外傷などが見当たらないことから覚悟の入水自殺と判断し火葬場へ運ばれた。翌日、市川署の鑑識課係員が火葬場へ出向き、シリコンラバーを使って指紋を採取したあと死体を火葬した。指紋照合により水死体が水本であることがわかり、家族に連絡したのは発見から10日後のことだった。すでに火葬に付していることから鑑識主任は遺留品を示すとともに遺体の写真を見せたところ変わり果てた息子の写真をを見せられた母親は「これは潔じゃない。」と叫んだという。
 動顛した母親が変わり果てた息子の写真を見せられ、現実を直視できずに叫んだ可能性は否定できない。が、肝心なのことは市川署が死体を火葬してしまったところにあった。組織の総力を挙げての謀略論を展開することに決まった。松崎を説得し、動労を巻き込み、国会対策と知識人対策に奔走した。緩慢だった動きに弾みが出てきた。すでに進められていた解放派幹部笠原の謀殺については忙しさにかまけて担当部署にあずけ謀略論の指揮に専念した。策戦は予定どおり進められ、笠原謀殺は成功をした。が、彼らの反撃を甘く見たのは誤算だった。

 荷台が燃えているのがわかった。「自分の責任だ。」と思った。「また使うかもしれない」といわれ、安易に荷台においてよいといったCに同意したことをIは悔いた。多少経験にいおいて勝るとはいえ、相手は同じ年であるだけでなく病人なのだ。中央の最重要部署に場を与えられ、働き始めてからまだひと月しか経っていない。このまま死ぬのはなんとも悔しいと思った。工場長のインキがしみこんだ手が頭をよぎった。

 カギは動労なのだ。時間に追われていたからといって原稿を書く時間をとらなかったことが悔やまれた。いよいよということになれば印刷所で書けばいいと考えたことの失敗だと思った。前にやれたからといって、状況を考えれば同じようにできる保証はない。一年前に襲撃されたことを軽く見過ぎたことも。
 意識を失う前に男の脳裏に浮かんだのは、水面からぽっかりと浮がび上がった少女の白い尻だった。




 臨時にしつられたとおぼしい死体安置所には、一見するとは誰であるか判別できない4つの真っ黒な遺体が並んでいました。私には右端のものが彼であることがすぐにわかりました。ほかの方たちも同じだったようで関口さんのおかあさんは迷わず関口さんの遺体に向かって「誠司。」と叫びました。遺体にすがりつき、ほんとうに悲しいときにはひとはこういう声を上げるのかと思いました。まさに慟哭ということばのほかに表現しようがない声でした。
 事件の翌月に人民葬と称する集まりがおこなわれました。一連の謀略を糾弾する集会だとのことで遺族を代表する形で水本さんのおかあさまと私が壇上からあいさつすることになりました。これまでに何度となくこのたぐいの集会に参加したことがあります。しかし、それは客席からのものであって壇上に上がるのははじめてのことでしたので戸惑いました。彼が私になにをしゃべることを期待するだろうかなどといろいろと考えてみましたが、まとまらないまま当日を迎えました。会場の裏手にある控え室では水本さんのおかあさまにはじめてお会いしました。大変緊張していらっしゃるようでした。ごあいさつはしましたが、どう声をかけてよいやら見当がつきませんでしたのでそれ以上はことばを交わしませんでした。集まりが始まり、椅子に座ってからは文字どおり針のむしろの思いでした。水本さんのおかあさまも同じだったと思います。おかあさまは「水本の母でございます。よろしくお願いします。」とおっしゃっただけで椅子に座られました。私としてはいろいろとお話ししたいことがあったはずでしたが、いざ何百人ものひとを前にすると口の中がからからになり、水本さんのおかあさまと同じようにいうのが精一杯でした。

 彼は問題に直面しても逃げない人でした。必要とあればどこへでも行きました。なにか大きなことがあると、その中心に彼が入っているだろうといつも思っていました。事態を知ったとき、「もしかしたら彼が入っているかもしれない。」ととっさに思いました。その一方で彼は大変慎重なひとで、交通事故にあわぬようにとふたり一緒のときには離れて歩くようにするひとでした。無意味な死に方は絶対したくないと考えるひとでした。身元確認のために警察署にいったおりに工場長の鈴木さんから事件の一年前にも同じようなことがあったというお話をお聞きました。そのときは間一髪難を逃れたということでしたが、なぜそのような危ないところに普段はあれほどまでに慎重だった彼がいったのかが気になるようになりました。
 編集作業で頻繁にお付き合いするようになった方にそれとなくお尋ねして謎が解けました。機関紙の号外を出す予定だったとのことでした。いつもなら原稿を渡すだけ済むはずのころですが、あのときは彼の原稿が遅れたために印刷所で泊まり込んで間に合わせざるをえなかったとことでした。彼らしくないと思いました。しかし、前にもいちどだけですが同じようにして原稿を間に合わせたことがあったことを聞き、それほど彼の肩に全部がかかっていたことを知りました。ひと一倍責任感が強いひとでしたから得心はしましたが、それほどまでして守らなければならいものだったのかということになると、私にはわかりません。ついていけなくもなります。
 ついていけないといえば、「みんな志半ばで死んでしまうね。」と私がいったときのこです。彼は「場所的に考えねばだめだ。ボクは死んでいった人たちのことが忘れられない。」といいました。「場所的」という言い方は彼のというよりもあのひとたちの慣用句です。そもそもわかりにくいことばですが、私にはこういうときに使われると意味がわからなくなり、ますますついていけなくなります。
 振り返ってみると、私たちが夫婦といえる生活をした期間は何年もなかったように思います。それでも平和だったときにはこどものころのことなどを話してくれたりして、それなりに楽しかったし、思い出すこともたくさんあります。その一方で、いま考えみると、すれ違いの芽はそここにありました。
 私にはよく哲学論争をふっかけてきて閉口しましたし、私があまり勉強しようとしなかったことも彼は不満だったろうと思います。彼は「我々のノート」というノートをつくり、自分の思索の結果をつづったものを私に渡すのですが、私にはわからないことばかりで私が書くものとはまったく噛み合いませんでしたので、いつの間にかやめてしまいました。部屋が散らかっていたり、私がなにもせずにごろごろしていたりすると「離婚したいほど嫌だ」といわれたことがありましたし、私がお金の計算をしていると「くだらないことに時間をかけているなあ。」といわれたこともありました。
 母親にはかなり前に「覚悟しといてくれ。」といっていたようです。水本くんのおかあさんの話をしたときのことですが、「自分が死んだら誰が夢を見てくれるかなあ、母はきっと見てくれるよ。だけどあんたはダメだね。」といわれました。
 いわれたそのときはあまり気になりませんでした。が、こうして彼が逝ってから15年も経ってみると「あのひとはなんで私と結婚したのか。」と考え込むことばかりが思い出されます。
 こどもをつくらないというのは納得ずくでしたことでした。いまになってつくづく思うのはそれで正解だったと思います。私はふたり姉妹であっただけでなく中学も高校も私立の女子校でしたし、大学を卒業してから就職したのも女子校でしたので男の子との付き合い方をほとんど知らないできました。もしこどもができたとして、女の子ならなんとかやっていける自信がありますが、それが男の子だとするとどう接したらよいのか見当がつきません。ましてや彼のようなこどもだったらと思うと、どうしたらよいものかまったくわからないからです。彼や水本さんの母親のようにできる自信もありません。じじつ、いまの私は彼の夢を見ることがありません。

 人民葬の話と同時に彼の著作集を出すというお話をいただきました。活字になったものがあるので、それらをまとめて一周忌までに出す。もうひとつ古いノートや手紙などをまとめたものも出したいということでした。そのお手伝いだけは私にやらせていただきたいとお願いしました。浄書に一年ほどかかりましたが、おかげで血なまぐさいニュースを耳にせずに済みました。こちらのほうは一周忌には間に合いませんでしたが、三周忌に彼の家族とお会いしたときに私が寄せた文章について「あなた方ふたりの暮らしぶりがわかり久しぶりに楽しませてもらったわよ。」と彼の母親からいわれ、苦労したことが報われたと思いました。彼の著作集ができ上がるまでは、血なまぐさいことがあっても意識的に目をふさぐことでなんとか過ごせました。しかし、その作業が終わり、彼の三周忌を済ませてしまうとそうはいかなくなりました。彼のときは三人でしたが、そのあとに5人いちどきに殺されたというのに、メディアは騒がなくなりました。
 勤めていた学校に居づらくなり、辞めたあとは彼の紹介で弁護士事務所に仕事を見つけてもらいました。ふつうの弁護士事務所でないことは予想していましたが、私のようなノンポリがいられる場所ではありませんでした。彼の仲間で投獄されているひとたちからは事務所宛に検印が押された手紙がきます。いちどきにくる数はさほど多くはないのですが、中身によっては急ぐ必要があるものがあるようで、そうしたものも含めてYさんが全部目を通したうえで私が青焼きをとります。いまのように便利なコピー機が普及していなかった時期だったので数が多いときには半日仕事になることもありました。私は教員以外の仕事したことがありませんでしたから、最初からお茶汲みや電話番をやるつもりでいましたのでそういうことで不満があったわけではありません。ここは私のいるところではないと思ったのは、Yさんだけでなく事務所にいるひとのすべてが私とは別の世界のひとだと痛感させられたことでした。弁護士の渡邊さんとは学生時代に面識があり、気安く話しかけてもくれるのですが肝心なことになると私だけが外されました。で、本ができたのを機に辞めさせていただきました。新しい勤め先には公安の刑事さんがきました。が、それも1、2年のことでいまはふつうの暮らしができるようになりました。彼が生きていたらどういうかわかりません。でも私にはいまの平穏な生活のほうがあっているのではないかと思っています。彼の妻であったときを忘れたいとは思いませんが、かといってことさらに誇るつもりにもなれません。できることならこのまま誰に知られることなく生きてゆければと考えています。




 20世紀も残すところあと数年で終わる。モスクワの赤い広場でデモをやったときから40年経ったいま、考えてみるとあのころだけが華だったのかもしれないという気分に駆られる。日本での常識に照らしてもそう簡単に釈放されるとは思えなかった。それが、わずか1週間足らず拘留されただけで無罪放免になった。
 フルシチョフ体制は万全だと思われていた。じじつ、『イワン・デニーソヴィチの一日』は62年末に国内で公刊されていた。ただし、それは表面的なことで、内実は崩壊の危機が裏側で進行していた。そのことを世界が知るのは著者が国外での公刊を決意した『収容所列島』の公刊を待たねばならなかった。本はパリで公刊されるや時間をおかず邦訳された。ことはそれほど深刻であり、ソ連がどこにいこうとしているかは世界中の注目を集めていた。にもかかわらず、その前後の10年ほど、私には本を読む時間がなかった。指導体制から外されているとはいえ、機関紙の印刷をあずかる位置を与えられている身にあって、そういした余裕がなかったのである。
 いくらか時間に余裕がもてるようになったときには『列島』の全巻が文庫版で訳出されていた。それを読んで、拘留されたところが有名なルビヤンカであることを知った。そこでは拘束されたものだけでなく取り調べにかかわるものも含めてすべてが人格をもたない世界が支配していたこともあらためて知らされた。
 同書によると、拘束されたものは身につけたものの全部をはぎ取られ、つづいてからだじゅうの穴という穴をすべて調べられた。それが終わると、ボックスと呼ばれる畳一畳の広さもない箱形の房に入れられ、取り調べを待つ。取調室はボックスに比べれば広いがそれでも2㍍×4㍍ほどのもので、机と椅子が一脚づつあるだけの小部屋である。被疑者はそのボックスと独房を往復しながら調べを受けることになる。そこで書かれていることはすべて私が経験したものだった。
 夢中だったことに加えて拘留が短時日だったこともあって、私はそうしたことのすべてを忘れていた。A・ドルガンが書いたものは、忘れていたことを私に思い出させた。
 ドルガンの場合はアメリカ大使館員の身分をもつとはいえ、ロシア国籍ももっていた。が、私の場合はそうではない。KGBの大佐に対して私はもっぱらそのことを主張した。互いにおぼつかない英語をもってしての会話である。それでも彼がいうことはわかった。要は、「反ソビエト扇動およびプロパガンダ」について規定されている国事犯事項の80条の10に該当するというのだ。無茶苦茶な論理だった。そう考えて反論したが、押し問答にもならなかった。そういうことになっているからそうなのだと言い張るのみで議論にならないのである。かくしてドルガンは15年の懲役刑に処せられ、刑期を終えてからも流刑され、つごう20年の拘留生活を強いられた。あのアメリカの大使館員がである。
 ドルガンの回想記を読んで慄然とした。アメリカ大使館員ですら20年だったとすれば、日本人のわれわれはどうだのか。写真は撮ってもらっていたし、世界中に配信されていた。おりからの国際世論も追い風になっただろうことは予想できる。が、しょせんは小国日本の極小政党がやる救援活動である。1年や2年で釈放されるとは思えなかった。あれが2年あとだったら、まちがいなくそうなっただろうと思う。しかし、もしそうなったとすれば、スターリン体制以外の時期にかの「収容所列島」を経験した唯一の日本人ということになる。そうすれば、私の人生は全く別のものになったにちがいない。私が「革命家たりうる度胸も節制も持ち合わせていない」ことが証されたいま、貴重な経験をした一表現者としていきるのもけっこう楽しかったかもしれない。
 このように「もし」と考えると、想念がめぐった。私たちの救出をよそに内輪もめがされたとは思えない。だとすれば、組織の分裂はなかった可能性がある。もし、分裂が不可避だったとして、どちら側の組織が私たちの救出のために動いたんだろうかとも思う。

 弟の訃報に接しながら、私は葬儀には顔を出さなかった。出さなかったというよりも、出せなかったのである。組織が分裂し、書記長に就任した段階で私は親兄弟の縁をすべて断った。そのことで実家からなにかいわれることはなかた。が、弟を売るということになると話は別になる。弟を襲撃した情報が私から出ていることは養家で知らぬものはない。実家でも同じである。そうした条件があるなかで、顔を出すわけにはいかなかった。会葬の通知は昵懇の仲だった弟の妻を通じて私の妻の手元に届いていた。しかし、一周忌のあとに妻が出したはがきに返事はこなかった。妻はしばらくは賀状を出していたようだった。それにも弟の妻からの返事はなかったようである。
『収容所列島』には、党と国家の方針を信じて肉親をKGBに売り渡した例が活写されている。そのようにしたのは貧しいロシアの無学なひとたちだけではなかった。党の要職にあるものほど生き残るために妻を売り、夫を売った。身を守るためにそうしなければならなかったとして、そのようにして守ったものを抱えて生きる残りの人生とはなんであったのか。やった当人はいい。だが、巻き込んでしまった妻はどうなのか。そう考えると、私の犯した罪は深いし重い。いちど堕ちたからには、底まで堕ちないことにはなにをしようにも始まらない。いまの私はそう考えている。了。(2010/2/21